藤散華

水城真以

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1、藤壺の主

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 藤の花が生い茂るその御殿を初めて見た時、彰子あきこは息を洩らした。こんなに見事な藤の花を彰子は見たことがなかった。これまでも望めば何でも手に入ったが、今まで生きて来てこれほど咲き誇った藤の花を見たことはない。『藤壺ふじつぼ』。その名の所以も分かる気がする。
「藤壺を賜れるだなんて、光栄なことですわ」
「これで左大臣家も安泰。本当に幸せですこと」
「そうね。幸せだわ」
 彰子の愛らしい笑顔に女房達は思わず見惚れた。
 裳着を終えたばかりであどけなさが残っているものの、左大臣家の一の姫として生を受けた彰子は教養深く、美しい姫だった。
 彰子は外を眺めた。外を毛むくじゃらの生き物が闊歩し、時折こちらを見ては何やらはしゃいでいる。

「声をかけておあげ」

 と声がかかった。幼子特有の、甲高い声。彰子はパッと振り向いた。
 そこにいたのは、同じ顔をした幼児。みづらを結った尼削ぎが風に揺れ、頬を撫でている。二人は葵色と淡黄蘗の色違いの衣をそれぞれ着ていた。
「あなた達は誰?」
 彰子が問い掛けた途端、女房の一人が慌てて割って入った。
「ご無礼をお許しくださいませ。女御にょうご様は、まだ世の理をよく理解していないのです」
「構わぬ」
 怯える女房に、二人の童は同時に答えた。
「娘。そなた、年はいくつじゃ」
「今年、12になったわ」
「そうか。ならば、赤子のような者じゃな。我々はこの『藤壺』が生まれる前から、ここにいる故」
「まあ。では、あなた達は妖なの?」
 彰子の言葉に、一瞬童達はぽかんとしてから、勢いよく笑った。
「我々は妖などではない。あのような下等な奴らと一緒にしてもろうては困る」
「そもそも、奴らは名前すら持っておらぬのだぞ」
「名すら持てない者どもなんぞと、我らを一緒にするな」
「では、あなた達の名前は?」
「女御様!」
 なんという無礼な、と女房は彰子を下がらせた。幼い女御の耳元で女房達は囁いた。
「この方達は、宮中の主。いくら女御様といえども、いきなりそのような口をお聞きになってはなりません」
「でも、藤壺は私の御殿でもあるのよ。この子達とも仲良くして行きたいわ」
「仲良く? 我らと?」
 童達にと彰子は頷いた。宮中にいる人皆と仲良くなりたい。特に中宮である定子さだこは父親同士が兄弟、彰子と定子は従姉妹いとこであった。
 父の思惑は察している。しかし、それは彰子にとってあずかり知らぬこと。ならば、無理に諍いを起こすのではなく、皆で仲良くしていきたいと思っていた。
「女御、忠告してやる。そのような考えは捨てたほうがいい」
「我らは、都が建てられるより以前からこの場所に存在する」
「この世は名ばかりの美しさよ。人と人との黒き思惑や嫉妬が蠢く場所である」
「そなたはせいぜい中宮や他の女共と帝の寵愛を争うことだ」
「その純粋さはそなたの美徳だが、言われるがままにしか生きられぬその世間知らずさは、いつかその身を滅ぼすこととなろうぞ」
 彰子は少しムッとした。世間知らずのつもりはない。流行の物には通じているつもりだ。手習いとて欠かしたことは一度たりともない。
「仲良くしたいと思うことは、いけないこと?」
「そなたのように正しく生きようとした者がいた。しかし、結局その者は、その純真さ故に身を滅ぼした」
「その者が生き残れているのは怒りや憎しみをも覚えたからだ」
 二人のその言葉を聞いた時、彰子は胸が痛くなった。
(なんて悲しい)
 怒りや憎しみ。そのような感情を持たなければいけないだなんて。皆と仲良くしたい。それだけではいけないだなんて。
「悲しい……?」
「ええ。皆が幸せでいられないなんて」
 童達は彰子の顔をまじまじと見つめた後、同時に噴き出した。
 葵色の童は言った。「我が名は、ふじ
 淡黄蘗の童は言った。「我が名は、きく
 藤。菊。その言葉を口の中反芻し、彰子は微笑みかけた。
「私は彰子。よろしくね」
 藤と菊は一瞬彰子を振り返り音もなく姿を消した。
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