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第五章 堕落のサンサーラ

5-5 サンサーラ

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 ハッとシュリーが意識を取り戻すと、炎の群れの中だった。はげしく燃ゆる炎の音の向こうで僧侶が高らかに経を上げる声が聞こえてくる。

 私は確か──シュリーは一つずつ物事を思い起こす。

 夫である藩王が亡くなり、寡婦焚死サティーを命じられて……。だが、何かが抜けている。何かがすっぽりと空洞のように失われている。酷く熱い。痛くて堪らない。焦げた臭いが充満し、自分の纏う深紅のサリーに炎が燃え移りメラメラと燃え上がっている。

「嫌ぁああ! 熱い! 嫌だ、嫌ぁああああ!」

 シュリーは暴れ藻掻き、大声で悲鳴を上げた。しかし、直ぐに棒を持った男達に押し込まれる。
 熱い。死んでしまう。焼き爛れる──。しかし、どうしてこんなに寂しいのか、虚無を覚えるのか……この心の空洞は何か。シュリーは何一つ思い出せなかった。
 己の髪や皮膚が焼ける臭いが酷く鼻をつく。しかし、痛い。堪らなく痛い。やがて視界は再び暗転した。もう何も見えず、次第に意識が薄れてくる。口の奥までカラカラで声がもう出せない。

 しかし、この空虚の意味がなんとなく分かる。”何か”が断ち切られたのだろうと思えた。その”何か”が思い出せないが……。

 だけど、自分の指を僅かに締め付ける圧迫感が僅かに残っている。そこ嵌められた石は橙色で……中には陽光を集めたようなキラキラとした粒子が入った日長石──それをシュリーは思い出した途端、霞んだ脳裏に背の高い青年が浮かんだ。

 少し巻きのある癖毛で深い褐色の肌。甘やかな顔立ちで……。『シュリー』と自分の名を呼ぶ低く穏やかな声が蘇る。

 ──そうだ、自分は維持を司る神に恋をした。彼は自分の放った無責任な言葉を忘れず、神聖娼婦ディーヴァダーシーだった自分を頑なに思い続けてくれた。ヴェーダという世界に連れられて、彼と夫婦となる事になった。友だって出来た。衝突した事もあるが、自分を”奥様”と呼び慕った美しい翼を持つ侍女がいた。敵対部族ではあるが、死した姉がそこにはいた。

 自分は約束した。姉の苦しみを忘れさせるくらいの幸せを与えられる人に私はなりたいと言った。叶えたい。帰りたい。大好きな人達が居るあの世界に還りたい。たとえ人としての命を失ったとしても……あの場所に還りたい。

(……イシャン)

 ふと浮かんだ名をシュリーが心の中でぽつりと呟く。その途端だった──。

「──思い出すの遅すぎだ! 俺には忘れるなんて言った癖に、お前が忘れるなんて、絶対に許さない!」

 ──自分が出来ない約束を人に要求するな。と、脳裏に響く低い怒声にシュリーはハッと意識を取り戻した。
 すると、自分の身を覆っていた痛みも暑さもぱっと消え失せ、暖かい感覚に身を包まれた。閉ざされた視界も再び色を付け始めた。周囲に漂うのは蓮の曼荼羅まんだら。それは炎の中でキラキラと煌めく。その幻術を操る者──それを視界に映した途端。焼き爛れ無残な姿と化したシュリーの瞳からはぽろりと大粒の涙が溢れ落ちた。

 褐色の肌に漆黒の髪。その髪は少しばかり癖があって、短く切り揃えられている。夏の夜のような濃紺の民族衣装を纏った彼の手には黄金の棍棒。そして、左手には蓮の花が握られている。しかし、彼の背後には曼荼羅まんだらで描かれた煌めく手が二対あった。そこに握られているものは──貝と円盤……現世うつしよの鏡で……。

 その姿はまさに、維持を司る男神ヴィシユヌ。そう、自分が愛した神に違わない。彼が跨がる鳥は炎のように赤々とした緋色のガルダ。美しい神鳥──その名は美しき翼を意味するスパルナという。
 焼き場に居た男達は皆、その姿をハッキリと目にしたのだろう。僧侶は読経を止め、跪き地面に頭を垂れた。また、その場に居合わせた者は皆、次々に跪き手を合掌する。

「悪いが、この娘の魂はこの男にくれてやらん。そもそもこの娘は俺に嫁いでいる筈だ。運命を寄り添う伴侶だ」

 焼き爛れたシュリーをイシャンが抱き寄せる。すると一瞬にして炎は弾け、シュリーの身は元通りの姿に姿に戻った。焼き爛れたサリーは瞬く間に蓮色のサリーに変わる。焼かれて黒ずんだ頭の装飾も、蝶や神鳥ガルダを象った煌びやかな黄金の冠に変わった。焦げ茶色の髪、小麦色の肌は変わらない。しかし──その眼球の色は本来の淡褐色ではない。水面に悠然と咲き誇る花──蓮のよう薄紅に染まっていた。

「帰るぞ。俺の幸福の女神ラクシユミー

 イシャンは、シュリーを穏やかな視線で見つめ、維持を司る男神ヴィシュヌの妻、幸福の女神ラクシユミーの名を言う。緋色のガルダは甲高く劈いた。すると、再び視界は炎に包まれた。

 焼き場で寡婦焚死サティーを見守っていた男達は、維持を司る神と神鳥ガルダが去って、ようやく顔を上げた。しかし、そこには、元神聖娼婦ディーヴァダーシー、シュリーの遺体は無い。ただ、ゆらゆらと死者を焼く聖火だけが残っていた。



 視界は赤く閉ざされたまま──かと思えば、落陽が宵に変わるように、色は穏やかに濃紺へと変わり果てる。まるで海の中にいるようだった。しかし、自分を大事に抱える手の感触があり、シュリーは不安なんて感じなかった。
 やがて濃紺は白み初め──次第に景色が映し出される。
 そこは、朝日が射し始めた森の中だった。鳥は歌い、紫がかった空はやがて青く澄み始める。しかし、至る場所に地割れがあった。倒れている木もある。

(そういえば、地震があって……私は火山に転落して、現世うつしよに戻って……)

 シュリーはいまいち、何が起きていたのか理解出来なかった。しかし、後方を振り返ると、イシャンが唇を噛みしめて自分を見据えているもので……。

「思い出さなきゃ、繋がりが本当に全部絶たれてた。じゃなきゃお前の所まで、もう辿り着けなかった……」

 初めて見た顔だ。今にも泣きそうな顔で言われたものだから、シュリーは目をみはる。ジッと彼を見ていると、黄金の瞳から一筋の涙がポロリと溢れ落ちた。
 そうだ。現世うつしよに戻れば、繋がりは経たれ、時間が動き出す。自分との関係が絶たれると。だが、これは自分が望んだ事ではない。

「事故だったの……。ううん、地震の所為もある。私、貴方と生きるって言ったでしょう。その気持ちは変わらないし絶対に曲がらないわ。だけど……記憶が直ぐに戻らなかった……」

 本当にごめんなさい。と、素直に詫びると、背後からぎゅうときつくイシャンに抱きしめられた。

「……ぁあ」

 そう答えて、イシャンはシュリーを抱えたまま、スパルナから降りる。
 すると間もなくだった。黒い蓮の花弁が辺り一面に舞い散った。すると、ルタと夫と思しきアスラ族の男が姿を現す。ルタはシュリーを目に映すなり、大粒の涙を流して駆け寄って来た。

「ごめんなさい、私……私は……」

 ルタはシュリーに抱き付き、胸に顔を埋める。死ぬのが怖いと言った。しかし、火口に落ち逝く様を見ていたのだ。この様子から共に死ぬことにおいて、完全に改心したのだろうとは思った。
 ……強い罪悪や恨み、恐怖を覚える程に、ルタの姿は死亡時のような姿になってしまうのだろうか。
 艶やかな髪はたちまち油気を失い、白髪が交ざり始める。ふっくらとした肌の艶も消え失せ、骨張った腕となる。シュリーは姉の変貌を見て、小さく息をついた。どんな姉であれ姉には変わりない。それに、自分は姉に言った気持ちは本心であり──

「姉さん私、言ったでしょ。私は恨みを忘れる程に幸せにしてあげたいって。それに大事な人たちがこの世界には居るの、生きなきゃいけない。未来を歩んでいきたい」

 シュリーはやんわりとしがみつくルタの手を引き離した時だった。自分の手から蓮の花が芽吹きはじめたのだ。
 それはルタの生成する蓮とは違い、鮮やかな赤みを帯びた紫色で──。蓮の花は咲き誇ると、解けるように花弁は風に舞う。その花片がふわりとルタの頭上に落ちた。すると、たちまちルタの姿は本来の美しい姿へと戻る。

「…………」

 ルタは自分の姿を見た後に、驚いた面でシュリーの方を向く。

「姉さん。過去は変えられないけど私達にはもう一度の人生がある」

 未来があるのだから……。シュリーはルタに顔を向ける。すると、ルタは綻ぶような笑みを溢し頷いた。そして、シュリーはイシャンとルタの夫、カリシュを交互に見つめた。

「イシャン、それから姉さんの旦那様。もう止めましょう。分かち合えなくとも、血を流し合う必要だって無いでしょう。血を流せば憎しみばかりが増えるわ。ここは地獄のような現世うつしよとは違うでしょう」

 ……私、初めてこの世界に来た時に思ったわ。美しい緑に雄々しき山。まるで思い描く平穏の楽園シヤンティそのものだと。私は美しいこの地で姉と皆と生きていきたい。そう付け添えて、シュリーは柔らかに笑んだ。
 するとイシャンとルタの夫カリシュは互いに顔を見合わせた後、笑みを溢し頷いた。

  *

 シュリーのマントラ──想いを具現させた蓮の花弁は、ヴェーダ全域に降り注いだ。
 避難したアスラ族達の元へ降り注ぐだけではなく、ディーヴァの集落にもふわりと届いた。皆、誰もが空を見上げて舞い落ちる蓮の花弁を見上げる。そこには奇襲に備えて集落に戻ったアンビカとルドラの姿もあった。
 アンビカはそっと手を差し出しすと、掌に蓮の花がふわりと落ちた。

「きっと、シュリーよ。イシャン君が無事に助け出したのね。でもこれって……シュリー、輪廻を果たしたのね。何が起きたのかは分からないけど、それでも分かるわ。アスラとの抗争が終わったのね」

 ──もう、きっと誰もが血を流しあう必要もない。アンビカの大きな瞳には水膜が張る。しかし、彼女の唇は綻んでいた。

「もう、貴女ってば本当に最高なんだから!」

 ぽろりと大粒の雫がアンビカの頬に伝った。彼女はそれを拭わずに空を見上げる。しかし、その涙は隣に立つルドラに直ぐに拭われた。彼は一つ鼻を鳴らして、同じように澄み切った青空を見上げる。

「あの野郎も無事だろうな。早く帰って来ねぇと困るな」
 俺には族長なんぞ無理だ。なんて苦笑いを溢して、空から舞い降りる蓮の花弁を手に取った。


 ──光さす場所には影が出来る。幸福の背後には必ず不幸はある。混ざり合わないがそれらは必ず共存する。ディーヴァもアスラもそれは同じ事で……。

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