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3、願い
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弘徽殿の廊下を童が歩く。すれ違う女房達は道の端に避け、顔を伏せた。
童達はそれを当然のこととして受け、声を掛けることもなく、顔を隠すことさえもせずに歩く。
恥も外聞も、人の子以外は気にもしない些細なことだ。童達は宮中では、帝よりも立場が上である。
二人の童はある部屋の前で立ち止まった。「入るぞ」葵色の童が言うと几帳の向こうで誰かが身じろいだ。
皇后宮・定子である。
「女一宮が口をへの字にしておったぞ。一宮には、随分偉そうにしておるようだが。あれもまだまだ子供よな」
「ええ……。脩子には、すまないことをしてしまったわ……」
まだ幼い娘の泣き顔に胸が痛んだ。本当は甘えたい盛りだと言うのに、小さな姫宮が気丈に振る舞っているのが目に浮かぶ。
定子がゆっくりと身を起こそうとすると、すかさず控えていた女房が手を貸した。
定子は胸の苦しみを堪え、女房に微笑んだ。しかし、定子がまだ少女であった頃から仕えているこの女房が定子の病状に気付かないわけがない。
(体が苦しい)
帝や宮達が顔を見せてくれても、定子は床から出ることもままならない。
女房が薬湯を運んでくれても、こうして微笑むことしかできない。
(だがそれ以上に、心が苦しい)
宮達の成人を見届けられないのも、女房を悲しませているのも、愛する人を置いて行かねばならない現実も。
「……藤、菊」
定子は童達にそっと呼び掛けた。
「彰子様は、お元気?」
定子が病臥に伏すまでは毎日のように会っていた。しかし、穢れをまとった身で、彰子を呼ぶわけにはいかない。定子に何かあった時は、全てを中宮である彰子に託さねばならないからだ。
何より、彰子本人が定子に会うことを望んでいても、彰子の父が許すはずがない。
「そなたは中宮のことを嫌っているのかと思っていたが」
起きているのが辛くなった定子は、女房の手を借りてまた褥に身を預けた。
「ええ……憎かった」
定子の生家を没落させたのは、左大臣だ。
父の没後、兄を失脚させ、定子から中宮の地位を奪い、彰子を強引に入内させた。本心では、左大臣家が憎くて仕方なかった。今だって、道長のことを快く思えるかと問われれば、答えは否だ。
無論、左大臣の一の姫である彰子のことも。
「……でも、もういい」
『知りたいんです』
仮にも、帝の一の妃である定子に向かって。顔も知らぬ男のことを好きだと彼女は言い放ったのだ。
父に言われるままに嫁ぎ、何も知らない相手を愛している少女は愚かで滑稽で、世間知らずだった。そんな世間知らずを憎むのはいつしか馬鹿らしくなり、中宮の位もどうでも良くなった。
彰子はきっと、これからどんどん美しくなる。彼女なら帝を支える存在となり、宮達の力になってくれるに違いない。
「少納言」定子は女房を呼び寄せた。「宮達に……彰子様が、これからは母である……と……」
女房の涙がボロボロ零れた。定子は滴を見つめながら、童の神霊達にも呼び掛ける。
「……彰子様に……すべて、お頼みして……」
(私は、幸せだ)
永かった。
幸せな時間も、苦しく死にたいとすら思った時間も、全て、永かった。しかし、その苦しく幸福な時の中で、愛しき者達と出会えたというのなら――定子はきっと、幸せだった。
恋する幸福も不幸も、全て共にした。
家の再興こそ果たせなかったが、そんな人と出会えた。そして、その愛しい人を託せる人とも出会えた。
帝、と心の中で呼びかける。
(一晩中契りを交わしたことをお忘れでないのなら、私を想って貴方の流す涙は何色なのでしょう。それを確かめる術は、もうない。貴方に新しい人と前へ進んでほしい。けれど、たまにでいい。私のことも……たまに思い出して下さいね)
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