7 / 26
七、
しおりを挟む
はじめて会った時から、まるで他人のように思えなかった。
実の兄弟達すら、奇妙丸を他人のように、そして厳かに扱う中で、その子どもは違った。
だから、奇妙丸にとっても――その子どもはかけがえのない、生涯守りたいと思う存在になったのだ。
◇◆◇
「兄上えええええええ」
いつもなら鈴が転がるような声が、今日は陶器が割れたような鋭い悲鳴を上げた。奇妙丸と勝九郎が揃って顔を上げる。すると、於泉はぎゃんぎゃん泣きながら、勝九郎に飛びついていた。
「ど、どうしたんだ、於泉?」
勝九郎が理由を問いかけても、於泉は泣くばかりで返事をしない。勝九郎の肩が涙を吸い込んで重たく色を変えた。
「於泉、如何したのじゃ?」
奇妙丸が優しく、聞き直す。すると於泉はしゃくり上げながら、ゆっくりと顔を上げた。蘇芳の瞳が赤身を増し、鼻の色まで赤くなっていた。奇妙丸は於泉の頭を撫でながら、もう一度「どうした?」と、問いかける。少し前まで、於泉は勝蔵と珍しく和やかに話していたようだったのだが。
「しょ、勝蔵殿がっ」
於泉は肩を震わせながら、たどたどしいながらも訴えようとしている。奇妙丸は辛抱強く、於泉が泣いている理由を話すのを待った。
「勝蔵殿が、おぞましきものを食わせて来たの……ッ」
おぞましきもの――というのが一瞬分からなかった。しかし、於泉が必死で伝えた情報を繋ぎ合わせると、そのおぞましきものとやらの特徴は、
・味は、苦くて生臭い
・4つの脚がある
・真っ黒に焦げているが、形は蛇のようでもある
・そして焦げているのに、目がどこにあるかも分かる
というものであった。
(あれか……)
奇妙丸は沈痛な面持ちを浮かべかけたが、今は勝蔵を叱りつけるよりも、於泉をなだめるのが優先である。
「於泉、それはな、おぞましきものではない。イモリの黒焼きという」
「イモリ!? って、あの!?」
於泉が目を真ん丸くした。
「前に父上が籠に入れたのを見せてくれたことがあっただろ?」
勝九郎の言葉で、於泉の顔色がますます青白くなった。
「イモリの黒焼きは、滋養にいいし、食べると健やかになる。そなたは昔、体が弱かったというから、勝蔵なりに気遣ったのであろう」
勝蔵なりに於泉と親しくなろうという涙ぐましい努力があったのは想像に難くない。
ただ、ひとつだけはっきり言えるのは、
「勝蔵に悪気はないのじゃ。許しておやり」
ということだった。
奇妙丸にしてみれば、もうこれでこの話は終いになるはずだった。もう一度、と伸ばした掌から、於泉が離れた。逃げられるとはまさか思っていなかったが、於泉の顔を見ると、奇妙丸はなにも言い返せなかった。
「……もうやだ」
於泉がはらはらと涙を零しながら、勝九郎の背に隠れた。
「もう、家に帰る~~~~~~」
勝九郎の衣は、屋敷に帰るまでの間に元の色が分からないほど濡れてしまった。奇妙丸がなだめようとしても、於泉は兄の傍を離れようとしない。赤ん坊のようにギャンギャン泣くばかりである。
そして――その日を境に、於泉は「病で寝込むようになってしまった」。
奇妙丸の屋敷から遠ざかるようになってしまったのである。
***
小牧山城下、池田屋敷――。
ごんっ、と額を打ちつける音が響く。
「い……っ!」
ずきずきと痛む箇所を摩りたいが、その患部である額が床にめり込んでいてはそれもかなわない。
ぐぬぬ、と唸りながら、勝蔵は心の中で「親父のばーか!」と父を罵倒した。その気持ちは可成にも伝わってしまったのだろう、後頭部を押さえつける可成の掌にますます力が籠った。
「すまん、勝三。うちのバカが、一の姫に――」
イモリの黒焼きを食べさせて以来、於泉は奇妙丸の屋敷に来ることはなくなった。
イモリの黒焼きは滋養強壮にいい。もともと病弱だったという於泉にはいいだろうと思ったのだが、於泉は吐き出した上に暴言を吐いて逃げてしまった。
ちなみに於泉はというと――あれから本当に寝込んでしまったらしい。
てっきり勝蔵を避けるための方便かと思いきや、今も熱を出して布団から起き上がれないのだという。
恒興は「いやいや」と困ったように笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「あれでいて、姫は世間知らずで臆病なところがありますからな。――あと3日もすれば、また元気に走り回ることでしょう。勝蔵も、あまり気に病む必要はない」
恒興がそう言うと、ようやく可成の拘束が緩み、勝蔵は顔を上げることができた。
「だが、姫はいまだに若のもとをお訪ねになられていないのだろう」
可成の眉間に皺が寄り、恒興も同じような顰め面をした。
普段の気さくな父達からは程遠い、まるで槍の稽古をしている時のような気配に、勝蔵は小さく身震いする。恒興の傍に座していた勝九朗も、わずかに顔面を蒼白させていた。
「勝九朗」
子ども達の気配を察した恒興が勝九朗を振り返った。
「勝蔵を於泉の部屋にお連れしなさい」
「お、於泉の部屋にですか?」
勝九朗は困惑したように首を傾げる。
「於泉が、勝蔵と会うでしょうか? あれは頑ななところがありますし」
「会う会わないは、我々が決めることではないだろう」
「会いたければ会うだろうし、会いたくなければ会わない。そういう者だ、於泉は。いいからものは試し。連れて行ってみろ」
「……なんだか」
「池田殿――まるで、俺達を追い出したいみたいな言い方するんですね」
勝蔵にとっては、息をするような何の気なしな一言であった。しかし次の瞬間襟首を持ち上げられると、勢いよく濡れ縁の向こうに放り投げられたのである。
勝九郎が慌てて追い駆け、介抱してくれた。勝蔵は転んだ表紙に頭のうしろを地面に思い切り打ち付けていた。きっと夕方には、瘤が誕生していることだろう。
「いいから、土下座でもなんでもして許しを乞うてこい、馬鹿息子!」
可成はそう言い捨てると、ぴしゃりと戸を閉めた。
「ちくしょう……」
勝蔵は、ぎりりと歯を噛み合わせた。
「……とりあえず、於泉の部屋に行ってみるか? 会えるかは分からないけど」
勝九郎が恐る恐る問いかけて来たので、勝蔵は頷いて見せた。そして、少し離れたところで、「くそ親父め」と、吐き捨ててみるのだった。
実の兄弟達すら、奇妙丸を他人のように、そして厳かに扱う中で、その子どもは違った。
だから、奇妙丸にとっても――その子どもはかけがえのない、生涯守りたいと思う存在になったのだ。
◇◆◇
「兄上えええええええ」
いつもなら鈴が転がるような声が、今日は陶器が割れたような鋭い悲鳴を上げた。奇妙丸と勝九郎が揃って顔を上げる。すると、於泉はぎゃんぎゃん泣きながら、勝九郎に飛びついていた。
「ど、どうしたんだ、於泉?」
勝九郎が理由を問いかけても、於泉は泣くばかりで返事をしない。勝九郎の肩が涙を吸い込んで重たく色を変えた。
「於泉、如何したのじゃ?」
奇妙丸が優しく、聞き直す。すると於泉はしゃくり上げながら、ゆっくりと顔を上げた。蘇芳の瞳が赤身を増し、鼻の色まで赤くなっていた。奇妙丸は於泉の頭を撫でながら、もう一度「どうした?」と、問いかける。少し前まで、於泉は勝蔵と珍しく和やかに話していたようだったのだが。
「しょ、勝蔵殿がっ」
於泉は肩を震わせながら、たどたどしいながらも訴えようとしている。奇妙丸は辛抱強く、於泉が泣いている理由を話すのを待った。
「勝蔵殿が、おぞましきものを食わせて来たの……ッ」
おぞましきもの――というのが一瞬分からなかった。しかし、於泉が必死で伝えた情報を繋ぎ合わせると、そのおぞましきものとやらの特徴は、
・味は、苦くて生臭い
・4つの脚がある
・真っ黒に焦げているが、形は蛇のようでもある
・そして焦げているのに、目がどこにあるかも分かる
というものであった。
(あれか……)
奇妙丸は沈痛な面持ちを浮かべかけたが、今は勝蔵を叱りつけるよりも、於泉をなだめるのが優先である。
「於泉、それはな、おぞましきものではない。イモリの黒焼きという」
「イモリ!? って、あの!?」
於泉が目を真ん丸くした。
「前に父上が籠に入れたのを見せてくれたことがあっただろ?」
勝九郎の言葉で、於泉の顔色がますます青白くなった。
「イモリの黒焼きは、滋養にいいし、食べると健やかになる。そなたは昔、体が弱かったというから、勝蔵なりに気遣ったのであろう」
勝蔵なりに於泉と親しくなろうという涙ぐましい努力があったのは想像に難くない。
ただ、ひとつだけはっきり言えるのは、
「勝蔵に悪気はないのじゃ。許しておやり」
ということだった。
奇妙丸にしてみれば、もうこれでこの話は終いになるはずだった。もう一度、と伸ばした掌から、於泉が離れた。逃げられるとはまさか思っていなかったが、於泉の顔を見ると、奇妙丸はなにも言い返せなかった。
「……もうやだ」
於泉がはらはらと涙を零しながら、勝九郎の背に隠れた。
「もう、家に帰る~~~~~~」
勝九郎の衣は、屋敷に帰るまでの間に元の色が分からないほど濡れてしまった。奇妙丸がなだめようとしても、於泉は兄の傍を離れようとしない。赤ん坊のようにギャンギャン泣くばかりである。
そして――その日を境に、於泉は「病で寝込むようになってしまった」。
奇妙丸の屋敷から遠ざかるようになってしまったのである。
***
小牧山城下、池田屋敷――。
ごんっ、と額を打ちつける音が響く。
「い……っ!」
ずきずきと痛む箇所を摩りたいが、その患部である額が床にめり込んでいてはそれもかなわない。
ぐぬぬ、と唸りながら、勝蔵は心の中で「親父のばーか!」と父を罵倒した。その気持ちは可成にも伝わってしまったのだろう、後頭部を押さえつける可成の掌にますます力が籠った。
「すまん、勝三。うちのバカが、一の姫に――」
イモリの黒焼きを食べさせて以来、於泉は奇妙丸の屋敷に来ることはなくなった。
イモリの黒焼きは滋養強壮にいい。もともと病弱だったという於泉にはいいだろうと思ったのだが、於泉は吐き出した上に暴言を吐いて逃げてしまった。
ちなみに於泉はというと――あれから本当に寝込んでしまったらしい。
てっきり勝蔵を避けるための方便かと思いきや、今も熱を出して布団から起き上がれないのだという。
恒興は「いやいや」と困ったように笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「あれでいて、姫は世間知らずで臆病なところがありますからな。――あと3日もすれば、また元気に走り回ることでしょう。勝蔵も、あまり気に病む必要はない」
恒興がそう言うと、ようやく可成の拘束が緩み、勝蔵は顔を上げることができた。
「だが、姫はいまだに若のもとをお訪ねになられていないのだろう」
可成の眉間に皺が寄り、恒興も同じような顰め面をした。
普段の気さくな父達からは程遠い、まるで槍の稽古をしている時のような気配に、勝蔵は小さく身震いする。恒興の傍に座していた勝九朗も、わずかに顔面を蒼白させていた。
「勝九朗」
子ども達の気配を察した恒興が勝九朗を振り返った。
「勝蔵を於泉の部屋にお連れしなさい」
「お、於泉の部屋にですか?」
勝九朗は困惑したように首を傾げる。
「於泉が、勝蔵と会うでしょうか? あれは頑ななところがありますし」
「会う会わないは、我々が決めることではないだろう」
「会いたければ会うだろうし、会いたくなければ会わない。そういう者だ、於泉は。いいからものは試し。連れて行ってみろ」
「……なんだか」
「池田殿――まるで、俺達を追い出したいみたいな言い方するんですね」
勝蔵にとっては、息をするような何の気なしな一言であった。しかし次の瞬間襟首を持ち上げられると、勢いよく濡れ縁の向こうに放り投げられたのである。
勝九郎が慌てて追い駆け、介抱してくれた。勝蔵は転んだ表紙に頭のうしろを地面に思い切り打ち付けていた。きっと夕方には、瘤が誕生していることだろう。
「いいから、土下座でもなんでもして許しを乞うてこい、馬鹿息子!」
可成はそう言い捨てると、ぴしゃりと戸を閉めた。
「ちくしょう……」
勝蔵は、ぎりりと歯を噛み合わせた。
「……とりあえず、於泉の部屋に行ってみるか? 会えるかは分からないけど」
勝九郎が恐る恐る問いかけて来たので、勝蔵は頷いて見せた。そして、少し離れたところで、「くそ親父め」と、吐き捨ててみるのだった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
藤散華
水城真以
歴史・時代
――藤と梅の下に埋められた、禁忌と、恋と、呪い。
時は平安――左大臣の一の姫・彰子は、父・道長の命令で今上帝の女御となる。顔も知らない夫となった人に焦がれる彰子だが、既に帝には、定子という最愛の妃がいた。
やがて年月は過ぎ、定子の夭折により、帝と彰子の距離は必然的に近づいたように見えたが、彰子は新たな中宮となって数年が経っても懐妊の兆しはなかった。焦燥に駆られた左大臣に、妖しの影が忍び寄る。
非凡な運命に絡め取られた少女の命運は。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
偽典尼子軍記
卦位
歴史・時代
何故に滅んだ。また滅ぶのか。やるしかない、機会を与えられたのだから。
戦国時代、出雲の国を本拠に山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し、当時の中国地方随一の大大名となった尼子家。しかしその栄華は長続きせず尼子義久の代で毛利家に滅ぼされる。その義久に生まれ変わったある男の物語
北海帝国の秘密
尾瀬 有得
歴史・時代
十一世紀初頭。
幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士、トルケルの側仕えとなった。
ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼の考えたという話を聞かされることになる。
それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという話だった。
本物のクヌートはどうしたのか?
なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?
そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?
トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。
それは決して他言のできない歴史の裏側。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる