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第三章 滅びた小国と魔女の記憶

3-1.亡国と薔薇石英

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 クレメンスはそれから三日程霧の森に滞在した。
 その間、ネーベルは彼から様々は話を聞いた。

 ──クレメンスは、生まれたばかりのラルフを〝狼の加護を受けたと強き者〟と占術と幻視によって、告げたそうである。

 物心ついた時からクレメンスと関わりがあるネーベルだが、そんな事は初めて知った。
 事実、ラルフは夏至に近い赤の満月を瞳に映すと、獣の姿と化す正真正銘の人狼らしい。しかし、決して驚異的存在でなく〝森の加護を受けた者〟というだけ。〝極めて善良な存在であり恐れる事は無い〟と、侯爵に釘を刺したそうだ。

 クレメンスも多忙だ。王宮専属魔道士とは言え、呼ばれもしなければ赴く事も無い。その後、侯爵家ではどうなっているのか、詳しい話を知らなかったそうだ。
 肖像画は出回らず、社交界にも姿を現す事も無く。未知の存在──人狼王子、ラルフ・フェルゲンハウアーという名だけが一人歩きしていたそうだ。きっと、自分がああ告げた所為で、ラルフの存在は侯爵家から隠蔽された存在となっているのだろう。彼を異端に仕立て上げてしまった原因は間違い無く自分にある──クレメンスはそう懺悔した。

 ラルフが正真正銘の人狼ならば、いずれは同じ結果となると思えてしまう。それに、ネーベルから見たラルフ本人は、人狼である事を特別気にしている素振りは皆無かいむに等しい。どちらかと言うと、侯爵が無関心な事に侘しさを感じているとうかがえる。
 むしろ、クレメンスが城まで赴き、彼に謝罪したとしても、あの軽妙で狡猾な口調で『何言ってんだお前』とでも言いそうな気がしてならない。
 ラルフの口の悪さとあっけらかんとした性質をネーベルが言うと、クレメンスは「占術通りに育ったね」と、苦笑を溢した。 

 また、霧の魔女が異端と蔑まれる理由もクレメンスは細やかに教えてくれた。
 ……霧の魔女の始祖は、人を貶め呪う悪しき黒魔女だったらしい。
 呪術の才があるとおぼしき女児を攫う他、森に打ち捨てられた娘を拾うなど。そうして新たな魔女を育て、代々続いてきたそうだ。

「顔を晒してはならない」「名を教えてはならない」この掟も、恐らく黒魔女時代の名残だろう。悪い境遇に追いやられた時、回避する逃げ道だとクレメンスは言う。

「そもそもね。古い時代は、魔女や魔道士に白も黒も無かったんだよ。顔を晒すな、名を教えるな……ってこれは全部、昔の名残だよ。ほら、僕を見ればよく分かるだろう」

 そう言って、クレメンスはローブのフードを深く被った。

「王族貴族に仕える王宮専属魔道士だって同じ事だよ。信用における存在以外に決して名を教えなければ、顔だって晒さない。ネーベルは僕とドルテ様以外に魔女や魔道士を見た事も無いから、あまりピンと来ないかもしれないけれどね」

 ──全ては立場を守る為。そう締めた後、クレメンスは一呼吸置いて再び唇を開く。

 黒魔女から白魔女となったのは、ネーベルの祖母ドルテの代だったそうだ。
 年月で言えば、半世紀以上も昔の事だが、それでも割と最近の事である。
 ドルテもまた森に捨てられた娘だったらしい。また、ネーベルと全く同じ過ちを犯したそうだ……。
 ドルテもまた、些細な事で人前で顔を晒してしまったらしい。それが災いし、顔を見られた男に惚れられ、やがて恋に落ちたそうだ。だが、代々と続く異端の黒魔女という肩書きの所為で、愛した男を不幸に追い込んでしまったそうだ。

 その罪滅ぼしもあったのだろう……。
 先代が亡くなった後、ドルテは薬草学を学び、医者の真似事をして民を助け、幸福へと導く占術と呪術を商売にしたという。
 しかし、何故、祖母のドルテはそれをと教えてくれなかったのかとネーベルは疑問に思う。その疑問をクレメンスにけば、彼は言い淀み、暫く間を開けた後──『幸せにして欲しい』という願いがあったからだと告げる。
 当然のように、その言葉は聞き覚えがあった。全ては、あの業火の幻視に繋がるのだろう。母の言葉だ。それが分かり、ネーベルは口をつぐむ。

「いくら才を持つからと言って、師は貴女を魔女になんてさせたくなかったのです」
 長い沈黙の後、ポツリと呟いたクレメンスの言葉にネーベルは耳を疑った。

 ──その理由は、頑固な祖母ならば絶対に明かさないような事だった。

 ネーベルは幼少の頃より神秘の加護を持ち、その力を扱う魔女の素質を持っていた。だが、託した者の願いがあったからこそ、ドルテはネーベルを異端と蔑まれる霧の魔女にさせたくなかったそうだ。困ったものだと散々に頭を抱えたらしい。
 その頃、既にドルテも晩年を迎えていた。自分が老衰でいずれ死ぬ事も理解していたもので、ネーベルが一人でも生きて行けるように……と、やむを得ず占術・呪術・薬草学と白魔女としての教養のみを叩き込んだそうだ。
 出来る事ならば、天へと旅立つ前に、このような異端としての扱いを拭ってあげたかったそうだ。だが、それが出来なかった事を申し訳が無かったと、弟子であるクレメンスには漏らしていたらしい。
 だから、命をかけて自らを呪った事をあんなにも叱咤し、憤怒したのだと今更のように理解出来る。父母もおらず、血も繋がらない祖母だけが唯一の家族だった。当たり前のようにネーベルは祖母に深い情はあった。

 なんて、頑固なのだろう。けれど、なんて優しい祖母だったのだろう。そんな風に思えてしまい、ネーベルは泣かずにはいられなかった。
 そしてクレメンスはもう一つだけ、ドルテから託された言葉をネーベルに伝えた。

『万が一にも、お前が心から愛おしいと思い、お前を愛してくれる者が現れたならば、真実を全て教えておやりなさい。その方だけは顔を見せても構わない。霧を意味する、儚くも美しい名を教えておやりなさい。必ず、幸せになりなさい』と。

 だから、本当に愛し合い、幸せになりたいのであれば、ラルフ・フェルゲンハウアーに掟は関係無い──とクレメンスに説かれたのであった。


 ベッドに横になり、それを思い返したネーベルは窓の外から僅かに見える夜空を見つめた。夜空には夏の星座、ヴェーガの配列がもう煌めいている。
 この星の並びが見えるという事は、完全に初夏に差し掛かったのだと改めて分かる。
 しかし、侯爵が帰ってきてからというものの、ラルフはこの森に訪れる事は無くなった。それでも、彼はまた会いに来ると言ってくれた。

(早く、彼に名前を呼ばれたいわ……)

 寝返りを打ったネーベルは、枕元に置いた臙脂色えんじいろの古本に目をやった。
 ──厭らしいシーンはさておき。この物語のような幸せな結末を辿りたい。
 群青の星空に祈り、ネーベルは手燭のあかりを吹き消して眠りに落ちた。

  *

  いくら無関心とはいえ、こうも毎日外出している事が父親に知れたら厄介だろうか──そう思って、ラルフはあの日から城に閉じ籠もっていた。

 ……とは言え、呼ばれぬ限り父親と顔を合わす事は無い。否や、そもそも呼ばれる事などない。

 ここまで馬鹿みたいに平和なのだから、やる事だって当然無い。ラルフは自室に籠もりきりの生活に戻った。食うか寝るか……晩に庭へ出て剣の鍛錬を行うだけの退屈な生活だ。

 しかし、早起きが週間となっていた所為か夜明けの前に勝手に目が覚めてしまう。窓を開けて夜風に当たった後に、昼過ぎまで眠りに落ちる事が多かった。

 そんな日々が一週間近く経過してからだろうか。
 日中に部屋でぼんやりと本でも読んでいれば、唐突にノックが響いてくる。ラルフはそれに返事もしない。すると目付役の使用人、エトムントが部屋を踏み入って来た。

「なんだよ」

 読んでいた本を閉じて、近くまで寄ったエトムントをラルフは睨み据える。
 どうにも昔からいけ好かない。いかにも善良な紳士といった上品な見てくれの男だが、如何いかんせん堅苦しく、小言が多いのが気に食わない。
 ……嫌な爺が来た。思いっきり顔をしかめると、エトムントもいぶかしげに眉をひそめて「お客様ですよ」と手短に答えた。

「俺に客?」

 今まで自分に客人など来た事も無い。不審感にラルフは眉根を寄せた。
「どうか無礼は無く」と、釘を刺すよう刺々しくエトムントは言う。ラルフは更に不機嫌になって顔をしかめた。

 ──エトムントは使用人とは言え、中流貴族の出という事もあり、礼儀作法にやたらと厳しい。返事もせず睨んでいれば、一つ咳払いをした後に「礼儀正しく」としつこく訴えてくる。

「通してくれ、茶なら俺が取りに行く。アンタは出ててくれ」

 ラルフは手を払うようなそぶりをして、エトムントを部屋の外へと追いやった。
 エトムントが部屋から出て行くと、すぐに次のノックが響く。しかし扉は開く事もなく、不審に感じたラルフはドアノブに手を伸ばす。
 基本的に城の者は返事をせずとも入ってくる。だが、来客となれば違うのだろうか……。

「入って構わんが……」

 そう言って、ラルフはドアを開ける。しかし同時に、目に飛び込んできた姿にラルフは目を丸くした。

 ──来客は全身黒ずくめ。長身の男だった。
 金刺繍のあしらわれたフードには水晶の飾りが揺れている。その装いはどこか霧の魔女に似ているだろう。また、フードを深々とかぶって顔が露出しておらず、不気味としか形容しようもない。来客と言われて、いきなりこんな不気味な者が現れたのであれば、誰もが硬直するであろう。ラルフも何も言えず、暫く硬直してしまった。

「ラルフ・フェルゲンハウアー様、お久しぶりでございます」

 見た目からして、嗄れたおどろおどろしい声かと思ったものだが、男の声は清流の如く透き通っていた。ラルフは神妙な面持ちに変えて首を傾げる。
『久しぶり』と言われたが、当然こんな男は知らない。だが、部屋に通したのに立ち話もおかしいだろう。一応は来客だ。エトムントにも『礼儀正しく』と釘を刺された事を思い出し、彼は怪しい客人を部屋に招き入れ、ソファに座るように促した。
 一つ礼をして着席した男は、目鼻を覆い隠していたフードを脱ぐ。
 その中身は、ラルフとそう歳の変わらない風貌の男だった。
 月の光を糸にして紡いだかのよう。神秘的な長い銀髪に、切れ長の瞳は紫水晶のよう。まるで神話の絵画から出てきそうな異質な美しさを持つ男だった。

「……で、あんた誰だ」

 向かいの椅子に座したラルフは、その美しさに気圧されながらも問いかける。

「ああ、申し遅れました。僕はクレメンスと言います。王宮専属魔道士です」

 そう言った彼は、花が綻ぶような優しい笑みを浮かべた。益々、気圧された。ラルフはやや顔を引き吊らせつつ唇を開く。

「王宮専属の魔道士様が俺なんかに顔を晒して良いのか……で、何の用だ?」

 霧の魔女には素顔を見せてはいけない掟があるそうだ。詳しくは知らないが、似たようなものだろう。だから、魔道士もこんなに易々と人に顔を晒して良いとは思わなかった。
「よくご存知で」感嘆して述べた後、クレメンスは壮麗なおもてを少しだけ固くした。

「……王宮専属魔道士。つまり貴方の出生の際に人狼と言った者ですが」

 クレメンスは真剣そのものの眼差しでラルフを射貫いた。

「この件について……」

「詫びか?」

 言わん事を理解して、ラルフは釈然とした口調で口を挟む。
 王宮専属魔道士と語り、いかにも申し訳の無さそうな顔を向けられれば、何を言わんとしたかなんて容易に理解出来る。

「あんたは事実を言っただけだろ。別に俺は人狼で困った事なんか一度もねぇ」

 ──だから気にするな。と、自己論を言い切ってラルフは狡猾に笑む。すると、クレメンスは凝り固まった壮麗なおもてを少しだけ緩めた。

「……やはり霧の魔女の言う通りですね。僕の占術通りに貴方は立派に育ちました」

 全てを見透かすような紫水晶の瞳。それに分かりきっているかのような口ぶりに、いけ好かないと思えてしまう。それでもこの男が悪意も敵意も向けていない事が分かるものでラルフは別に不愉快には思わなかった。

「身なりが似てると思えば、やっぱり霧の魔女の知り合いか?」

「ええ、前代の弟子です。今の霧の魔女は僕にとっては娘みたいなものです」

「あいつに何か言われて俺の所に来たのか?」

 前代の弟子。現在の霧の魔女と繋がる者。
 それが分かった時点で、霧の魔女との話だとラルフはすぐに理解した。顔を見た。執着的に通い詰めた。唇を二度も奪った。もう、色々と心当たりはあり過ぎる。説教だろうか……。ラルフは目を細めて、クレメンスを射貫く。

「まぁ、彼女に纏わる事です。別に彼女に何か言われて来た訳でもありませんが」

 クレメンスは、ラルフから僅かに視線を外して話を続けた。

「ラルフ・フェルゲンハウアー様。あの娘を……命を懸ける程に愛し、幸せにする覚悟が貴方にあるのか……と、聞きたくて」

 澄んだ声ではあるが、その言葉はやや切れが悪い。
 いったいこの男が何が言わんとしているか分からない。だが、ラルフはフンと鼻から息を抜き、心の中にある答えを出す。

「愚問だな。あるに決まっている」

 毅然と言い放ち、ラルフは続けて唇を開いた。

「そもそもは俺の一方的な一目惚れだがな、確かに初めは見てくれに惚れたのは認める。だがな、あいつは何時だって人の事に徹するひたむきで優しい心を持っている。人狼の俺には勿体ないくらいに思うが、俺はそこに惹かれている」

 だからこそ、守ってやりたいし傍に居たい。名前さえ知らないがな……。と、ラルフが抱く思いを素直に述べると、クレメンスは慈しむような笑みで頷いた。

「そうですか。その言葉を聞き、彼女を貴方に託すして何一つ問題が無いと分かり、安心しました。ですが、託す以上は彼女の事を知って頂かなくてはなりません」

 紫水晶の瞳を僅かに伏せて、クレメンスは囁くように語り始めた。

 ────十六年前。北の国々が戦に明け暮れた終盤。みすぼらしい異国の女が娘を抱えて、霧の森へ逃げて来たそうだ。その女を見つけたのは前代の霧の魔女。
 女は目を覆いたくなる程の酷い火傷を負っていた。懸命な看病をしたが『娘を幸せにして欲しい』と願いを託して、息を引き取ったそうだ。
 残された娘……それこそが、ラルフが愛した現在の霧の魔女である。
 しかし、彼女は北国の庶民の子で無かった。
 全てを知ったのは、母親の埋葬の時。首元に光るものを見つけて探った所、エスピリア王室の紋章を刻んだ薔薇石英のペンダントを着けていたのだと。
 これはかの亡国の王妃のもの。美しくカットされた薔薇石英を中央に。金剛石で縁取られた細工は芸術の域。薔薇雫の結晶とも呼ばれる。
 これは近隣国でも有名だった。あまりに精巧な作りで、複製など困難極まりない。
 そもそも薔薇石英自体が珍しい鉱物だ。遙か遠い北か東の国に行かなくては入手困難だ。だからこそ、一流の彫金職人でさえ複製品を作ろうとしないらしい。
 この仰々しい遺品で、母親は亡国の王妃と知り、残された娘が王女だったと先代の霧の魔女とクレメンスは知ったそうだ。

 滅びた国の王女──信じがたい秘話にラルフは流石に驚嘆した。

 確かに、あの娘の素顔は魔女にしてはあまりに可憐だ。ローブを脱ぎ、王女と言われれば納得する。それに〝過去の記憶を呪って封じた〟と言った言葉もあったからだろう。これは恐らく、真実だと察する。

「しかし……そのお姫様がどうして、占術やら呪術を扱う才能があるんだ」

 ラルフはだらしなく背もたれに頭を預け、尤もな疑問をクレメンスに投げかけた。

「僕達も後々調べて知った事です。全ては血筋です……」
 クレメンスは物憂げな面持ちを浮かべながら言葉を続けた。

 滅びたエスピリア王国は更に北に位置するソルヤナから派生した国らしい。単刀直入に言うと、ソルヤナ王家の子息が森を拓きエスピリアという国を築いたそうである。
 さらに掘り返すと、ソルヤナは「北の最果て」や「白き地獄」と呼ばれる、永久凍土に住まう狩猟民族と密接な関わりを持ち、共に歩んできたそうだ。
 その狩猟民族は二人の巫女が存在し、星占術の導きにより狩り場を求め永久凍土を移り住まっていたそうである。だが、厳しい環境の中で飢えや寒さから免れ南下したした者と、永久凍土に残った者で、民も巫女も二つに分かれたのだと言う。
 そして、南下した巫女はソルヤナとエスピリアの架け橋となった。つまり、エスピリアの王子と結婚した。つまり、現在の霧の魔女は南下した巫女の血を引く。だからこそ、神秘の加護を持ち、占術と呪術を扱う才能が充分にあったのだクレメンスは説いた。

「随分壮大な歴史が絡んでるのな……」

 随分と噛み砕いた説明と結論を言われたが、小難しい。
 ラルフは他国の歴史には疎い以前に小難しい話が苦手だった。背もたれに預けた頭は先程よりもズリズリと下り、腰は椅子からはみ出しそうになっている。

「なんとなく背景は掴めたが……それで、あいつは自分の記憶を封じたのな」

 椅子から落ちそうな程だった体勢を直してラルフは、クレメンスと再び向かい合う。
 散々に追い回し、執着してきたのだから分かるが、霧の魔女と呼ばれるあの娘は聡明だ。
 家の本棚には薬草学に纏わる本だけではなく、物語に伝記の他にも小難しい本が夥しく並んでいる。
 間違いなく、薄々自分で気付いたのだろう。だから、確かめるように占ったに違わない。 ラルフがクレメンスにそれを言えば「全くもってその通り」と、吐息混じりに答えた。

「しかしあの娘が自らかけた呪いは、彼女が扱うには強過ぎる呪術ですからね。もはや助かった事が奇跡という程に」

 ──だから、願いを託した彼女の母、王妃の為にもこれ以上彼女を苦しめない為にも、この話はあの娘にしないで下さい。ただ、貴方には知って欲しかった。クレメンスはため息交じりにそう付け添えた。
 ラルフだって彼女を傷付けたく無いとは思ってしまう。何も知らず、何も分からず生きた方が幸せに違いないだろうと思う。過去の幻視の残滓で苦しむ彼女を目の当たりにしてあるのだ。

「……言えねぇよ」

 率直に言えば、クレメンスはラルフに黙って頭を垂れた。
 用件は以上だった。それから、部屋を出てラルフは城の外までクレメンスを見送った。
 夏至も近い所為か、空は未だ真昼のように明るい。

「あぁ、貴方にもう一つ」

 フードを深々とかぶったクレメンスは、去り際にラルフに近づいて一つ耳打ちをする。
 次に会った時、あの娘の名前を尋ねてみなさいと。そして、占術では近い未来、彼女に命に関わる程の苦難の輪郭が見えるのだと……。だから必ず貴方の牙で守ってあげて欲しいと。それだけを伝えて彼は城を去って行った。

 
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