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第二章 偽りの感情

11 二国の精霊信仰

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 その日の晩までにアイリーンが驚いた事は多くあった。

 出されたパンが柔らかい事、見た事もない食べ物がたくさんある事。

 お菓子は頬が溢れ落ちそうな程に甘くて、お茶が薫り高く美味しい事。

 それから、動物の肉を初めて食べたが……噛むほどに味がある事。

 生まれて初めての経験ばかりで驚きの連発だったが、一番の驚きは従者が来るまでの間に世話係を寄越された事だ。

 身の回りの事をろくにできない事をジャスパーは見通していたのだろう。

 髪を切るのは数年に一度。長いだけではなく、ボリュームたっぷりなこの髪の手入れはとてもではなく自分一人では手に負えない。

 装束は辛うじて一人で着られるが……背中の留め具が外せない紐が上手に結べないなど、できない事があまりに多かった。だからこそ、この待遇は心底助かった。

 ──寄越された世話係はふくよかな初老の女だった。

 白髪まじりの長い栗毛を後ろで一本に三つ編みにした彼女は、親しみやすい笑顔を浮かべて「ヴァラ」と名乗った。

 ヴァラはアイリーンに挨拶を済ませるなり、クローゼットを片っ端から開けた。

 中には色とりどりのドレスや装飾品、靴などがたっぷりと用意されていた。

 これは全てジャスパーがこの日の自分の為に用意していたものだと……。

「丈のお直しが必要なものもありそうですが……きちんと直せますよ。私もお手伝いができる事とても楽しみにしておりました。ドレスとはいえ、軽装が多いので慣れればお一人でも着られるかと思います」

 この発言からして、彼は相当昔からこの連れ出しを計画していたのだと思しい。

 替えの服など考えていなかったので、清潔でいられる事は素直に助かったと思う。アイリーンは深々と礼を言うと、「ご本人に伝えれば、きっと喜びますよ」と彼女は優しく微笑んだ。

 更に驚いたのは、湯浴みの際に結晶を侵された肌を見ても彼女は顔色一つも変えずに、丁重に扱ってくれた事だろう。

「私、自分の事さえろくにできず、恥ずかしい気持ちでいっぱいです……」

 あまりに丁重な待遇は羞恥を越えて罪悪感を覚えた。しかしヴァラは「気に病まずに」と寄り添い宥めてくれた。

「アイリーン様が自分の身の回りの事をできるようになりたいと望むのでしたら、ゆっくりと覚えれば良いのですよ」

 ──焦る事はない。三年の月日は短いようで長い。その先もきっとあるのだから。できる事はこれから増え行くのだから。

 諭すように言われた言葉は自然と希望が湧いてくる。

 三年以上先──やはり夢物語のようで現実味もないが、そんな日が来れば良いと不思議と期待してしまう。

 しかし、呪いとは何か。

 どうして二百年の間隔で晶の女神と錆の王子が生まれるのか。

 ……疑問は日に日に膨らみ、一週間は穏やかに過ぎ去った。 

 樹海を出てから侵食は一度も起きていない。それどころか体調は好調で、アイリーンは室内で穏やかな日々を送っていた。

 侵食は治療方法も無い〝奇病〟や〝不治の病〟と言われてきた。

 だが、同間隔で生まれる錆の王子を考えると〝呪い〟はしっくりくる。エルン・ジオ聖教はイル・ネヴィス発祥だが、リグ・ティーナでも信仰されている。

 即ち、司祭や神官も恐らく錆の王子の存在は存じているに違いない。きっとジャスパーを疑わしく思っただろうに、なぜその存在を明かさなかったのか……。

「難しい顔して、どうしたんだ?」

 ぼうっとしていた。我に返ると正面に座ったジャスパーは人参をフォークでつつきつつ、不思議そうにアイリーンを見つめていた。

「何でもないです、すみません」

「そうは見えないが。何か苦手な食べ物でもあったのか?」

 そんな筈ない。どれも美味しい。こんなに豪勢な食事を与えられて文句なんて言えやしない。アイリーンは首を振ると彼は笑む。

 彼は〝休憩のティータイム〟と称して一日に二度、ベールで委ねた通路を使ってやって来る。それ以外にも、このように食事をともにするのが通例だ。

 大凡一日に四回。何度も彼と顔を合わせるので、アイリーンは彼に慣れつつあった。

「……エルン・ジオ聖教はどうして侵食を不治の病と私に教えてきたのか疑問に思って。それに、間違いなく錆の王子の存在は把握している筈なのに。どうして私に隠すのか気になって」

 思うままを伝えると彼はおとがいに手を当てて思案顔になる。

「……明確な理由は分からないが、都合が悪いからだろ? 人間って自分に都合が悪い事を隠したがるものだ。集団でも同じだ」

 確かに、後ろめたい事を開けっぴろげにするのは愚かだ。すんなり納得できてアイリーンは頷く。

「明かさぬ理由は〝俺たちを巡り合わせない為〟だろうな。あくまで過程だが、アイリーンが〝厄災の鍵穴〟とするなら、俺が〝厄災に導く鍵〟だとか。まぁ、こっちは恐らく確定だろうが、女神に外への興味を持たせない為だろうな」

 ……厄災を起こさない為に。生への執着を棄てる為に。運命から逃げない為に。

 彼の謂わんとしている事は分かる。果たして自分は何の為に生まれたのか。まるで自分がこの世に祝福されない命に思えて、暗いため息が漏れてしまう。

「今、分からないものを考え込んでも、仕方ないですよね」

 そう溢すと、彼は頷き『気楽に行こうぜ』と明るく言った。

 そうして食事を終えた頃、紅茶を啜りながら彼は再び話を切り出した。

「そういえば、俺と一緒に神殿に来た黒髪のでかい男がいただろ?」

「ヒューゴーさんでしたっけ?」

「そう、ヒューゴーな。アイリーンがグウィンって呼んでいた鳩を飛ばして手紙を送ったら、恐らく五月上旬には帰れるって返事が来た」

 五月……。

 詳しい日付は覚えていないが、確かもう四月末に差し掛かるだろう。

 間もなくではないか。

 アイリーンは口を開けて唖然とした。

「神殿の奴らは相当渋っちゃいたがあんたの従者二人を連れ出せるみたいだ。それで条件は……従者と一緒に半年以内に石英樹海に必ず戻る事だそうだ」

 よくぞ許諾されたと驚くが、既に女神が外に出てしまったので許したのだろうか。

「だけど本当に国の問題になりませんか? いくら政治と宗教が切り離されているとはいえ、イル・ネヴィスの王室が知れば争いに発展しませんか? だってジャスパーは王族に変わりないじゃないですか。侵略行為と思われる可能性も……」

「ああ、それな。きっとバレたら問題になるだろうが、アイリーンは二国間が血盟関係を結んでいる事を知っているか?」

「えっと、両国は常に対等で協力関係。それを永久に約束したと……」

 以前神官から教わった国史を思い出しつつ言えば、彼は頷く。

「俺が女神を攫ったのがバレれば、両方の国王は俺個人にキレ散らかすだろうが戦争になる事はまずない。侵略しない・争わない・常に対等で協力関係を固く結ぶと血判を押して誓い合った国同士──それが血盟国だからな」

「そう……なんですね」

 それでも怒られるのは良くないだろう。

 彼も悪い事をしている自覚があるのだ。しかし、血盟関係の下りには安心した。彼本人が平気と言えば平気か……。

 アイリーンが複雑な顔を浮かべるとジャスパーは破顔する。

「心配するな。俺だって何も考えずにアイリーンを攫って来た訳じゃないからな」

「そうですか……ジャスパーがそう言うなら大丈夫なのかしら」

「ああ、大丈夫だ」

 自信満々に言うのでアイリーンはようやく肩の力を抜いた。

「何より、あまり辛気くさい顔はするなって。可愛い顔なのに勿体ないだろ?」

「……可愛い?」

 言われたのはこれで三度目か。アイリーンはおずおずとジャスパーを見ると彼は軽い笑いを溢す。

「初めて会った時も言っただろ、あんた可愛いよ?」

 小さくて。と、余計な一言が聞こえて一瞬で平常心に戻れた。

 それでも、聞き慣れない言葉を言われると、やはり胸の音が早くなる。

 アイリーンは咳払いで心を切り替えて、焼き菓子に手を伸ばして頬張った。

 しかし、いやに視線を感じるもので……。

 居心地が悪くなって彼に目をやると、案の定凝視されていた。

「なん、れふか……」

 まだ食べている途中だ。口元を押さえつつモゴモゴと訊けば、ジャスパーはどこか納得した顔をした。

「最近菓子を食べてるアイリーン見て〝何かに似てる〟ってずーっと考えてたけど分かったわ。リスに似てるんだわ……」

 リス。聞いた事もない生き物だ。

 アイリーンは首を傾げると、彼は目を細めてアイリーンを射貫く。

「……木に住む小動物だ。基本的にきょろきょろしてる。そんで、木の実を〝これでもか〟って程に口の中いっぱいに詰め込む。ほっぺたがパンパンに膨らんで可愛い。それにな、冬場の姿は尻尾がモフモフに膨れるんだ。どうにもアイリーンのモフモフした髪と結び付く」

 ざっくり説明されるが、食べ物をめいっぱい口に詰め込んでいるのは、まさに今の自分の行動通り。恥ずかしくて憤死しそうになってしまう。

 アイリーンはお茶で焼き菓子を流し込み慌てて抗議に入ったのは言うまでもない。
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