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六、
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金山での暮らしは、奇妙丸にとっては新鮮なことばかりだった。このまま森家の食客として暮らしていきたいと思うほどには。
「いや、それはちょっと」
勝蔵に拒まれると、冗談だ、と笑いながらも少しだけ残念にも思う。しかし、織田家の後継という立場を忘れることも許されない。
それでも城下を歩くのは素直に楽しかった。団子や饅頭を買い食いしたり、見るからに胡散臭いことしか言わない占い師の話を聞いたり。そして、その占い師の話を勝蔵は意外と聞いていたのも新しい発見だった。
「そなたは神仏の類に興味がないと思うていたが、そうでもないのだな」
饅頭をひとつ買いながら、勝蔵が首を傾げる。
「いや、俺にだって人並みの信仰心くらいあるんですけど。若は俺をなんだと思ってるんですか」
「主君を主君と思わぬ変わり者と思うておる」
「やべぇ、否定できねえ」
勝蔵は眉間に皺を寄せながら、ある商家の前で立ち止まった。
「ありがとうございました。またいらしてくださいませ――」
年の頃は、帰蝶と同じか、少し上であろうか。瑞々しい果実のような肌と、艶々と輝く黒曜の髪。珊瑚のようなあでやかな唇から紡がれる声は、鈴の音とホトトギスを合わせたような美しさであった。
「美人だな」
奇妙丸が素直に呟くと、勝蔵もうなずいた。
勝九朗がひょいと覗き込みながら、「店主の妻のようです」と教えてくれた。
「俺の父が言っていました。この店――『松野屋』で、揃わぬものはない。今、金山で一、二を争う大店らしいです」
「ほう、そうか――」奇妙丸はふむ、と竹串を勝九朗に渡した。
「すまぬが勝蔵、そなたの父か――いや、各務殿でもよい。いずれかの家臣に今夜話を伺いたい。繋いでもらうことはできるか?」
奇妙丸の言葉に勝蔵はうなずいた。
「ぴゃん」
ふと、足元で猫の鳴き声がする。まだ乳離れして間もないような、甲高い鳴き声だった。
雪のように真っ白な猫が、奇妙丸の足元で震えながら勝蔵を見上げている。琥珀のような瞳で、赤い紐を首に括りつけられていた。
「迷い猫でしょうか……首輪もついているし、飼い猫ですかね……?」
「で、あろうな」
奇妙丸が猫を抱き上げる。すると、また別の甲高い声が響いた。
「いた!」
鉄砲玉のような勢いで、童女が駆け抜けてくる。黒曜のような大きな瞳と、赤く染まった唇。白磁のようなきめ細かな肌。そして何より、日の光を浴びて輝きを増す真っ黒な美しい髪に思わず3人とも見惚れた。
年の頃は、乱丸と同じくらいであろう。少女は奇妙丸に向けて手を伸ばした。
「そなたの猫か」
奇妙丸が渡してやると、童女はうなずいた。
「寒花っていうの」
「寒花?」
「そう。母ちゃまがね、ゆってたの。冬の花を、寒花ってゆうの」
「そうか。そなたの母は、博識だな」
奇妙丸の亡き母も、商いに通じる家の娘だった。顔も覚えていない生母の面差しを思い浮かべ、胸の奥が鈍く痛んだ。
「おにいちゃまたちは、おさむらい様?」
童女が不思議そうな顔で、首を傾げる。寒花と呼ばれた猫は、童女の腕の中で気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
「寒花ねえ、籠をきれいにしてたらねぇ、抜け出しちゃったの。あんまり遠くに行ってなくてよかった! おにいちゃまたち綺麗だから、好きなのよ、きっと。寒花も、女の子だから」
童女は寒花を抱き直すと、礼を言って踵を返した。世話役と思しき少女が慌てて出迎えている。屋敷を抜け出したのは、猫だけではないらしい。
ただの町民にしては、着ている衣は高価なものである。髪からは香油で手入れされた甘いにおいがしたし、肌も綺麗で子どもらしいふっくらとした丸顔だった。指先も皸ひとつなかった。
童女が猫とともに入って行ったのは、辺りで一番大きな大店――先ほど勝蔵が見惚れた美人な店主の妻がいた建物だった。
「……松野屋の主には、一人娘がいるそうです」
勝九朗が呟いた。乱丸よりひとつ年上で今年4歳になるらしい。
「そうか。――随分可愛い猫であったな?」
これはよい口実ができた、と奇妙丸は唇をゆがめたのだった。
「いや、それはちょっと」
勝蔵に拒まれると、冗談だ、と笑いながらも少しだけ残念にも思う。しかし、織田家の後継という立場を忘れることも許されない。
それでも城下を歩くのは素直に楽しかった。団子や饅頭を買い食いしたり、見るからに胡散臭いことしか言わない占い師の話を聞いたり。そして、その占い師の話を勝蔵は意外と聞いていたのも新しい発見だった。
「そなたは神仏の類に興味がないと思うていたが、そうでもないのだな」
饅頭をひとつ買いながら、勝蔵が首を傾げる。
「いや、俺にだって人並みの信仰心くらいあるんですけど。若は俺をなんだと思ってるんですか」
「主君を主君と思わぬ変わり者と思うておる」
「やべぇ、否定できねえ」
勝蔵は眉間に皺を寄せながら、ある商家の前で立ち止まった。
「ありがとうございました。またいらしてくださいませ――」
年の頃は、帰蝶と同じか、少し上であろうか。瑞々しい果実のような肌と、艶々と輝く黒曜の髪。珊瑚のようなあでやかな唇から紡がれる声は、鈴の音とホトトギスを合わせたような美しさであった。
「美人だな」
奇妙丸が素直に呟くと、勝蔵もうなずいた。
勝九朗がひょいと覗き込みながら、「店主の妻のようです」と教えてくれた。
「俺の父が言っていました。この店――『松野屋』で、揃わぬものはない。今、金山で一、二を争う大店らしいです」
「ほう、そうか――」奇妙丸はふむ、と竹串を勝九朗に渡した。
「すまぬが勝蔵、そなたの父か――いや、各務殿でもよい。いずれかの家臣に今夜話を伺いたい。繋いでもらうことはできるか?」
奇妙丸の言葉に勝蔵はうなずいた。
「ぴゃん」
ふと、足元で猫の鳴き声がする。まだ乳離れして間もないような、甲高い鳴き声だった。
雪のように真っ白な猫が、奇妙丸の足元で震えながら勝蔵を見上げている。琥珀のような瞳で、赤い紐を首に括りつけられていた。
「迷い猫でしょうか……首輪もついているし、飼い猫ですかね……?」
「で、あろうな」
奇妙丸が猫を抱き上げる。すると、また別の甲高い声が響いた。
「いた!」
鉄砲玉のような勢いで、童女が駆け抜けてくる。黒曜のような大きな瞳と、赤く染まった唇。白磁のようなきめ細かな肌。そして何より、日の光を浴びて輝きを増す真っ黒な美しい髪に思わず3人とも見惚れた。
年の頃は、乱丸と同じくらいであろう。少女は奇妙丸に向けて手を伸ばした。
「そなたの猫か」
奇妙丸が渡してやると、童女はうなずいた。
「寒花っていうの」
「寒花?」
「そう。母ちゃまがね、ゆってたの。冬の花を、寒花ってゆうの」
「そうか。そなたの母は、博識だな」
奇妙丸の亡き母も、商いに通じる家の娘だった。顔も覚えていない生母の面差しを思い浮かべ、胸の奥が鈍く痛んだ。
「おにいちゃまたちは、おさむらい様?」
童女が不思議そうな顔で、首を傾げる。寒花と呼ばれた猫は、童女の腕の中で気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
「寒花ねえ、籠をきれいにしてたらねぇ、抜け出しちゃったの。あんまり遠くに行ってなくてよかった! おにいちゃまたち綺麗だから、好きなのよ、きっと。寒花も、女の子だから」
童女は寒花を抱き直すと、礼を言って踵を返した。世話役と思しき少女が慌てて出迎えている。屋敷を抜け出したのは、猫だけではないらしい。
ただの町民にしては、着ている衣は高価なものである。髪からは香油で手入れされた甘いにおいがしたし、肌も綺麗で子どもらしいふっくらとした丸顔だった。指先も皸ひとつなかった。
童女が猫とともに入って行ったのは、辺りで一番大きな大店――先ほど勝蔵が見惚れた美人な店主の妻がいた建物だった。
「……松野屋の主には、一人娘がいるそうです」
勝九朗が呟いた。乱丸よりひとつ年上で今年4歳になるらしい。
「そうか。――随分可愛い猫であったな?」
これはよい口実ができた、と奇妙丸は唇をゆがめたのだった。
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