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第一章 形式だけの妻

1-5 罪深い思考※

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 何を支えているかも分からない飾り柱に、湯をジャブジャブと巨大な浴槽に注ぐ象の置物。白の大理石を基調とした浴室は閑散と広く、やはり落ち着かなかった。
 シュリーは丁寧に身体を清めた後、少しばかり湯に浸かった後、直ぐに脱衣所に戻ってきた。

 湯に浸かって少しは気も凪いだ筈。だが、脱衣所に戻ってスパルナの顔を見れば直ぐに苛立たしさを思い出して気が滅入る。もう黙っていよう。好きにやらせよう。そう思って裸で突っ立っていれば、一応彼女が身体を拭いてくれた。そして首筋や胸元に丁寧に香油を塗り込まれて、されるがままに髪を梳かされた。
 寝間着に用意されたもの簡素な装束だった。それでも絹製のもので非常に肌触りが良い。しかし不思議に思う。下着が無いのだ。だが、きっと陰湿な嫌がらせだと憶測は容易い。

「さ。終わりました。さっさと戻るのでグズグズしないでください」

 無関心そのもの。単調な声色で言われて、シュリーは眉をひそめるものの返事一つもしなかった。
 しかし、歩み出せば下着を履いていない事に妙な涼やかさを覚えるもので、流石に不快に思ってシュリーは彼女の背中を睨む。

「……そういえば下着は無いのですか? 私を厭うのは勝手ですけど、嫌がらせにしては幼稚過ぎてどうかと思いますけど」

 きっぱりと言うと、彼女はピタリと立ち止まる。

「当たり前じゃないですか。これからの貴女にそんなもの必要ないと思うからですが? 何を馬鹿な事を言ってるのです」

 目も向けずに冷々と言って直ぐ彼女は再び歩み始めた。
 開いた口が塞がらなかった。本当にこの女は何処までも根性悪みたいだ。苛立ちも限界になり、シュリーはそれ以上何も言えなかった。
 部屋まで着くとスパルナは去る。ようやく一人になれた事に安堵したが……彼女は再びやって来たのだ。

「生姜のチャイです。身体が温まります。どうぞ勝手に飲んで下さい」

 愛想無く言って、つくえにゴトンとカップを置くとそそくさと部屋を出て行った。
 スパルナが去った後、シュリーは恐る恐るカップに近付く。確かにカップの中には褐色に乳白色を混ぜたチャイらしき液体が満たされているものだが……どうにも飲む気になんてなれなかった。自分に対して包む隠さず険悪な態度を取る事もあるだろう。毒でも盛られているように思えてしまう。

 この世界に住まう存在。イシャンに遣える者ならば、きっと彼女だって人の世界では神の端くれなのだろうと察する。だが、あんな性悪そうな神が居るものかと……とシュリーは眉を寄せた。
 彼女は「イシャンは自分を正妻に迎える」と言った。今一度発言を思い返しても、あの態度からそれは事実だと思しい。しかし、何故に自分が選ばれたかなんて分からない。それも世界まで跨いで……。

(本当によく分からない……)

 やれやれと首を横に振ったシュリーは大きな吐息を溢して、寝台の縁に腰掛けた。
 それから幾何か。今度はこうもせずに扉が開く。
 姿を現したのはイシャンだった。艶やかな黒髪が少しばかり湿っており、纏っている装束は先程のものに比べたら随分と簡素ななもの。きっと彼も彼で湯浴みを済ませたのだと見ただけで察した。

「チャイ飲まないのか?」

 首に巻いた布で髪を乾かしつつ、彼はつくえに置かれたカップを覗き込む。
 食事の途中に出て行ったもので、機嫌を損ねたかと少しばかり危惧したものだが、要らぬ心配だったらしい。全く気にしていない様子に少しばかりホッとしてシュリーは直ぐに首を横に振った。

「何が入っているか分からないですし。彼女、私の事が本気で嫌いなようですから」

 感じ取ったままを告げると彼は小首を傾げてシュリーの方を向く。

「いや、そりゃ無いだろ多分。だってさっきの飯を作ったのはあいつだし……」

「そうは言ってもですね……」

 ──そうだったのか。とは、思っても、またあの態度を思い出すと腹が立って来た。シュリーは目を細めてそっぽを向く。すると、彼はククと喉を鳴らして笑った。
 果たして何がそんなにおかしいのか。不服に思ってイシャンに目をやると、彼は隣に腰掛けてシュリーの背を撫でる。

「突然俺がシュリーを連れてきたしな。当然、お前には一切の非が無い。多分、仕事を増やすなって気が立ってるだけだろう。俺からもあいつには言っておく」

「そうですか……」

 気が立っているだけで普通あんな言い方をするだろうか。あれは圧倒的な敵視だろう。と、腑に落ちずシュリーは吐息を漏らす。

「で……あいつ、お前に何か言ったか?」

 最も記憶に新しいものと言えば、「今の貴女に下着なんて必要ない」と言われた事だろう。だが、そんな事は言えたものではない。仮にも相手は異性だ。
 しかも、よくよく考えれば下着無しは現在進行形。今もこの寝間着の下は一切何も着けておらず……。
 途端に羞恥を覚えたシュリーは腰を浮かせて、ほんの少し彼と距離を取った。
 それでも顔に上り詰めた熱は冷めやしない。シュリーは首をプルプルと横に振った。
 その様子を不思議に思ったのだろうか。イシャンは神妙な面でシュリーの顔を覗き込む。

「ひゃ!」

「どうした?」

 顔が近い。それもジッと見据えるように見られるのは心臓に悪い。シュリーは逃げるように視線を落とす。

「……ええと。貴方が私を正妻に迎える為に現世うつしよから連れて来たと聞きましたが」

 しかし、言葉にしてようやくに気付き、シュリーは目をみはった。

 ──神聖娼婦ディーヴァダーシーは床で客を取る時、手間を省く為に下着を着けない事もある。寺院の姉分達にそう聞いた事があった。
 正妻に迎える。今の貴方に下着なんか必要ない……つまりこれは性交の為。薄々と見えてきた本当の意味にシュリーの頬にはどっと熱が押し寄せた。

「正妻に迎える気で連れてきたのは本当だが。って……すげぇ顔が赤くないか?」

 大丈夫か? と、肩を撫でられて、シュリーは彼を見上げてモゴモゴと唇を動かす。

「おい大丈夫か。熱でもあるのか?」

 イシャンは無骨な手をシュリーに伸ばす。だが、ピタリと彼の手が額に触れた途端、頬に昇り詰めた熱はとうとう爆ぜた。シュリーは咄嗟に額に当てられた彼の手を瞬時に掴む。

「──わっ、私は処女なんですけど!」

 泣きそうな程に紅潮したシュリーは捲し立てると、イシャンは目を丸くみはる。

「あの女、今の貴女に下着なんて必要ないなんて言うし! 正妻って……その、つまり身体を寄越せって事よ、ね?」

「は? どういう……」

 全く理解出来ていない様子でイシャンは怪訝に眉を寄せた。しかし、これだけで自分が飛んだ勘違いをしたのだと理解するのは直ぐで──。
 いたたまれない程に頬を紅潮させたシュリーは彼から距離をとって、逃げるように寝台の中へ入る。天蓋てんがいから伸びるベールを閉じて、布団の中に潜り込むと、シュリーは身を縮めて目をきつく閉じた。
 仮にも恐らく彼の寝具である。だが、とてつもない恥ずかしい誤解をしたのだ。穴があったら入りたい。そう思うが、すぐに掛け布団を取っ払われた。はしたなくて顔なんか見せられない。思わず手で顔を覆い隠せば、頭の上で吐息が聞こえた。

「えーっと、シュリー。本当に落ち着いてくれな?」

「今の私に人権なんか無いわ。だから私をどうしようが、私の行く末なんてどうだっていい……だけど、だけど……私、今の自分の状況だってしっかり分かっていないし、本当にどうしたら良いかも……!」

 そう告げた途端──ギシと、寝台が軋んだ。誰かが寝台に乗り上げた。とは言え、イシャンしか居ない。
 顔を覆った手をやんわりと剥がされ視界が明るくなる。すると、必然的に彼の顔が映ってしまい、シュリーは更に頬を赤々と染めた。

「率直に言うが……お前を厭らしい目で見てるし、抱く気があるのは認める。あとお前が純潔な事くらい知ってるわ」

 そんな事を真顔でいきなり言われたって、どう答えて良いかも分からない。
 シュリーは声もだせずまごまごとするが──途端に首筋に手を当てられて、ビクリと背を震わせた。

「なっ……」

「ん……下着を本当に着けてないのか気になっただけだが」

 少しばかり悪戯っぽく言って、彼の無骨な手は緩やかに下降して胸の膨らみへと辿り着く。まるで大きさや形を確かめるように丸く撫でられ、シュリーは大きく目をみはった。

「あ……ちょっと、だめです……そんな」

「ん……本当に何も着けてないな」

 ──まじか。なんて、少しばかり驚嘆したように言うが尚、彼は愛でるように丸く胸を捏ねる。

「なん、で……」

 あらゆる事が未だ理解出来ていない。どうしてこうなったのか……自分は形式だけの妻のうちの一人。その上、人と婚姻を結んだもので、神との縁は絶たれたと見なされた。だからこそ寡婦焚死サティーになったものだが……。
 しかし、その疑問ははげしい刺激によって直ぐに掻き消される。

「ん……っ、あぁん!」

 何をされたのか……胸元に視線を向けると、胸の頂を服の上から彼が擦るように撫でているのだ。

「ぁ……ぁん、ま……まって」

「ん……さっきの言葉を聞いて、お前は相当罪深い思考だとやっぱり思った。だから、罰を与えるべきだとは思ったもんでな」

 ──罰とは。自分は何かまずい事を言ったかと思うが、それらしき事なんて思い浮かばない。

「じゃあ、それが分かったら止めてやる」

 優しく諭すように言って、彼は頬に接吻くちづけるが、その間も胸を揉みしだかれたまま。
 だが、直ぐに一つだけ思い当たる事があるもので──。

「……わ、私が……貴方に対して丁寧な言葉を崩して──」

 取り乱して、敬語さえ使わなかった。それしか無いだろうと思った。
 しかし、途端に彼は甘やかな端正な顔を近づけ──「違うな」と笑むなりに、唇に柔らかなものが触れた。
 やがてヌメリを持った塊が自分の口に滑り込み、シュリーは目を丸くみはる。

「ん……ぅ、ぁっ」

 やんわりと唇を食まれ、吐息が漏れる。だが、舌を見つければ貪るように絡められ、まるで愛おしむような接吻くちづけにシュリーは目眩を覚えた。

(……どうして? 何で? 何が間違い、なの……)

 与えられる接吻くちづけはげしいものだが、それでも甘美で優しいものだった。記憶上、接吻くちづけだって初めてで……。

 ──愛し合った相手との接吻くちづけは甘やかなものらしい。寺院に居た頃、神聖娼婦ディーヴァダーシーの姉分達から、そんな話を聞いた事があった。だが、今自分が接吻くちづけを交わす男は愛し合う関係かといえば、そうではない。何せ相手は自分をよく知っているとは言え、シュリーからすれば、会って間もない事に変わりない。だが、与えられるものは想像以上に甘美なもので……。蜂蜜やギー(すましバター)を舐めるよう。唇の中が甘く蕩けるような感覚がした。
 それから暫くして、ようやく気が済んだのか彼は唇を離して、シュリーの顔を覗き見る。
 依然として甘やかで優しい顔をしているものだが、それでも視線は先程より熱を宿している。劣欲だろうか……。そんな視線を異性に向けられた事が無いものだが、なんとなくでシュリーはそれを悟るが、その真摯な視線にぞっとしてしまった。

「さて。少し時間も経ったし、少しは己の罪が分かったか?」

 かれるが未だ分からなかった。シュリーがゆるゆると首を横に振ると、彼はどこか狡猾に笑む。

「……行く末なんてどうだっていいって言った事。お前さ。何が起きたって、全て階級カーストがなんだって理由を付けて”仕方が無い”って片付けてるだろ? つまり生の喜びや自分の意志を微塵も持っていない事だ」

 はっきりと言われて、シュリーは目をみはった。何せ言われた通りなのだから。

 自分がどうしたいかなんて意志を通した事など今まで無かった。神聖娼婦ディーヴァダーシーになったのは、親戚に売られたから。後援者パトロンだった藩王と結婚した事だってそうだ。あちらが寺院に莫大な金を渡して自分を買ったからだ。生まれた時から何もかも全部決まっていた。自分のしたい事も言いたい事も言えず、何もかも従ってきたのだから。だから、今だって……「待って」とは言えても「嫌」とは言えないわけで。

 しかし、この現状は嫌かどうかと言われたら分からなかった。自分でも戸惑いを覚えるが、決して不快では無いのだから。
 シュリーは眉を寄せると、イシャンは優しく笑む。

「安心しろ。今すぐ純潔を簡単に散らすなんてありえない。その前に教えなきゃいけない事があるからな。お前が正妻になる意志を自ら示し俺を求めるまで……」

 ──快楽と生きる喜びを教え込んでやる。と……ぞっとする程甘やかに彼は言った。

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