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◆直木莉奈の場合

第2話

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 もうヤダ。こんなの。

 もうダメ。

 ダメだよ、お兄ちゃん。

———

——


 私の家は母子家庭で、私が生まれた時にはもうお父さんはいなかった。だから、私にとって身近な男の人は兄貴だけだった。
 兄貴は働きに出てるお母さんの代わりに私の世話をよくしてくれた。何から何まで、小学校に上がってからも、私は兄貴に頼りっきりだった。私は兄貴がいなければ何も出来ないような子だった。だって兄貴が私の全てだったんだもん。

 だから、私は当たり前のように兄貴のことを好きになった。私の理想は兄貴だった。
 カッコよくて、運動神経も抜群で、みんなが私の兄貴を羨ましがっていた。カッコよくて優しいお兄ちゃんがいて良いなって。私もこんなお兄ちゃん欲しかったなとか。兄貴の同級生の人からは手紙を渡すように頼まれたこともあった。当然、そんなの全部捨てたけど。

 とにかく兄貴は私の理想なんだ。何もかもが、私の理想だったの。ううん、兄貴という存在が私の理想を作り上げたんだ。だから、これから先も私の思い描く兄貴のまま、ずっと一緒なんだと思っていたのに。
 なのに、なのに。私は生まれてはじめて兄貴を幻滅した。まさか家の中であんなことするなんて信じられない。あの家は私たち兄弟が生まれた時からずっと暮らしている場所なのに。
 信じられない。幻滅。最低。
 あの腕に抱かれるのは、私じゃなきゃ、イヤ。あの唇に触れるのも、私であってほしかった。
 無理だって解ってる。兄貴にとって私はただの妹。家族以上の存在にはなれないんだもん。でも、家族なら他人以上の関係。家族なら一生一緒にいられる。
 でも、あの光景を見てそれじゃあ嫌だって思った。私はあの人に女として見られたかった。抱かれたい、愛されたかった。

 私は、近所の公園のベンチで一人蹲っていた。
 最低なのは私の方だ。兄貴に彼女が出来ても当然なのに。彼女が出来れば、当然そういうことしてもおかしくないのに。自分勝手に嫉妬して、家を飛び出して、バカみたい。
 でも家には帰りたくない。兄貴が知らない女を抱いた家になんて帰りたくない。それに、今兄貴の顔を見たら、私は何を言い出すか分からない。もし兄貴に好きだなんて言ったら、兄貴は困るだろう。私だって、兄貴の顔を見れなくなる。やっぱり兄妹だから、後ろめたい気持ちもある。
 私のこの気持ちは、間違っているのかな。兄貴なんかを好きになった私は、どこかおかしいのかな。

 ポツポツと、空から雨が降ってきた。最悪。まさに私の心情を表してくれちゃってるみたいじゃない。このまま雨に打たれて、ぶっ倒れたりとかしたら兄貴は心配するかな。そしたら、付きっきりで看病してくれたりとかして、兄貴を独り占め出来ちゃう。それもアリかな。

「何してんだよ」

 ふと、雨が止んだ。顔を少し上げると、そこには呆れた表情の芦原がいた。
 またこいつかよ。いい加減鬱陶しいな。ほっといてっていつも言ってるのに。何で私に付きまとうのさ。

「おい、早くうち帰れよ。雨降ってんだぞ」

 うるさいな。私がどうなろうとあんたには関係ないじゃん。私は黙ったまま膝を抱え、芦原を無視した。もうどうなってもいいよ。

「おい、聞いてんのか? おーい」
「……っ、うるさいな! ほっといてよ!」
「んだよ、大声出しやがって。こんな所にいつまでもいないで家帰れって」
「……ヤダ」
「はぁ?」
「帰らない。帰りたくないの。だからほっといて」
「……理生先輩と何かあったのか?」
「あんたには関係ないよ」
「関係ないけど、うちの前で幼なじみを放置することも出来ないだろ」
「うちの前?」
「そう。ここ、俺んちのマンションの真ん前だからな」

 そういえば、ここはマンションの敷地内にある公園だったっけ。芦原ってこんな所に住んでたんだ。知らなかった。興味なかったし。
 仕方ないな。じゃあ、別の所でも行くよ。

「家に帰るのか?」
「帰らないって言ったじゃん。人の話聞いてるの?」
「じゃあどこに行く気だよ」
「さぁね」
「止めとけよ。夜はどこも物騒なんだから。ほら、送ってやるから」
「……ヤダ。ヤダヤダヤダ! 絶対に帰らない!」

 芦原に腕を引かれ、私はベンチの背凭れに掴まって駄々をこねた。
 意地でも帰らない。帰りたくないの。兄貴に会うのが怖い。ずっと堪えていた涙が一気に溢れだした。恐怖とか、悔しさとか、色んなものが胸の中を渦巻いてる。
 いきなり泣き出した私に芦原は、腕を掴んだまま黙った。二人して雨に打たれたまま、ただただ黙って立ち尽くす。

「……来い」

 それから数十分。すっかりずぶ濡れになった頃、芦原は私の腕をそっと引いて目の前のマンションへと連れて行った。家に連れて帰るのは諦めたみたいだけど、さすがにこのままでいるわけにもいかない。だから仕方なく自分の家に連れていくことにしたみたい。
 芦原んちは三階の奥の方。部屋のドアを開けて、私の背中を押して浴室へと案内した。
 どうやら今は誰もいないみたいで、だから遠慮なく入れとだけ言って芦原は出ていった。初めて来たクラスメイトの家でいきなりお風呂に入るのはなんか変な感じというか入りにくいというか。でも雨に打たれたせいで体が冷え切ってしまったし、お言葉に甘えて入らせてもらおう。

「……はぁ」

 私は熱いお湯を浴びながら、今日のことを思い出す。
 僅かに聞こえた生々しい息遣い。兄の姿。見知らぬ女性。まさか人の情事を、それも兄の情事を目の当たりにするなんて。
 いつかは、兄にも彼女が出来る日が来るだろうとは思ってた。私の妨害にも限界があるし、そのうち兄も私を止めるだろう。そうすれば、きっと私にも諦めがつくと思った。
 でも、ダメだった。全然諦められなかった。あんな光景を見ても、私はやっぱり兄貴が好きだ。そう思うだけで、まだ涙が溢れ出てくる。
 なんで私は兄貴なんか好きになっちゃったのかな。兄貴なんか好きにならなければ、こんな思いしなくていいのに。でも、今さらそんなこと言っても仕方ない。だって、もう好きになった後だもの。

 涙を洗い流して浴室から出ると、いつの間にか用意されていたバスタオルと女物の着替えが置かれていた。きっと芦原のお母さんのものだろう。私はその服を着て、リビングへと向かった。
 リビングへ入ると、頭にタオルを被った芦原がキッチンで何か用意していた。香りからしてコーヒーだろう。私に気付くと、顎でカウンターの前のテーブルに座るように促した。

「ほら、これ飲んでろ」
「……」

 黙って受け取ると、芦原はリビングを出ていった。多分あいつもお風呂だろう。私に付き合って雨に打たれてた訳だから待ってる間寒かっただろうに。なにも私になんかに構わなくてもいいのに。なんであいつはいつもああなんだろう。

 そういえば、芦原とは幼稚園からの付き合いだけど、いつから名前で呼ばなくなったっけ。芦原も私のこと名前で呼ばなくなったし。友達なんてそんなものなのかしらね。
 芦原が入れたコーヒーを飲みながら、私はタオルの上に置かれたカバンの中から携帯を出した。
 もう夜の七時を回ってる。それに兄からの着信とメールが数件。帰りが遅いのを心配して連絡をくれたみたいだ。私は、今日は友達の家に泊まるからとメールを送って携帯を閉じた。
 電話なんてしたくない。声を聞きたくない。机に突っ伏して固く目を閉じた。何も考えたくない。何も考えたくないのに、目を閉じるとさっきの光景が浮かんでしまう。もう、どうしたらいいんだろう。

 そのまま私は深い深い意識の中に落ちていった。

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