焔の牡丹

水城真以

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一、

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       *


「はーぇ」

 見ず知らずの赤ん坊に、そんな風に呼ばれることを心から嬉しいと思えるようになったのは、いつからだろう。
 帰蝶きちょうは両腕を広げながら、
「いらっしゃい、奇妙丸きみょうまる
 と、呼びかけた。奇妙丸はにっこり笑うと、「ははえ」と、おぼつかない足取りで近づき、帰蝶の胸に倒れ込んできた。


 夫からいきなり「今日からそなたの子だ」と抱かされた時は、殺意にも似た憎悪を覚えたものである。

 子を産めないそなたが悪い――そう言われてしまえば、最もではある。それでも、まだ子を諦めるほどの年ではなかったし、夫との仲もそれほど悪いとも思っていなかった。帰る家のない身の上、しかも敵の武将の妹となった帰蝶に「我が正室は、そなたしかおらぬ」という涙が出るほど嬉しい言葉をもらえる程度には。
 側室も数人持っていたし、実際に子を産んだ女もいた。しかし、夫がはっきりと嫡子を定めたことなど、一度もなかった。覚悟したつもりでも、心のどこかでは自身が産む子こそ織田の嫡子である、と信じていたのかもしれない。


 しかし、ある日突然現れた赤子を養子にしろと言われた時――挙句その子は、帰蝶に知らされていなかった愛妾が産んだ子だと聞かされた時――もうとっくに自身にはなんの期待もされていなかったのかと、久しぶりに泣きたくなった。それでも泣くことを堪えられたのは、その見ず知らずの赤子のお陰であった。
 帰蝶が泣きたい時は先に泣いてしまうので、すぐに泣き止むように抱いてやらなければいけなかった。泣いている最中は奇妙丸に付けた乳母らとともに、頼むから泣き止んでおくれ――と、何度も何度も願ったものである。そうして願い続けるうちに、帰蝶は泣きたいと思うことを忘れていた。
 最初は、強がりを隠すみのとして扱っていた。しかし、今は違う。立ち上がってくれた時は悲しみと真逆の涙が溢れそうになった。はーぇ、と、母と呼んでくれた時は、むずがる奇妙丸のことを顧みることなく抱き締めた。

(奇妙殿は、名のとおり……奇怪な子じゃ)

 帰蝶は常々そう思う。あれから信長はほかにも子を産ませているし、帰蝶を母と呼ぶように、と言い付けているようでもある。実際、帰蝶は強がりでもなく、夫の子すべての母であるという自負がある。
 それでも奇妙丸に対しては、特別な思い入れがあった。

「はーぇ」
「はい、なんですか」
「ははえ」
「はい、母はここにおりますよ、奇妙丸」

 伸ばされる紅葉を取りながら、帰蝶は微笑んだ。
 舌ったらずな声の主が、帰蝶を母にしてくれた。
(この子がおらなかったら、わらわは今、ここにいられただろうか――)
 帰蝶は奇妙丸を抱き上げると、廊下に出た。奇妙丸は零れ落ちる梅の花びらを見ながら、きゃっきゃとはしゃいでいる。
「綺麗じゃのう、奇妙丸。梅の花、ですよ。白梅しらうめというのじゃ」
「うーめ。しりゃ!」
「そう。梅、白梅」
 奇妙丸は花びらを取ろうとしているのか、掌をにぎにぎと開閉させている。

(この子のためなら、わらわはなんでもしてやりたい。……そう思うのは、傲慢であろうか)

 堂々と胸を張ることができないのは、帰蝶が奇妙丸の母を名乗る代わりに、日陰にいるひとの存在が、常に頭の中にちらついているからだった。


       *



 信長が奇妙丸を、小折こおり生駒いこま屋敷から、清州きよすへ引き取ると決めたのは、永禄2年(1559年)のことだった。奇妙丸はまだ3歳という、可愛い盛りだった。

 生駒家では、信長の長子ちょうしとして生まれた奇妙丸が、織田家の嫡男となることを切に望んでいた。

 信長は宿敵・今川義元いまがわよしもととの戦を控えていた。兵の数は雲泥の差で、信長の勝機はあまりにも低かった。それでも生駒家では、

『信長公は、尾張を平定するかもしれない』

 という可能性を見込んでいた。そうなると、奇妙丸は生駒家で養育するよりも、信長の居城である清洲で養育されて然るべきである。なによりも、信長の後継にしなければならなかった。
 信長との間に3人目の子を産んだ、吉乃きつのとて、奇妙丸を跡継ぎにしてやりたいという気持ちは無論存在した。吉乃は現在、正式に信長の側室となったわけではない。このままでは奇妙丸は、せいぜい織田家の末端を担う臣下の者で終わってしまう。我が子に然るべき立場を与えていただきたいと願うのは、母としては当然の想いであった。
 ただでさえ、清洲には次男・茶筅丸ちゃせんまると同じ年に生まれた三七さんしちがいる。しかも三七の母・さか氏は、信長が正式に側室と認めており、家柄も生駒家より上であった。生駒家では三七が後継者として育てられることを恐れていたのである。

 しかし、吉乃が気にしていたのは、坂氏ではなかった。信長の正室、帰蝶の存在が気がかりであった。

 帰蝶は、信長の子を孕んだことはない。生まれつきの石女うまずめなのだろう。美濃みの国主こくしゅ斎藤さいとう家の出であったが、今は織田家と敵対している。信長に仕える兄達は形ばかりの正室として侮っている節がある――が、吉乃にとっては最も脅威だった。

 まず、吉乃は信長よりも6歳年上である。3人の子を儲けたが、これ以上は難しい。
 次に、美貌の衰えも問題であった。かつては尾張切っての美女として名高かったものの――3人もの子を産めば、影を差す。

 いつまで信長の寵愛を受けていられるか、不安は常にあった。

 しかし、帰蝶はどうだろうか。
 帰蝶は信長の1つ下である。しかも、母は美濃の名門の血を引く姫だという。信長の家臣にそれとなく「帰蝶様はどんなお方か」と聞いたら、気が強くてしっかり者で、美しい姫だと聞かされた。
 信長にとって、帰蝶は決して蔑ろにしていい存在ではない――きっと吉乃が感じるよりも遥かに、信長は帰蝶を敬っている。
 まだ産んでいないというだけで、今後帰蝶が信長の子を産んでしまったら――そう思うと、背筋が凍り付いた。

 だからこそ、吉乃としても信長が「奇妙丸を嫡男として養育する」と聞いた時は、無事に我が子が光差す道へ行けるのだ……と安堵したのだった。
「殿の後継となれるのなら……奇妙丸にとっても、これ以上ないほど光栄なことでしょう。御礼申し上げまする」
 吉乃は、こみ上げる想いをひた隠しながら、首を縦に振った。

 しかし、「吉乃も清州へ」という言葉だけは、どうしても頷くことができなかった。

 清洲城には、帰蝶がいる。帰蝶は織田家の奥向きで最も高位の存在である。若く美しい帰蝶の下で、陰っていくしかない姿で仕えるのは、吉乃の矜持が許さなかった。
 信長は、吉乃が小折を離れようとしないのは、五徳を産んだばかりだからだろう、と呑気に考えていた。結局吉乃は、嫡男となった奇妙丸と泣く泣く別れることを選んだのだった。

「奇妙だけは儂の手元に呼ぶ。が、そなたの部屋もそのうち用意するつもりがある。心が決まれば、いつでも申すように」
 と、あっけらかんと信長は言った。

 信長の愛妾となり、長子を産んだ時から、いつかこうなる日は覚悟していた。しかし、いざその時がくると、手離すのが惜しくなった。
「奇妙丸――」
 吉乃は、かいなの中に抱いた奇妙丸に、優しい声をかけた。そして、伸ばされた掌を取り、強く抱き締める。
 信長に見初められ、最初に授かった愛しい子――吉乃は涙を堪えながら、

「奥方様の言うことをしっかり聞くのじゃぞ。立派な男になりなされ――」 

 遠ざかる輿の音を聞きながら、部屋に戻った吉乃はようやく涙を流した。手には、奇妙丸の髪を一房握り締めていた。
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