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二、
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奇妙丸の部屋の前に行くと、部屋の前に童がいた。一瞬、少女か――と思ったが、違う。
黒絹糸のような艶やかな髪に、紅を塗ったような艶やかな唇。そして、白粉がいらないくらいに透きとおる肌は、まるで月の精のようでもある。しかし、男物の袴を履いているので、恐らく男児である。年の頃は、勝蔵と同じくらいだろうか。
「おお、勝九郎か」
可成が慣れ親しんだように、手を上げる。勝九郎と呼ばれた少年は、あっ、と声を漏らして深々と首を垂れた。
「お久しぶりにございます、森様。ご機嫌麗しく……」
「そう硬くならなくていい。勝九郎、そなたも若に呼ばれたのか?」
「呼ばれた……と言いますか」
勝九郎は、まばたきをした。切れ長の、蘇芳の瞳とかち合う。見れば見るほど、女子のような美しさである。
「そちらは、森様の?」
「ああ。次男の勝蔵だ。勝蔵。こちらは、隣の池田勝三郎殿のご嫡男・勝九郎殿だ。お前より、ひとつ年下だが、後々は同輩になる。仲良くするんだぞ」
「おう」
よろしくな、と手を伸ばす。すると――、
「兄上――!」
放たれた矢のような速さで、甲高い声が飛んで来た。両手に花を抱え、勝九郎に突進する。敵襲かと思ったが、どうやら違った。
「兄上、見て! 若と一緒に摘んだの、この花! 綺麗でしょ! 桔梗っていうんだよ!」
「分かった分かった、分かったから……」
勝九郎は困惑するような、恥じ入るような声を出す。袴を履いた幼子が勝九郎に紫の桔梗を突き付けた。
「持ってて! あと、朝顔も摘んでくる!」
「その前に挨拶!」
勝九郎が小突くと、幼子はようやく勝蔵達の方を見た。
(元気がいいな)
勝蔵ですら、流石に少し引いた。幼子は小首をかしげながら、勝蔵を見上げる。
ガラス玉のような大きな、蘇芳の瞳。墨を零したようにうねる髪は、庭を走り回っていたせいか、葉っぱや草がまとわりついており、ところどころ解れていた。
幼子は嬉しそうに可成の足元に駆け寄った。
「森様、今日は伝兵衛様がご一緒ではないの?」
若干、幼子はがっかりしたようである。可成は詫びながら片膝を突いた。
「今日は伝兵衛は別の用があって、来れぬのだ――」
「いつならおられます? 伝兵衛様にも、このお花をお届けしたい」
「こら。勝手にお庭の花を持ち出すんじゃない」
勝九郎が幼子の頭をもう一度小突いた。
(まさか――)
勝蔵はもう一度、唾をのみ込んだ。先程、案内してくれた侍女達に「若殿はどのようなお方ですか」と聞いた。侍女はほれぼれとした様子で、「大層お美しいお方です」と言った。
『濡羽色のお髪は優雅に波打って――』
『珊瑚のような瞳は、まるで宝玉のようでもあり、揺らめく炎のようでもあり』
『輝くばかりの白磁の肌は、いくら白粉を塗り重ねようと、到底足元にも及びませぬ』
『あのような美しいお方は、きっと2人とおられませぬ。小野小町ですら、御簾の向こうから出てくることはないでしょう』
『ああそれと、池田家の御子と一緒におられると――まことのごきょうだいのようにも見えます』
声を揃え、奇妙丸の美しさを賞賛していた。だから、へえ、奇妙丸様は美しいお方なのか、と勝手に思っていた。
しかし、聞いていない。こんな風に野生児のように野を駆け回り、家臣の子に対し、突撃をかます野良猫のような幼子が主君だなんて。
「あ、あの……」
勝蔵は声を震わせた。幼子が不思議そうに首を傾げる。はらり、と一枚葉が落ちた。
「まさか、きみょ」
「――於泉」
庭の奥から、もうひとり姿が表れる。勝九郎と可成が頭を垂れ、幼子がぱたぱたと駆けて行った。
「おお、三左殿。来られておったか」
優雅に微笑むその姿に――勝蔵は安堵した。それと同時に、
(この方が奇妙丸様か)
と確信したのだった。
『濡羽色のお髪は優雅に波打って』
『珊瑚のような瞳は、まるで宝玉のようでもあり、揺らめく炎のよう』
『輝くばかりの白磁の肌は、いくら白粉を塗り重ねようと、到底足元にも及びませぬ』
『あのような美しいお方は、きっと2人とおられませぬ』
侍女達に、勝蔵は心の底から詫びた。言葉を疑って悪かった、と。
首を傾げた少年は、幼子の頭を撫でながら、濡れ縁の方に近寄って来た。まるで蝶や花のような軽やかさである。年は勝蔵よりひとつ上なだけであるというのに、たたずまいひとつ取っても気品があった。
「於泉、花を落としておるぞ。せっかくじゃ。これも持ってお行き」
「あ、ほんとだ!」於泉、と呼ばれた子は、舌を出しながら、桔梗を受け取った。紫の花の中に、一輪だけ白い花が混じる。
「申し訳ございません、若」
勝九郎が深々と頭を下げた。
「妹がご迷惑を」
「何、構わぬよ」
奇妙丸が微笑みながら、自分を見上げる幼子の頭を撫でる。
「於泉は、儂にとっても妹のようなもの。なにをされても、腹が立つことはないな」
「そうだそうだー!」
於泉は奇妙丸の背に隠れた。随分背が高い子供である。奇妙丸と、背丈に大差はなかった。
「若は、困ってなどないもの。好きなことは何でもしてよいぞ、といってくださるもの。泉の我儘なら大歓迎だって。明日は文字を教えてくれるんだから!」
「それは乳母に習え」
言い合う勝九郎と於泉を微笑ましげに一瞥すると、奇妙丸は於泉の髪に指を差し込んだ。
「して――」奇妙丸が勝蔵をまっすぐに見つめる。穏やかな灯のような珊瑚の瞳に吸い込まれかけながら、勝蔵は次の言葉を待った。「そなたが、三左殿の息子か?」
「はい――」勝蔵が礼儀正しくすると、可成は驚いた顔をした。普段、屋敷を破壊せんばかりの大騒ぎを繰り広げているからだろう。しかし、いくら勝蔵といえども、家臣ならば、主君に対して礼儀正しく振る舞うものである――というのは知っている。
「森三左衛門が次男・勝蔵と申します」
「――であるか。そなたに会えるのを、楽しみにしておったぞ」
奇妙丸はほつれ、頬にかかった髪を耳にかけた。一般的に「はしたない」と顔を顰められる動作だというのに、奇妙丸がやると、花の精も嫉妬を忘れるほどの優雅さを感じる。
男だから、女だから。そういった枠での話ではない。簡単には言い表せないほどの、複雑な美しさであった。
森勝蔵――後に鬼武蔵と呼ばれる少年と、唯一その「鬼」が忠義を捧げた少年の、出会いであった。
奇妙丸の部屋の前に行くと、部屋の前に童がいた。一瞬、少女か――と思ったが、違う。
黒絹糸のような艶やかな髪に、紅を塗ったような艶やかな唇。そして、白粉がいらないくらいに透きとおる肌は、まるで月の精のようでもある。しかし、男物の袴を履いているので、恐らく男児である。年の頃は、勝蔵と同じくらいだろうか。
「おお、勝九郎か」
可成が慣れ親しんだように、手を上げる。勝九郎と呼ばれた少年は、あっ、と声を漏らして深々と首を垂れた。
「お久しぶりにございます、森様。ご機嫌麗しく……」
「そう硬くならなくていい。勝九郎、そなたも若に呼ばれたのか?」
「呼ばれた……と言いますか」
勝九郎は、まばたきをした。切れ長の、蘇芳の瞳とかち合う。見れば見るほど、女子のような美しさである。
「そちらは、森様の?」
「ああ。次男の勝蔵だ。勝蔵。こちらは、隣の池田勝三郎殿のご嫡男・勝九郎殿だ。お前より、ひとつ年下だが、後々は同輩になる。仲良くするんだぞ」
「おう」
よろしくな、と手を伸ばす。すると――、
「兄上――!」
放たれた矢のような速さで、甲高い声が飛んで来た。両手に花を抱え、勝九郎に突進する。敵襲かと思ったが、どうやら違った。
「兄上、見て! 若と一緒に摘んだの、この花! 綺麗でしょ! 桔梗っていうんだよ!」
「分かった分かった、分かったから……」
勝九郎は困惑するような、恥じ入るような声を出す。袴を履いた幼子が勝九郎に紫の桔梗を突き付けた。
「持ってて! あと、朝顔も摘んでくる!」
「その前に挨拶!」
勝九郎が小突くと、幼子はようやく勝蔵達の方を見た。
(元気がいいな)
勝蔵ですら、流石に少し引いた。幼子は小首をかしげながら、勝蔵を見上げる。
ガラス玉のような大きな、蘇芳の瞳。墨を零したようにうねる髪は、庭を走り回っていたせいか、葉っぱや草がまとわりついており、ところどころ解れていた。
幼子は嬉しそうに可成の足元に駆け寄った。
「森様、今日は伝兵衛様がご一緒ではないの?」
若干、幼子はがっかりしたようである。可成は詫びながら片膝を突いた。
「今日は伝兵衛は別の用があって、来れぬのだ――」
「いつならおられます? 伝兵衛様にも、このお花をお届けしたい」
「こら。勝手にお庭の花を持ち出すんじゃない」
勝九郎が幼子の頭をもう一度小突いた。
(まさか――)
勝蔵はもう一度、唾をのみ込んだ。先程、案内してくれた侍女達に「若殿はどのようなお方ですか」と聞いた。侍女はほれぼれとした様子で、「大層お美しいお方です」と言った。
『濡羽色のお髪は優雅に波打って――』
『珊瑚のような瞳は、まるで宝玉のようでもあり、揺らめく炎のようでもあり』
『輝くばかりの白磁の肌は、いくら白粉を塗り重ねようと、到底足元にも及びませぬ』
『あのような美しいお方は、きっと2人とおられませぬ。小野小町ですら、御簾の向こうから出てくることはないでしょう』
『ああそれと、池田家の御子と一緒におられると――まことのごきょうだいのようにも見えます』
声を揃え、奇妙丸の美しさを賞賛していた。だから、へえ、奇妙丸様は美しいお方なのか、と勝手に思っていた。
しかし、聞いていない。こんな風に野生児のように野を駆け回り、家臣の子に対し、突撃をかます野良猫のような幼子が主君だなんて。
「あ、あの……」
勝蔵は声を震わせた。幼子が不思議そうに首を傾げる。はらり、と一枚葉が落ちた。
「まさか、きみょ」
「――於泉」
庭の奥から、もうひとり姿が表れる。勝九郎と可成が頭を垂れ、幼子がぱたぱたと駆けて行った。
「おお、三左殿。来られておったか」
優雅に微笑むその姿に――勝蔵は安堵した。それと同時に、
(この方が奇妙丸様か)
と確信したのだった。
『濡羽色のお髪は優雅に波打って』
『珊瑚のような瞳は、まるで宝玉のようでもあり、揺らめく炎のよう』
『輝くばかりの白磁の肌は、いくら白粉を塗り重ねようと、到底足元にも及びませぬ』
『あのような美しいお方は、きっと2人とおられませぬ』
侍女達に、勝蔵は心の底から詫びた。言葉を疑って悪かった、と。
首を傾げた少年は、幼子の頭を撫でながら、濡れ縁の方に近寄って来た。まるで蝶や花のような軽やかさである。年は勝蔵よりひとつ上なだけであるというのに、たたずまいひとつ取っても気品があった。
「於泉、花を落としておるぞ。せっかくじゃ。これも持ってお行き」
「あ、ほんとだ!」於泉、と呼ばれた子は、舌を出しながら、桔梗を受け取った。紫の花の中に、一輪だけ白い花が混じる。
「申し訳ございません、若」
勝九郎が深々と頭を下げた。
「妹がご迷惑を」
「何、構わぬよ」
奇妙丸が微笑みながら、自分を見上げる幼子の頭を撫でる。
「於泉は、儂にとっても妹のようなもの。なにをされても、腹が立つことはないな」
「そうだそうだー!」
於泉は奇妙丸の背に隠れた。随分背が高い子供である。奇妙丸と、背丈に大差はなかった。
「若は、困ってなどないもの。好きなことは何でもしてよいぞ、といってくださるもの。泉の我儘なら大歓迎だって。明日は文字を教えてくれるんだから!」
「それは乳母に習え」
言い合う勝九郎と於泉を微笑ましげに一瞥すると、奇妙丸は於泉の髪に指を差し込んだ。
「して――」奇妙丸が勝蔵をまっすぐに見つめる。穏やかな灯のような珊瑚の瞳に吸い込まれかけながら、勝蔵は次の言葉を待った。「そなたが、三左殿の息子か?」
「はい――」勝蔵が礼儀正しくすると、可成は驚いた顔をした。普段、屋敷を破壊せんばかりの大騒ぎを繰り広げているからだろう。しかし、いくら勝蔵といえども、家臣ならば、主君に対して礼儀正しく振る舞うものである――というのは知っている。
「森三左衛門が次男・勝蔵と申します」
「――であるか。そなたに会えるのを、楽しみにしておったぞ」
奇妙丸はほつれ、頬にかかった髪を耳にかけた。一般的に「はしたない」と顔を顰められる動作だというのに、奇妙丸がやると、花の精も嫉妬を忘れるほどの優雅さを感じる。
男だから、女だから。そういった枠での話ではない。簡単には言い表せないほどの、複雑な美しさであった。
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