散華記

水城真以

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菊花の戯れ

三、

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 走って戻ってきたせいか、顔が暑い。ぱたぱたと掌で仰いで風を作りながら花を活けている於菊おきくの肩越しに、万里まりが手元の花を覗き込んできた。
「珍しいこと。於菊が、菊の花を持ってくるなんて」
「あ……」
「於菊は、菊はあまり好きではないのかと思っていたのに」
「いえ、これは……あたしが伐ったわけじゃ、ない、です」
 伐った――というのではなく、そもそも押しつけられた上に、受け取らざるを得なかったからである。

 ――岐阜中将の小姓、加藤かとう辰千代たつちよに。

 ほんの一瞬だけ触れた指先を唇に押し当てながら、於菊は、万里の目を見た。
「姫さま。岐阜中将さまのお小姓の……加藤辰千代さま、のことをご存じですか?」
「加藤、辰千代……ああ」
 万里は考え込む素振りをしてから手を叩いた。

 熱田の豪族・加藤図書助ずしょのすけ順政よりまさの次男である。2年ほど前から信忠のぶただの近習として仕えており、幼いながらも利発で、重宝されているそうだ。
 加藤家は武士であると同時に、商人という顔も持つ。辰千代の伯父もまた、信長が若い頃に小姓として仕えていたことがあるなど、織田家との縁が深い一族であった。

(あたしとおんなじくらいなのに……あの子は、岐阜から使いに出してもらえるくらい、優秀なお方なんだ……)

 於菊はといえば、ようやく須磨すまの手を借りずに万里の湯あみを手伝ったり、髪を結ったりができるようになった程度。それだって小言を言われない日の方が少ないし、須磨の方がはるかに手早い。

 鉢のなかで咲き誇る菊花の白い花びらを見つめる。こんなに小さな花、細い茎だというのに――於菊の乱れた髪を掴んで離さない、意地の悪い花だ。菊花が於菊を捕まえたりしなければ、辰千代に頭ごなしに怒鳴られることもなかった。
「あら」万里はからかうように、於菊の頬を指先で突いた。「赤くなってるわよ、於菊」
「ひ、姫さまったら!」
 頭を振って逃げる於菊に対し、万里はころころと鈴の音を転がすように笑うだけで、たいして気にしていないようだった。
「辰千代どの、だったかしら。織田家のお小姓としてお仕えしているくらいだもの、それなりの美少年なのでは? 於菊が殿方に興味を持つなんて、明日は雪でも振るのかしら」
「ち、違いますって!」
 於菊は大きな声で否定した。
「あたしは、加藤さまなんて……嫌いです。大きな声出すし、す、すぐ怒るし……。あんなひと――」
「分かった分かった。揶揄って悪かったわ」
 万里は笑いながら、唐果物を於菊の掌に乗せた。怒っていたことも忘れ、於菊は頬をほころばせた。砂糖を使った食べ物に出会ったのは城で働くようになってから、特に万里と出会ってからであった。
 唐果物は神社や宮中に献上されるような菓子――食べるものに困っていつもお腹を空かせていた頃に比べ、今はどれだけ恵まれているのだろう、と於菊はよく思う。

「……菊は、すごく幸せです」

 豪商で生まれた万里にしてみれば、砂糖を使った菓子も、山ほどよそわれた飯も、香を焚きしめた衣も、当たり前の光景なのだろう。しかし、於菊にとっては違う。温かい衣を着せてもらえて、毎日食事を食べることができて、喉が渇いたら水を飲むことができる。
 万里は大げさだと笑うが、於菊にとっては大げさでもなんでもなかった。本心からの言葉であった。
 唐果物を口に入れる。練った米粉と甘葛の甘み。そして、油のにおいが鼻を通り抜けていった。
「於菊は、どんな殿方を好きになるのかしら」
 万里が目を細めた。3つしか違わないのに、まるで母親のようだ――と感じるのは、先日万里の使いで松野屋に行き、万里の母に会ったからかもしれない。万里は生き写しと言っていいくらい、母親によく似ていた。
「さあ……あたしは、別に嫁になんて行かなくていい……」
「そうも行かないでしょう。於菊とお須磨が嫁入りするときは、松野屋の力を使って、最高級の嫁入り道具をそろえてあげるわ。もちろん、衣だってなんだって――一番いいものをそろえてあげたいわ。別に相手が辰千代どのでなくてもいいのよ」
「だから、加藤さまなんてどうでもいいですってば!」
 於菊は頬を膨らませた。乱暴な男など、願い下げである。何より、於菊にとってはようやく城での暮らしが落ち着いてきた時期でもあった。もうしばらく万里の傍にいたいと願った。
「それに……もしあたしが好きになるとしたら、きっと――殿みたいなひとがいいなって」
「……へ?」
 万里はもともと小さくはなかった目をより一層丸く開いた。驚いたお顔も可愛らしいなぁ、と思いながら、於菊は唐果物を頬張りながら、この後の予定を頭のなかで組み立てる。洗濯物を畳んで、万里に頼まれた繕い物をしなければならない。それに、万里は近頃、於菊に読み書きを教えてくれる。今日こそは自分の名前を書けるようになりたかった。
「……待って、於菊。あなた――殿の側室になりたい、ということ……?」
「え? なんでです?」
「だって、殿って、金山の――森勝蔵さまのことでしょう?」
「そうですけど……? でも、殿には、お弥さまという御方さまがおられますし。ていうか、あたしは殿のお傍に上がるほどの身分でもないですし」
 なぜそういう話題になったのかと首を傾げ、於菊は手についた唐果物の欠片をぺろりと舐めた。
「……いいわ、もう。下がりなさい」
 万里は肩の力を抜いた。そして、鉢のなかから菊花だけを引き抜くと、於菊の前に差し出した。
「持っていきなさい」
「え……お気に召しませんでした?」
「違うわ。でも、それは於菊がいただいた花なのでしょう。だったら、於菊が持っておくべきだわ」
 菊の花は――平安の頃より、人々に愛され、秋を象徴する美のひとつであるのは、教養を持たない於菊にもわかる。しかし、於菊自身には華やかさもなければ、たおやかさもない。
 しかし、あまり固辞すると、万里の機嫌が悪くなる。於菊は仕方なく、菊の花を片手に局へ戻った。

『於菊は秋に生まれたんじゃ。大層かわいくて、花の精かと思った。菊の花は、お公家さまや公方さま――えらいひとたちも好きな花らしい。だから、於菊の名前は、花の菊からもらったんだ』

 父は、於菊に繰り返し、何度も何度もそう言って笑った。

(やっぱし、あたしに『菊』は似合わんのよ、おっ父――)

 仮に、万里のような非の打ちどころがない美少女であれば――あるいは須磨のようなたおやかで細やかな気配りができる少女であれば――菊、という名にも見劣りしなかったのかもしれない。名を呼ばれる度に委縮したり、傷ついたりすることもなかったのかもしれない。
 局の隅で、借りた鉢に生けられた菊花を恨めしくにらみつけながら、於菊はそっと前髪の庇を厚くした。
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