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2、変化
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――長保元年11月7日――
藤原彰子は女御宣下を受け、正式に今上帝の妃の一人となった。
「真心を持って御上にお仕えし、春宮を産むのだぞ」
道長を筆頭とした藤原家一門は、まだ幼く、愛らしい女御が春宮を生むに違いないと信じている。
しかし、今上帝には既に、中宮定子との間に2人の子がいる。
1人は内親王だが、もう1人は親王。順序から言っても、彰子が仮に皇子を産んだとしても、あくまでも第二皇子。順当に考えれば、定子の産んだ親王が春宮に選ばれるはずだった。
このことを言うと、女房達は「とんでもない」と口を揃えた。
「恐れながら、中宮様は所詮、没落した女子にございます。後ろ盾をお持ちである藤壺女御様のお産みになる親王様が春宮になられて然るべきかと」
「でも、中宮様は聡明な方よ。何より、御上の寵愛をお受けになられているし……」
どうしても納得できないでいる彰子に、女房達は溜息を吐いた。
「何を弱きなことを……」
弱きなことを言ったつもりはない。事実を言ったつもりだった。
何の後ろ盾もない定子が他の妃達と一線を画した寵愛を賜り続けているのは、容姿の美しさだけではないだろうに。
女房達は会話を打ち切らせると、彰子の髪を丁寧に梳いた。櫛を通し、髪油を丹念に塗り込む。まだ不慣れな鬢削ぎを肩の上で揺らしながら、彰子は帝のことを考えていた。
(御上は、本当は私の入内を望んでなどいなかったんだわ……)
一月ひとつき経っても1度も、帝のお渡りは、ない。
女房達は「梅壺の女房達が汚い手を使っているのだ」と陰口を叩いているが、如何に世間知らずと言われていても、彰子でもその真意には気付かされた。
そのことを藤と菊に言うと、「何を今更」と、逆に驚かれた。
「まさかそなた、今まで、帝はそなたの入内を喜んでおると思っていたのか?」
「そうは思っていないけど……。ほら、ここに来てから、私は女房かあなた達としか話していないでしょう。御上とも、お話してみたいな、って思って……もちろん、中宮様とも」
帝の母である東三上院と左大臣、そして定子の亡き父・道隆は兄弟である。つまり、彰子と帝、定子はいとこであった。
「心細くなったか」
藤があまりに嬉しそうに笑うので、彰子は頬を膨らませた。が、事実なので否定できなかった。
生まれてから1度も会ったことはなくても、帝は彰子の従兄で夫。若干12歳の少女にとって、その存在は頼りにしたいものだ。胸中に抱える想いを吐露したい。
しかし、彰子の願い空しく、藤壺に届くのは「御上は今宵も中宮の寝所に」という話だけだった。
「そなたは帝に望まれてなどおらぬ」
菊の言葉に彰子は身を固くした。覚悟していたとはいえ、実際他者の言葉で聞くと胸に刺さった。
「そもそも、そなたの入内自体が左大臣が強引にねじ込んだものだ。――喜べ。そなたは中宮になることが決まったぞ」
「中宮!?」
彰子はぎょっとした。何故なら、現在いま中宮の地位には定子が就いている。
「だからそなたは疎まれておるのだ」
と、藤と菊は言った。
「帝が心より愛する女は、定子だけだ。その寵愛は、格別。他の女御も更衣も、内侍達さえ目に入っておらぬ。そんな中、そなたを押し付けられどれほど迷惑しておるか――」
彰子は表情を昏くした。
望まれていないことは察していた。しかし、疎まれているとまでは思わなかった。指先がカタカタと震えた。
「虐め過ぎたか?」
「許せ」
大して反省した様子もなく、藤と菊は彰子を手招きした。
「帝に会わせることは、ちと難しい」
「だがその代わり、帝に近き者には会わせてやる」
「御上に近い方?」
彰子の胸がどきりと鳴った。帝に最も近い者――1人しか思い浮かばなかった。
彰子は、御簾を跳ねのけた。
打橋を通り抜け、後涼殿を駆け抜け、清涼殿に突き進んだ先で――梅の花を一輪見つけた。
闇に包まれていて、顔は分からない。しかし、誰なのかは分かった。
「……中宮、様」
「……藤壺女御様ですね」
定子の声はどこまでも固い。定子は自分が嫌いなのだ。彰子は傷を受けたが、それを隠すように頭を垂れる。
今より幼い頃、定子の父が存命だった頃は幾度か顔を合わせ、文のやり取りを交わしたこともある。
しかし、今目の前にいるのは従姉妹の「定子様」ではない。同じ帝に仕える「中宮様」なのだ。
そして、彰子もそれは同じだった。
定子は女房を連れていない彰子を見て眉を潜めた。
「夜中に一人で歩くものではありませんよ」
「供ならいます」
彰子は左右を示した。
「……誰も見えませぬが」
指摘され、慌てて周りを見ると藤と菊はいつの間にか姿を消していた。
「はぐれてしまったのね」
定子は呆れたように微笑を浮かべた。そして「いらっしゃい」と手招きをする。
定子はすぐ傍の渡殿へ彰子を座らせた。「少納言」定子は女房に、藤壺から迎えを呼ぶように命じた。
「しばらく、こちらで一緒に待ちましょう。藤と菊に誘われたならば、仕方ありません」
「中宮様も、藤と菊の二人をご存じなのですか?」
「ええ。私もお会いしたことがありますから」
定子の衣から、梅の香が浮かび上がる。しかし、衣擦れ1つ聞こえなかった。
「……ごめんなさい」
彰子が謝ると、定子は「何がです」と訝しげな顔をした。
「嫌でしょう。私が隣にいるのは」
「そのようなことはありません」
(嘘だ)
その証拠に、定子は一度足りとも彰子を見ようとはしない。被衣のような笑みを纏ったまま、庭を見つめている。
当然だった。何故なら彰子は、定子の地位を脅かそうとしている。定子からしてみれば、疫病神以外の何者でもないだろう。
「……帝は、どのような方ですか?」
「変わらない人です」
彰子の問い掛けに、定子は優しい声を出した。
「お仕えするようになり、もう幾年が過ぎたのやら。ですが、初めてお会いした時から、あの方は何一つ変わりません」
定子は優しく、自愛に満ちた眼差しをしていた。それを見た時、彰子は、定子がなぜこれほどにまで帝からの寵愛を賜っているのかを悟った。月のような佳人だからでも、聡明だからでもない。
彰子にとって帝は御上という人に在らぬ立場だ。定義としては、藤や菊のような存在に近い。しかし、定子は違う。定子は一人の男として帝を愛おしんでいる。
「……羨ましい」
それだけ、人を愛せることが。彰子はまだ帝とはまともに顔すら会わせていない。彰子の知らない帝を定子は知っているのだ。
「私も、そのように帝をお慕いしたいと思っています。……中宮様のように、なれるでしょうか」
こんなことを定子に問うことはお門違いかもしれない。ひょっとしたら不興を買っただろうか。恐る恐る見上げると、定子は目を綻ばせていた。
「名を呼んでもよろしいですか?」
「藤壺、と?」
「いいえ。――彰子様、と」
彰子は顔を上げた。定子は穏やかに笑った。
「よろしければ、今度私の局へいらしてください。同じ御方にお仕えする身だと言うのに、お相手のことを何も存じぬというのは不公平でしょうから」
彰子は、目を輝かせた。それと同時に、胸が温かくなるのを覚えた。
(いつか私も、定子様のように、帝のそのような一面をお伺いできるようになりたい)
この夜、新月で都は夜闇に包まれていた。
彰子も定子も、実のところお互いを認識してこそいたものの、顔は見えていない者同士であった。だからこそ互いに心を通わせることができたのかもしれない。
*
この日を境に、中宮のおわす梅壺へ、藤壺女御が訪れるようになった。
挨拶だけだったのが次第に取り留めない話をするようになった。
最初は彰子を警戒していた女一宮と親王も少しずつだが彰子に懐くようになり、少納言筆頭に梅壺の女房達も中宮と幼い女御の交流を見守るようになっていた。
その関係は、定子が皇后宮、彰子が中宮となってからも変わらず続いた。
――1年後まで。
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