2 / 9
1、藤壺の主
しおりを挟む*
藤の花が生い茂るその御殿を初めて見た時、彰子は息を洩らした。こんなに見事な藤の花を彰子は見たことがなかった。これまでも望めば何でも手に入ったが、今まで生きて来てこれほど咲き誇った藤の花を見たことはない。『藤壺』。その名の所以も分かる気がする。
「藤壺を賜れるだなんて、光栄なことですわ」
「これで左大臣家も安泰。本当に幸せですこと」
「そうね。幸せだわ」
彰子の愛らしい笑顔に女房達は思わず見惚れた。
裳着を終えたばかりであどけなさが残っているものの、左大臣家の一の姫として生を受けた彰子は教養深く、美しい姫だった。
彰子は外を眺めた。外を毛むくじゃらの生き物が闊歩し、時折こちらを見ては何やらはしゃいでいる。
「声をかけておあげ」
と声がかかった。幼子特有の、甲高い声。彰子はパッと振り向いた。
そこにいたのは、同じ顔をした幼児。みづらを結った尼削ぎが風に揺れ、頬を撫でている。二人は葵色と淡黄蘗の色違いの衣をそれぞれ着ていた。
「あなた達は誰?」
彰子が問い掛けた途端、女房の一人が慌てて割って入った。
「ご無礼をお許しくださいませ。女御にょうご様は、まだ世の理をよく理解していないのです」
「構わぬ」
怯える女房に、二人の童は同時に答えた。
「娘。そなた、年はいくつじゃ」
「今年、12になったわ」
「そうか。ならば、赤子のような者じゃな。我々はこの『藤壺』が生まれる前から、ここにいる故」
「まあ。では、あなた達は妖なの?」
彰子の言葉に、一瞬童達はぽかんとしてから、勢いよく笑った。
「我々は妖などではない。あのような下等な奴らと一緒にしてもろうては困る」
「そもそも、奴らは名前すら持っておらぬのだぞ」
「名すら持てない者どもなんぞと、我らを一緒にするな」
「では、あなた達の名前は?」
「女御様!」
なんという無礼な、と女房は彰子を下がらせた。幼い女御の耳元で女房達は囁いた。
「この方達は、宮中の主。いくら女御様といえども、いきなりそのような口をお聞きになってはなりません」
「でも、藤壺は私の御殿でもあるのよ。この子達とも仲良くして行きたいわ」
「仲良く? 我らと?」
童達にと彰子は頷いた。宮中にいる人皆と仲良くなりたい。特に中宮である定子さだこは父親同士が兄弟、彰子と定子は従姉妹であった。
父の思惑は察している。しかし、それは彰子にとってあずかり知らぬこと。ならば、無理に諍いを起こすのではなく、皆で仲良くしていきたいと思っていた。
「女御、忠告してやる。そのような考えは捨てたほうがいい」
「我らは、都が建てられるより以前からこの場所に存在する」
「この世は名ばかりの美しさよ。人と人との黒き思惑や嫉妬が蠢く場所である」
「そなたはせいぜい中宮や他の女共と帝の寵愛を争うことだ」
「その純粋さはそなたの美徳だが、言われるがままにしか生きられぬその世間知らずさは、いつかその身を滅ぼすこととなろうぞ」
彰子は少しムッとした。世間知らずのつもりはない。流行の物には通じているつもりだ。手習いとて欠かしたことは一度たりともない。
「仲良くしたいと思うことは、いけないこと?」
「そなたのように正しく生きようとした者がいた。しかし、結局その者は、その純真さ故に身を滅ぼした」
「その者が生き残れているのは怒りや憎しみをも覚えたからだ」
二人のその言葉を聞いた時、彰子は胸が痛くなった。
(なんて悲しい)
怒りや憎しみ。そのような感情を持たなければいけないだなんて。皆と仲良くしたい。それだけではいけないだなんて。
「悲しい……?」
「ええ。皆が幸せでいられないなんて」
童達は彰子の顔をまじまじと見つめた後、同時に噴き出した。
葵色の童は言った。「我が名は、藤」
淡黄蘗の童は言った。「我が名は、菊」
藤。菊。その言葉を口の中反芻し、彰子は微笑みかけた。
「私は彰子。よろしくね」
藤と菊は一瞬彰子を振り返り音もなく姿を消した。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
腑抜けは要らない ~異国の美女と恋に落ち、腑抜けた皇子との縁を断ち切ることに成功した媛は、別の皇子と幸せを掴む~
夏笆(なつは)
歴史・時代
|今皇《いますめらぎ》の皇子である若竹と婚姻の約束をしていた|白朝《しろあさ》は、難破船に乗っていた異国の美女、|美鈴《みれい》に心奪われた挙句、白朝の父が白朝の為に建てた|花館《はなやかた》を勝手に美鈴に授けた若竹に見切りを付けるべく、父への直談判に臨む。
思いがけず、父だけでなく国の主要人物が揃う場で訴えることになり、青くなるも、白朝は無事、若竹との破談を勝ち取った。
しかしそこで言い渡されたのは、もうひとりの皇子である|石工《いしく》との婚姻。
石工に余り好かれていない自覚のある白朝は、その嫌がる顔を想像して慄くも、意外や意外、石工は白朝との縁談をすんなりと受け入れる。
その後も順調に石工との仲を育む白朝だが、若竹や美鈴に絡まれ、窃盗されと迷惑を被りながらも幸せになって行く。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
春暁に紅緋の華散る ~はるあかつきにくれなひのはなちる~
ささゆき細雪
歴史・時代
払暁に生まれた女児は鎌倉を滅ぼす……鶴岡八幡宮で神託を受けた二代将軍源頼家は産み落とされた女児を御家人のひとりである三浦義村の娘とし、彼の息子を自分の子だと偽り、育てることにした。
ふたりは乳兄妹として、幼いころから秘密を共有していた。
ときは建保六年。
十八歳になった三浦家の姫君、唯子は神託のせいで周囲からはいきおくれの忌み姫と呼ばれてはいるものの、穏やかに暮らしている。ひとなみに恋もしているが、相手は三代将軍源実朝、血の繋がりを持つ叔父で、けして結ばれてはならないひとである。
また、元服して三浦義唯という名を持ちながらも公暁として生きる少年は、御台所の祖母政子の命によって鎌倉へ戻り、鶴岡八幡宮の別当となった。だが、未だに剃髪しない彼を周囲は不審に思い、還俗して唯子を妻に迎えるのではないか、将軍位を狙っているのではないかと憶測を絶やさない。
噂を聞いた唯子は真相を確かめに公暁を訪ねるも、逆に求婚されて……
鎌倉を滅ぼすと予言された少女を巡り、義理の父子が火花を散らす。
顔に牡丹の緋色の花を持つときの将軍に叶わぬ恋をした唯子が選んだ未来とは?
大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜
佐倉 蘭
歴史・時代
★第9回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
「近頃、吉原にて次々と遊女の美髪を根元より切りたる『髪切り』現れり。狐か……はたまた、物の怪〈もののけ〉或いは、妖〈あやかし〉の仕業か——」
江戸の人々が行き交う天下の往来で、声高らかに触れ回る讀賣(瓦版)を、平生は鳶の火消しでありながら岡っ引きだった亡き祖父に憧れて、奉行所の「手先」の修行もしている与太は、我慢ならぬ顔で見ていた。
「是っ非とも、おいらがそいつの正体暴いてよ——お縄にしてやるぜ」
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」に関連したお話でネタバレを含みます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる