思い出乞ひわずらい

水城真以

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十八、

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      *

 久しぶりに会った勝蔵に脇息を投げつけ、怪我をさせた。そのことに最も動揺したのは、奇妙丸本人であった。


(違う……驚いただけだ……あやつは無骨者ゆえ……いきなり部屋に入ってきたりするから……)


 震える掌から目を反らし、奇妙丸はどうにか自分の心を偽ろうとした。
 小牧山に戻ってきてから、父含め、ほとんど人と会っていない。毎日まともに顔を合わせているのは、帰蝶くらいのものだった。きっと、帰蝶以外の者に会ったのが久しぶりで、力加減ができなかっただけなのだ、と信じたかった。
 眠れない夜を、幾日も過ごした。目の下に隈を浮かべ、褥から出る。まだ、陽も登っていない。小袖を羽織ると、奇妙丸はぼんやりと戸を開けた。雪景色も相まって、庭一面、灰色に見えた。
 戸を閉め直し、部屋に戻る。また床に戻る気にもなれず、文机に座り直した。机に肘を預け、なにもない壁を、ただぼんやりと見つめていた。


「若!」


 小さな声だった。微かな、気を反らしていたら、聞き逃していただろう声――。冬化粧のような、軽やかな声に、奇妙丸は驚いて振り返った。先程しっかり閉めたはずの戸が開き、隙間からくりくりとした蘇芳すおうの双眸が覗いていた。
「お、せ、ん……」
 擦れた声で、ようやく少女の名前を呼ぶ。桃色の小袖姿の於泉は、奇妙丸に飛びついて来た。
「若、お帰りなさい!」
 無邪気な笑顔。以前であればそれほど心和む相手もいなく――その背に腕を回し返していたはず、



 だった。




 しかし、金縛りにでもあったかのように、奇妙丸は腕を動かすことができなかった。
「なら、ぬ」
 奇妙丸は声を絞り出した。
「汚れてしまう」
 と、奇妙丸は一言、ようやく発した。
「あ、ごめんなさい……」於泉がしょんぼりと肩を落とした。「手、洗ってないから……」
 於泉は、獣道でも通って来たのだろうか。髪や肩に、蜘蛛の巣や埃をつけていた。武家の姫にふさわしい出で立ちではない。

 しかし、汚いのは於泉ではない。

「儂が、汚い」
 すると、於泉は不思議そうに首を傾げた。
「若が? 若の一体どこが汚いと言うの?」
 於泉は心底不思議そうに首を傾げると、奇妙丸の両手を握り締めた。温かく、やわらかい掌であった。
「若は、汚くなどない。相変わらず、綺麗だよ。やっと会えた。泉は、とーっても嬉しい!」
 弾けるような笑顔。奇妙丸はようやく肩の力を抜くことが出来た。

(この笑顔に……会いたかった……)

 不意に於泉が心配そうに眉を下げた。
「若、どうしたの? 怪我、したの? 大丈夫?」
 於泉の問いかけに、咄嗟に答えに詰まった。


(京で慰み者になっていた)

(体中触られて、思わず抵抗した挙句、将軍候補やその側近達によってたかって殴られた)

(誰も守ってくれなかった。――父や、織田おだ家の者達でさえ)


「……落馬、して」
 本当のことなど、言えるわけがなかった。於泉にだけは、言いたくなかった。知られたくなかった。
「帰り道で、儂が一人で馬から落ちた」
 於泉の顔が険しくなる。いくら於泉が奇妙丸よりも子どもでも、まさかこの言葉を鵜呑みにしてはいないだろう。だが、於泉にだけは――汚らわしい、などと思われたくなかったのだ――。
(これ以上は、聞かないでくれ……)
 念を込めると、通じたのだろうか。於泉は「痛そう」と、言っただけで深く追求してはこなかった。
「それより、於泉はひとりで来てくれたのか? まだ、夜も明けきっておらぬというのに。危ないではないか」
「ううん、泉一人で来たわけではないの。兄上と一緒に参ったの」
勝九郎しょうくろうと――」
 後ろで、床が軋む音がする。勝九郎が来たのだ。入口の前で居住まいを正し、黒絹糸の髪が輝いているのが見える。


『大儀じゃ。よう来たな。約束通り、戻って来たぞ』


 笑顔を、向けたいのに。



(息が、できぬ)



 奇妙丸は胸を掻き毟った。皮が裂け、爪と指の間に、肉が入り込んだ。






「あああああぁああああああ!!!!」






 無意識に、硯を掴んでいた。於泉の悲鳴とともに、顔を上げた勝九郎の額が割れた。
「兄上!」
 於泉の悲鳴とともに、勝九郎の蟀谷こめかみから血が流れ落ちる。於泉がなにかを言う前に、勝九郎が於泉を制した。だが、奇妙丸は次々と筆や墨に手を伸ばし、
「来るな、来るな!! あっちへ行け!!!!」
 と、獣のような咆哮ほうこうを上げた。
「若! やめて! 兄上が怪我をしてしまう!!」
 於泉がしがみ付いてくる。最初こそ突き放したものの、於泉は負け字と奇妙丸に抱き着いて来た。
「お願い……! 若……兄上を、いじめないで……!」
「いじめ、る……?」
 於泉の言葉に、頭が冷えた。

 いじめ、と於泉は言った。

 勝九郎は、奇妙丸に逆らえない。奇妙丸が主家の若君で、勝九郎が家臣の子だからだ。どれだけ親しく、友と呼び合ったとしても――両者の関係性が変わることはない。逆らえない立場の勝九郎を、奇妙丸は一方的に痛めつけたことになる。

「俺も……あの男と……同じ……」

 奇妙丸はその場に膝を突く。包帯が巻かれた掌に、赤黒い血痕が浮かんで見えた気がした。
「若……」
 於泉は奇妙丸を抱き締めた。視界が桃色で染まっていく。
「泉は、ここにいる。若の傍に、いるから……だから、お願い……行かないで……!」
 於泉は奇妙丸の頭を抱き締めながら、泣きじゃくっていた。
 勝九郎の顔を、怖くて見られない。そして――呆然と立ち尽くしていた勝蔵の顔も、思い出す勇気がない。
(きっと2人とも……儂に幻滅しておろう……そうに決まっている……)
 奇妙丸は、於泉の腕にそっと爪を立てた。きっと痛いだろうに、於泉は悲鳴ひとつ上げなかった。
「……於泉……」
「なぁに?」
「お前は、俺を裏切らぬか?」
 勝蔵も勝九郎も、奇妙丸を裏切ったわけはない。ただ、幻滅しただけだ。こんな情けない男に、将来2人は仕えなければいけないのだと、己の不運を嘆いているのだろう。
「裏切るわけ、ない」於泉の声が震えた。「絶対、若と一緒にいるから。信じて……」
 奇妙丸は安堵したように、於泉の体に倒れ込んだ。
(於泉は、女子だから……儂を裏切ることはない……家臣では、ないから……)
 奇妙丸はようやく両目に溜まった涙を、床に零した。
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