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第六章 旅の終わり

6-5.冬の始まり

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 ──王城での生活が始まり早二ヶ月以上。レイヤの生活は一変した。

 宛てられた部屋は、エリアスの隣の部屋だ。隣とはいえ、部屋のドアの距離感がやたらと広い。当然のように中は閑散と広く、目も眩む程の絢爛な内装だった。

 天井には百合の花を逆さにしたようなシャンデリアがぶら下がっており、天蓋のついた白いベッドは細やかな金の装飾が施されている。また、部屋の四隅にはこれまた絢爛なしつくい装飾がついていた。

 大きな変化は侍女を宛て側てたのもそうだろう。
 その侍女とは、城に来た当初エリアスの乳母バーバラを咎めた苺金髪の使用人だった。
 彼女はクラリッサというらしい。歳はエリアスと変わらぬ妙齢だ。非常に物腰が柔らかく、温厚な性格な事から、レイヤが彼女に打ち解けたのは比較的早かった。

 ……しかし、城での生活になってからというものの、自由は無くなり退屈極まりなかった。

 纏う衣類は簡素な民族衣装から、華美で動きにくいドレスとなった。今現在レイヤが纏っているものは、瞳の色によく似たアイスブルーを基調としたもので、裾に行く程ライラックのグラデーションがかかった美しいものだった。小ぶりな胸が際立たないよう、デコルテ周辺が秘されたもので、可憐で少女的なデザインだ。

 それに、翌春の結婚式の為に髪の毛を切れなくなったので、今では肩甲骨に届く程の長さとなった。もはや、売られた当初とは別人のようにレイヤ本人も思っていた。
 とてつもなく鬱陶しいのでばっさりと切りたくて堪らない。切って欲しいと懇願したものの、クラリッサやバーバラに「ダメです」と、ピシャリと言われて落ち込んだ回数は数知れず。
 更にそれを落ち込ませたのは、静かに過ごすように言われたからだろう。外に出られるにしても庭園を散歩する程度で、走ったり飛び跳ねたりすれば、クラリッサに真っ青な顔で咎められる。非常に不便な生活で不満も多かった。それでもレイヤはこれらに全て従った。エリアスと添い遂げる約束をしたのもそうだが、妊娠の疑いがあったからだ。

 ……あれからというもの月の障りが来ていない。しかし。身体に不調は無く普段と何ら変わらない。腹だって薄っぺらいままだった。
 果たして、この中に本当に彼の子がいるものか。と、レイヤは腹を擦ってペンを置く。

 思えば四六時中一緒に居たエリアスとも、部屋が隣あっている癖に一日に一度か二度顔を合わす程度でさほど会わなくなった。この所は忙しいようで、かれこれ三日は会っていない。何やら忙しいとは聞いていたが、具体的に何をしているかはレイヤには分からなかった。

 ちらりと窓の外を眺めると、どんよりとした灰色の雲がびっしりと空を覆い隠していた。雪雲だ。恐らく今日明日に初雪を降らせるのだろう。そう思いつつ、再び紙に向き合おうとするが、どうにも何を書こうか悩ましく思えてしまった。
 レイヤが今必死に取り組んでいたのは、ノキアンの夫妻に宛てた手紙だ。夫妻からほぼ毎日のように手紙が来る。なのでレイヤも日記のようにほぼ毎日の手紙を綴って送っていた。
 ほぅ。とため息を漏らして、今一度窓の外を眺めた後〝今日も元気にしてるよ。ソルヤナは初雪が降りそうです〟と文字をしたためたて暫く──こうが響いた。返事して間もなく、部屋に入ってきたのはクラリッサだった。

「お手紙今日も頑張ってますね。レイヤ様、お茶はいかがです?」

「うん、ちょうだい」

 手を休めて彼女を見ると、クラリッサは引き摺ってきたワゴンの上のカップに温かいお茶を並々と注ぎ、木苺のジャムを入れてレイヤの前に置く。

「今日は寒いですからね、身体を冷やさないようにしませんと」

 優しく笑んだ彼女にレイヤが礼を言うと、彼女は綺麗な一礼をした。
 しかし、本当に所作が美しい。髪色も年齢も違えど、所作の優雅さや優しげな顔立ちが、どうにも愛しき親友に似ていると思えてレイヤは食い入るようにクラリッサを見つめてしまう。

「どうしたのですか?」

 あまりにジッと見つめて不審に思ったのだろうか。クラリッサは不思議そうに首を傾げた。

「やっぱり、クラリッサは私の親友によく似てるなって思っただけ」

「ヘレナ様ですよね?」

 ワゴンから焼き菓子をそっと出して、クラリッサは微笑する。
 離れ離れになった親友──ヘレナの事は何度か彼女に話をした事があった。レイヤは頷いて熱いお茶を一口含む。

「エリアス様が今も捜索しているそうですが、どうにも未だ見つからぬそうで……。無事を祈るしか出来ない事は歯痒いですよね。ですけどきっと、ヘレナ様もレイヤ様の事をいつも考えているに違いませんよ」

 彼女が優しく諭すように言ったと同時──バタン! と大きな音を立て、部屋の扉が乱暴に開いた。

「おい! レイヤいるか?」

 不作法に入って来たのはエリアスの近衛兵。エドガーだった。

「あ、エドガーだ」

 レイヤは彼の態度を気に留めぬが、傍らに寄り添う侍女は決してそれを許さない。

「ちょっとエドガー様! 失礼ですよ!」

 ずかずかと部屋に入り込むエドガーにクラリッサは顔を真っ赤にして彼に立ち向かった。

「失礼も何もエリの嫁だし、お前も俺もエリの幼馴染みだ。細けぇ事を気にするなよ……お前、美人なのにそんなにカリカリしてると小皺が増えるぞ」

「エドガー様は常識が欠落しています! 貴方、幾つなんですか!」

 帰れ。と、言わんばかりに、クラリッサはエドガーの無骨な身体を押し返すが虚しい抵抗だろう。彼はビクリとも動かず、クラリッサを見下ろしてニヤリと笑む。

「おいおいクレア、俺が好きだからってそんなに触るなよ」

 そんなに触りたいなら……と続けるが「変な事、言わないでください!」と彼女は悲鳴交じりに叫んだ。そのおもてはすっかり真っ青で今にも泣きそうだった。

 ……いや。これは、きっとエドガーの方がクラリッサを好きなのだろう。クラリッサがどう思っているかは不明だが。と、レイヤは傍観しながら思った。

 先程エドガーは幼馴染みの間柄だと言った。だから愛称で呼ぶのも納得する。しかし思えば、ソルヤナで船を下りた時に、〝誰かに取られる〟だのエリアスがエドガーに好いている相手がいる事を仄めかすような事を言っていた気がする。彼女の事だろうか。そう思って、レイヤは、必死にエドガーを押し返そうとするクラリッサに目をやった。

 エドガーはクラリッサの腕を掴み、顔を覗いて笑んでいる。それもくっつきそうな程に距離が近い。片や、捕らわれた彼女は今度は顔を赤くして唇だけをパクパクと動かしていた。

 ……怒っているか照れているか不明だが、恐らく両方だろうか。彼女の表情の変化が何だか新鮮には思うが、段々とクラリッサは可哀想になり、レイヤは深い息をつく。

「で、エドガーどうしたの? 私に何か用?」

 その一言で侍女と近衛兵の悶着は収まった。

「ああ、そうだよ。クレアとじゃれてて忘れるとこだった。エリからレイヤ宛の手紙を預かっててなぁ?」

 エドガーは上衣のポケットから封筒を取り出して、レイヤにそっと手渡した。

「エリアスが私に?」

「ああ、そうだ」

「何だろう?」

「何でしょうね?」

 落ち着きを取り戻したクラリッサは、レイヤを見て優しく笑む。
 ……しかし。
「夜這いの予告じゃねぇの?」と、エドガーが言ったと同時に、彼女は再び顔を真っ赤にしてワナワナと震え上がった。

「何でエドガー様はそういう卑しい事を言うのですか!」

「よばい?」

 言葉の意味を理解出来ず、レイヤが首を傾げて復唱すると、彼女はプルプルと首を振るう。

「いいのです! レイヤ様はそんな卑しい言葉を分からなくて問題ありません!」

 卑しい。つまり、恥ずかしい言葉に違いないだろう。レイヤはそれ以上を口にする事もなく、手紙を呆然と見つめた。
 その後、近衛兵と侍女は未だ仕事があるからと部屋を出て行ってしまった。否や、どちらかというとエドガーがカリカリと怒っているクラリッサに引き摺られて出て行ったといった方が正しいだろうか。
 一人になってレイヤは封を切るが『今夜、愛する君の部屋にお邪魔させて』と、短く綴られていただけだった。



 陽が暮れて、食事と湯浴みを済ませた後、レイヤはモーゼフとラウラ宛に書いた手紙を封筒の中に入れていた。明日クラリッサに渡して送付して貰おう。そう思いつつ、レイヤが封筒に宛名を書いている最中、軽快なこうが響く。
 きっとエリアスに違いない。立ち上がったレイヤは返事せずに、扉を開くと案の定エリアスだ。

「エリアス!」

 三日程だが、随分久しく見た気がする。嬉しくなって、思わず彼の胸に飛び込むと、エリアスはレイヤを抱き上げ、頬に額に甘やかなキスの雨を降らせた。

「暫く会わない間に甘えん坊になったね」

 クスリと笑んで言われてしまい、妙に恥ずかしくなってしまった。レイヤが顔を赤らめてそっぽを向くと、彼は丁重な所作でレイヤを床に下ろす。

 久しぶりに見たエリアスの装いはぎんゆうじんのような面影も無い。
 紺色の上衣に白いシャツを合わせ、首元にはレースを幾重にも重ねたクラバットをつけている。その様ときたら、まさに王子としか形容出来ない。このような装いの彼にはいい加減に段々見慣れてきたものだが、それでもやはり見惚れてしまう程に美しい。しかしあまり見ては、居心地悪そうにされるだろうと分かって、レイヤは直ぐに本題を切り出した。

「ね。どうしたの? 何か私に大事な話でもあるの?」

 そう告げると、彼は少し照れたように頬を掻いた。

「今日決まった事だけど、僕……領土と公爵位を与えられたんだ」

 ──君の故郷すぐ近く、針葉樹林タイガを間近にしたヴィンテル・ダールという静かな辺境地さ。と、どこか改まった面持ちでエリアスは告げた。

「……永久凍土ツンドラの近く?」

 つまり、今後はそこで暮らすようになるのだろうか。レイヤが首を傾げて聞くと、彼は深く頷いた。

「うん。お前はそこを納めろってね。きっと君の事を思って王はそう決めたんだと思うよ」

 しかしエリアスのおもては、どこか申し訳無さそうだった。

「だけど、君に一つ嘘を吐いたから謝らないといけない。君の親友を探しに、またああして二人で旅に出たかったが出来そうに無い。そこで落ち着くと思う。勿論、君の親友捜しは今現在も尽力している。勿論、見つけるまで探し続けるつもりだけど」

 ごめん。と深々と謝られるが、レイヤは直ぐに首を振る。

「別にいいよ、気にしてないよ」

 流石に仕方ないだろう。それに、もう無知で無いのだから彼の身分故の多忙さはレイヤはよく分かっていた。きっとこの三日間だって忙しかったのだと想像は容易い。何せ、彼の瞼の下に薄く隈ができており、寝不足と窺えたからだ。

「それより、エリアスこそ体調を崩さないように気をつけて。今日、寒いもん」

 雪でも降りそう。と窓の外を見ると、早くも粉雪がちらつき始めていた。

「ありがとう……って、ああ本当だ。初雪だね」

 同じように窓の外に目をやった彼は苦笑いを浮かべた後、レイヤと顔を見合わせる。

「そういう君こそ体調には充分気をつけてね。これから冷える場所に行くから暖かくして、沢山服も着込まないとね」

 今度は優しい笑みを向けて彼は言うが、やはりエリアスも過保護すぎるとレイヤは眉をひそめた。

「その事だけど……私のおなかの中に本当にエリアスの子供はいるの?」

 まだこんなにぺったんこだ。皆がやけに過保護にして少し困ってしまう。と言うや否や、彼は首を傾げてレイヤの腹にそっと触れた。

「ソルヤナに着いて二ヶ月と少しだよね。月の障りが止まってるとは僕も聞いてるけど……流石に見た目の変化は分からないよね。でも、可能性は充分にあると思う。その件、そろそろ僕もはっきりとさせたいし、近いうちに医者に診てもらおう」

 ふわりと抱き締めて、彼はレイヤの顔を覗き込んで顔を近付ける。口付けを悟ったレイヤは瞼を伏せた。
 ただ軽く触れ合うだけの優しいキスだった。けれど、久しぶりのキスはひどく甘美に感じてしまう。何度こうして唇を合わせたかも分からないが、それでもこうされると心が仄かに温かくなり、彼に与えられる口付けがくるおしい程好きだとレイヤは改めて悟った。
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