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第三章 繋がる記憶

3-3 緋色の巨鳥

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 太陽が真上に高々と昇る頃、畑で草取りをしていたシュリーは額に滲む汗を拭っていた。

「さて。もう大丈夫かしらね?」
 独りごちてシュリーは辺りを見渡す。

 アンビカの担う畑の面積はなかなかに広い。それでも、毎日彼女が丁寧に手入れを行っている事もあって、雑草が生え放題というわけでも無かった。手についた土を払いつつ、今度は作物に水をまこうと、井戸に向かう──その時。シュリーは違和を覚えた。

 何処からか視線を感じたのだ。しかし、辺りを見渡しても誰もいない。遠くで羊や山羊を放牧して柵に腰掛け休んでいる男達が見えるものだが、それ以外は別にこれといって特に人の気配はない。それにそこまで遠いのであれば、視線なんか感じる筈も無いもので……。

(変ね。イシャン様かしら……)

 今朝のやりとりを思い出してしまうとそんな気さえした。シュリーはおとがいに手を当てて今一度辺りを見渡すが、視線の正体は見つからない。
 こうも見当たらないとなれば、自分の思い過ごしのような気さえした。それに誰の視線であれ、集落の人間であれば無害には違いない。シュリーは気を取り直して井戸へと向かった。


 作物の水やりも終わり、シュリーはいそいそと大きな火炎樹の幹を登っていた。
 以前アンビカは『木に咲く花も畑に植えた花も道端の花だって何でも好きなものを持って行って!』と農作業の最中に言った。
 一昨日は黄色の菊の花。昨日は真っ白な百合の花……。さて、今日は何にするかと考えた時にパッと目に映ったのが火炎樹だった。

 アムリタでは夏を告げる花だと言われているが、ここでは少し開花が早いように思う。確か自分がこの世界に来てしまった原因は三月の終わり。通常、火炎樹の開花といえば夏の始まる五月頃で……。
 そんな事を考えつつ、易々と花を摘み取るとシュリーは身軽に飛び降りた。

(農作業のお陰かしら。それかアンビカとたまに踊ってるお陰かしら……だいぶ体力が戻って絶好調ね)

 手を払いつつ、シュリーは火炎樹を見上げてふぅと一つ息をつく。

(さてと。川に行きましょう……)

 シュリーは農園を後に歩み始めた。しかし、やはりどうにも視線を感じる。何だか影からジッと見られているような気もして少し不気味に思えてしまった。
 シュリーは立ち止まって後ろを確認するが、やはりそれらしき気配は見当たらない。
 今日は一人きり。きっと、いつも一緒に居るアンビカが居ない事で少し心細く思うから違和を覚えるのだろう。そう思い正してシュリーは川へ向かった。

 それから幾何か。岸辺にやってきたシュリーは、火炎樹の花を流して手を合わせていた。これでもう今日の用事は全て済んだ。畑仕事も終わった事だし、部屋に戻るかを考える。しかし、戻っても窓の外を眺めるしかする事も無い。日没まで未だ時間もあるもので、シュリーは川辺の岩に腰掛けて、どう時間を潰すかを考える。

(早く戻ったとしても入浴が早まるだけよね。付き添うスパルナさんと二人きりになるのは仕方ないけど、それでも……)

 もう毎日ではあるが、考えてしまうと気が重たくなってくる。シュリーがほぅと重たい息を吐き出したその時だった。
 ──ヒュン。と風を切って自分の頬の間近を何かが掠めたのである。

「……ぇ」

 恐る恐るシュリーは後ろを向く。そこには矢が突き刺さっており、慌ててシュリーは正面を向いた。
 自分の座する岸辺とは対岸──そこには弓矢を持った男が数人立っていた。

 遠目では顔立ちが分からない。しかし、装いを見るからにディーヴァの者ではなさそうだった。
 アンビカの夫、ルドラを除く殆どが肌の露出をしていない。しかし、対岸の男達の纏う装束は皆ボロボロで……。毛皮を腰に巻き、肌を大きく露出している。ルドラのような気品は無く、本物の苦行僧サドゥのようだった。それにディーヴァの者というと、色とりどりの装いをしているが……対岸の男達の纏う衣類は皆白い。

 他にも部族が居るとは聞いたが、狩猟民族だろうか。だが、矢の軌跡から考えれば自分を的にしたのだと憶測は容易いもので……。シュリーは慌てて岩の影に身を潜ませた途端だった。

「女だ! 捕まえろ!」

 対岸からドッと男の怒号が上がった。それから一拍もせず、ザバザバとした飛沫の音が響き渡る。幾人かが、こちらの岸に向かって近付いて来たののだ。

(……ど、どういう事なの? あの人たちは何?)

 ──捕まえろ。
 その言葉以前に、矢を射られた事から、危険だと頭で分かる。しかし、恐怖で足は竦んで震えが止まらない。
 思うように身体が動かず、シュリーは地面に這いつくばるように逃げ出す。だが、そのしゅ──大きな影が頭上を過った。

 鳴り響く音はバサバサとした荒々しい羽音。畏怖を貼り付けた面でシュリーが空を見上げると緋色のガルダの姿があった。
 劈く程の鳴き声を上げて空を旋回し、舞い降りた極彩色の神鳥は翼を広げてシュリーに背を向けて立ち塞がる。

(ガルダ……? でもどうして……)

 怖じ気づいたまま。シュリーは緋色のガルダを見上げる。すると、ガルダは瞬く間に劈く程の咆哮を上げた。
 とてつもなく甲高い声だ。鼓膜がビリビリと痺れ、堪らずシュリーは耳を塞ぐ。しかしそのしゅ──ヒュンと空気を切り裂く音が幾つも響いた。しかし、それと同時。男の悲鳴が幾らか聞こえてきた。
 恐る恐る、広げた翼の合間から対岸を除くと向こう岸は火の海となっていた。

「くそ、ふざけんな……!」

 たちまち、どよめきが聞こえてくる。こちらに向かって来ようとした男達も踵を返し対岸へと引いていく。それから男達は蜘蛛の子を散らしたように岸辺を走って炎が広がっていない場所から森の中へ身を潜めた。

 ……助かったのだろうか。しかし、何故にガルダに助けられたのか。

 シュリーはよく分からず、呆然とガルダを見上げる。すると、ガルダはゆったりとシュリーの方を振り返った。
 鋭く尖った黄色の瞳に美しい緋色──しかし、こうも大きな鳥だと怖いとは思う。ましてや火を吐くなど初めて知ったもので……。
 伝わるかも不明だが、それでもシュリーはヘコリと頭を垂れる。

「ありがとう」

 礼を告げた途端だった。的を射る矢の音がドスリと響き渡る。
 ガルダがたちまち、目を大きくみはり──甲高い悲鳴を上げたのである。
 対岸は炎の海。目を凝らしてみても人の姿なんて見当たらない。それに、それ以上の襲撃が来ないもので……。今一度、対岸を見渡して人の姿が無い事を確認した後、シュリーは地面で藻掻くガルダに詰め寄った。

「どこをやられたの!」

 しかし、ガルダはシュリーを睨み据えるなり威嚇するように甲高い声を上げる。
 それでも、臆している場合ではない。ガルダはディーヴァ固有の鳥とも聞いた。即ち持ち主が居るわけで……。万が一の事があれば持ち主も困るだろう。否や、それ以前に生き物が藻掻き苦しむのは酷く胸が締め付けられるもので……。

(どうにかしないと……)

 意を固めたシュリーが背後に回ると直ぐ、足の付け根に矢が刺さっていた。夥しい血を流し、黄色い足を伝い草の上に血溜まりが出来ていた。

「酷い……」

 シュリーは咄嗟に、自分の纏うサリーを掴み、地面に落ちている石ころを探すと直ぐに裾を破った。
 しかし相手は巨大な鳥だ。止血するにしても長さが足りるかも分からない。

「お願い、良い子だから大人しくして!」

 そうして矢を引き抜こうと、シュリーが矢を掴んだ途端だった。
 ガルダはたちまち赤々とした炎に包まれた。それは触れても別に熱くは無い。ただ温かいだけ。それでも驚嘆したシュリーは咄嗟に手を離し、二歩三歩と後退る。やがてそれは火球になり、人の姿を成す。

 ──夏の宵を思わせる深い紫のサリーに、燃えるような緋色の髪。気が強そうな端正な顔立ち……。ガルダの正体を理解したシュリーは目を大きくみはった。

「……スパルナ、さん?」

 しかし彼女はシュリーに視線を向けずに、呻きつつも脚に刺さった矢を引き抜いた。

「──っ!」

 端正な顔には玉のような汗。眉間に険しく皺を寄せた彼女は、脚を押さえて肩で大きく息をした。
 彼女の纏うサリーがジワジワと染みが広がっていく。しなやかな脚にはポタリポタリ赤い雫が落ちる。夥しい血液を見たシュリーは直ぐにしゃがみ込み、破ったサリーをスパルナの前に広げる。しかし、彼女は直ぐにシュリーを睨み据えた。

「……無様だって笑えばいいじゃない。ほっといて頂戴。施しは結構よ」

 彼女は冷たく言い放つが、シュリーは直ぐに首を横に振った。

「何、言ってるんですか……」

 こんな怪我をしておいて何を言う。自分を守ってくれたのに放っておくなど出来る筈もない。おぼつかない手つきでサリーを捲ろうとするスパルナを手伝おうとした矢先だった。──パシン! と、強く手を叩かれてシュリーは目をみはる。

「だから放っておいてちょうだい! 人間なんかに……人間なんかに!」

 放たれた拒絶は、今にも泣きそうにさえ聞こえてしまった。心なしかスパルナの瞳には薄く涙が滲んでいる。
 だが、それを確かと聞いたシュリーはたちまち眉を釣り上げた。
 そうして一拍も経たぬうち──またも乾いた音が鳴り響く。
 人を撲ったのは初めてだった。こうも自分の掌が痛むものだとは思いもしなかった。
 自分の手がこれだけ痛ければ、スパルナはもっと痛かったに違いない。その証拠にスパルナの白い頬が腫れ始めていた。しかし、スパルナは頬を押さえてスパルナは呆然とシュリーを見つめるだけだった。当然のように罪悪感は直ぐに沸く。だが、それ以上の止めどない憤激が募りシュリーの肩は震えていた。

「──貴女が私を嫌いなのはよく知ってるわよ! だから何? 何だっていうの。今はそんな事は関係無いでしょう!」

 彼女を睨み据え、シュリーが真っ向から言い放つ。

「いいから黙って処置されなさい。はっきり言って私も貴女の事はとてつもなく苦手よ!」──それでも怪我人を放置する程の根性悪じゃない。だから、黙って従え。と、彼女を睨み据えたまま言って間もなく。スパルナは視線を落とした。



 それから幾何か。
 脚の処置を終え、シュリーはスパルナを背負って草木が生い茂る獣道を歩んでいた。
 無事止血したが、スパルナは歩けそうにもなかった。背に身を委ねろと言った事に対し、また拒絶されるかと思った。だが、彼女は素直に受け入れシュリーの背に身を委ねた。

 しかし驚いたのはスパルナの軽さだ。自分よりも僅かに背丈も高いにも関わらずまるで羽根のように軽いのだ。それを神妙に思いつつ、シュリーはスパルナを揺らさないよう黙々と歩んでいた。
 しかし猛烈な暑さだ。湿気も多いもので、不快な汗が額に滲んでくる。瞼を伝い落ち、瞳に溢れ落ちればジンと染みてくるもので……。一呼吸──と、シュリーが立ち止まった時だった。

「……疲れないですか?」

 背後から響いた声にシュリーは驚嘆して振り向いた。

「い、いいえ。私こう見えて結構力持ちです。というのか、スパルナさん異常な程に軽いのですが……」

 思ったままを言うと、彼女は神妙な顔をした。

「……ガルダ族ですからね。私たちの骨は鳥と同じで中が空洞になってます。ディーヴァに属する種族の中では最も軽いらしいです。人の体重の半分以下だそうで」

 あまり感情の篭もらない声でスパルナは言う。しかし、シュリーは特別驚きもせずに納得した。確かに、本来の姿らしきものを見てしまえば納得する他ない。
 だが、まさか「ガルダ」と呼ばれる鳥がディーヴァの内の一種族だったなんて思いもしなかった。それでも、今あれこれといちいちく気になれもせず、シュリーは再び前を向いて歩み出す。

「それよりシュリー様。手を撲ってすみませんでした」

 またも話しかけられてシュリーは内心ドキリとした。彼女は何を言い出すか分からない。それに、先程頬を撲ってしまった事が気まずくて仕方ない。しかしまさか謝られるとは……。

「……私なんか、貴女の頬を撲ったじゃない。女性に対して、そっちの方がよっぽど酷じゃないかしら」──ごめんなさい。と、シュリーは素直に詫びた。だが、直ぐに自分の背中で彼女が首を横に振ったのが分かった。

「いいえ。私、貴女を妬んで散々な事を言ったから当然の仕打ちかと……」

 それを聞いて、シュリーは再び立ち止まる。

「そもそも、貴女からすればイシャン様を横取りされたようなものじゃない。だとすればいきなり現れた女を邪魔とも思うのも当然よ。それだけ貴女はイシャン様を愛していたのよね……だけど私は」

 ──出来れば元の世界には帰りたくない。あんな惨たらしい死に方なんてしたくない。と、続け様に心の内を述べて間もなく。背後から素っ頓狂な声が響いた。

「……私が、イシャン様を? あ、愛してる?」

「え……だって、スパルナさん。初対面の時”私だけを美しいと言ってくれた”なんて言葉を……」

「た、確かにそうですけど。子供の時から、私の事を美しい翼だと言って下さり。ですが、そんな感情はイシャン様に持ち合わせてませんが……」

 あまりに焦燥した声色で言われてシュリーはパッと背後を向く。

「え?」

「何を考えたらそうなるのです……事実、忠誠心は持ち合わせてますし、イシャン様は私の大事なご主人様ですが……そういった感情は微塵も持ってませんし、絶対にありえません」

 衝撃の告白だった。しかし、直ぐに以前アンビカが言われた言葉が過ぎる。そういうことか。と、今更のようにシュリーは妙に納得する。

「私達ガルダは古来よりイシャン様の家系に仕えています。そもそもですよ? 同じディーヴァの者とは言え、異種族です。そんな目で主を見た事は無いです」

「そ、そうなのね……?」

 種族柄。そんな点もあったのか……。シュリーは何度も目をしばたたく。

「……という訳でシュリー様は現世うつしよに帰らず結構です」

 スパルナはキッパリと言い放った言葉にシュリーは一気に気が抜けてしまった。それでも彼女を誤って背から落とさぬよう、シュリーは抱え直す。

「そう言えば、シュリー様は存知ですか? この世界で生命を全うすれば、現世うつしよの貴女は初めからそこに居なかったように消滅するとイシャン様から聞いたのです」

 そんな事は初耳だ。シュリーは僅かに振り向いて、首を横に降った。

「私の敬愛する主が選んだのです。きっと、ふさわしい配偶者なのでしょう」

 そう全て言い切ると、スパルナはクスクスと笑みを溢した。思えば初めて笑った所は見た気がする。その笑い声はとても美しいもので……。

「スパルナさんは綺麗な声で笑うんですね」と、シュリーが率直に告げると、背中がどっと暑くなった。
 それから二拍、三拍と置いた後──「当たり前です。私はイシャン様の美しい翼ですから……」と、ふて腐れたようにスパルナは声が響いた。
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