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1、プロローグ

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 迫るような青空と新緑の美しい麗らかな春の日だった。

 よく似た容姿の母子が連れ立って歩いている。

 母親は歳の離れた姉かと疑う程にあどけなく麗しい。

 子供は母親と同じ色の髪と瞳で、しかし、母には無い気品を漂わせ、長じれば母をも凌ぐ美貌を誇るのではと思わせる。

 けれど、子供の纏う衣服は紛う方なく男児のもので、どうやら少年であるらしい。

 表情に乏しく感情を窺わせない少年の内面は、意外な程に賑やかである。


 塗り潰したように厚みの有る青空。
 風に踊り光に瞬く緑の大地。
 たなびく絹の純白のスカート。
 輝きと香りと温度と触れ合う肌。

 いつもどこか灰色がかった息の詰まる領主館を離れ、手を引かれて歩く私の頬を撫でる心地よい風と、普段に無く穏やかな母の美しい顔が、特別な1日を予感させて、足元にそよぐ名も知らぬ草の一葉も愛らしく、全てが日常にない素晴らしいものに思えた。


 母がこちらを振り返り、燦めくような声音で

「シルヴィオ」

 と、私の名を呼んだ。

 母が私の目を見て、私の名を呼んだ喜びで、弾け飛びそうな身体を繋ぎとめる為に、瞬きもせずゆっくりと「はい」と頷いた。




 とある島国の辺境。
 大陸に向けて迫り出した半島を含む広大な土地の鎮守を任された一族が居た。

 辺境伯アギラル家である。

 建国より二百有余年、王家に尽くし、時に国土を脅かす外夷を討ち払ってきたアギラルの血筋は、異才の血脈と言って良い。

 一を以って十を知り、常人には理解の及ばぬ領域で万難を廃し、自領を、ひいては国を護って来た。

 その心は気高く、俗に塗れず、静謐を好み、人に馴染まなかった。

 故に、王都の姦しさを嫌い、国政から距離を置いて、広大な平原と森と海に抱かれる田舎暮らしを愛したが、それが王宮の俗物共には理解されぬ嗜好であるのは、アギラル最大の不幸であった。

 その不幸が結実したのは、アギラルの直系には珍しく社交界に蔓延る酒色や女犯を是とし、金や権力を欲する、正に王都の俗物共が同志と煽ぎ立てる男が、辺境伯の地位を得て、彼らの期待に大いに応えてしまった先先代の統治下の事である。

 俗物共の期待とはすなわち、誉高き一族の名を穢す陰謀や奸計である。

 アギラル家おいては異端となるその男は、王都を愛し、領地を荒廃させた。
 更には、都で得た欲望に忠実な友人達に唆されて、権利を許されていない貿易に手を出した。
 男はアギラルの異端児とはいえ、一族を纏めて当主を名乗るに足る程度には才覚を備えており、その才を悪巧みに異端なく発揮して、彼の事業は国家へ少なくない損害を与えた。

 が、そもそもがアギラルの叡智への嫉妬心から、甘い汁を吸いつつ、隙あらば一族を貶めんと悪党が寄り集まったのが事の始まりなのだから、密告されて締め上げられるまでに、そう時間は掛からなかった。

 そして男はその身を持って罪を贖い、先祖の功績から一族の取り潰しは免れた。

 何より、海は有ってもその向こう側との交易の権利はなく、土地はあっても跋扈する魔物を討伐せずしては何事も進まない旨味のない辺境伯の地位につきたい物好きも、治め得る能力のある人材も他に無かったのだから、荒れ荒んだ領地を早急に建て直すために、当然のように男の弟が新領主に担ぎ上げられた。


 その日、少年シルヴィオが手を引かれてやって来たのは、件の男の弟、この時には既に息子に全権を移譲した、先代領主に会うためだった。



 先代領主ファビオが任を継いだ当時、領地は危機的状況にあった。
 王家への賠償をはらむ財政不安はもちろん、治安の悪化が著しく対応は待ったなしの状態。
 治安を乱す元凶たる魔獣の森の広がりは加速度的であった。

 ファビオの兄の裏の仕事への投資は軍備を削って賄われ、その利益が循環する事は無かった為に領内の戦力はたった数年で崩壊寸前に追いやられ、終わりの見えない消耗戦に疲弊し切っていた。

 そこで戦況を打開する起爆剤として、新領主自ら前線へと参陣して迫り来る魔獣の群れを押し返し、兵を鼓舞して回った。

 領内で聖女が生まれるという奇跡にも恵まれて魔獣の氾濫を食い止めたファビオは、攻防の最中に片腕を喪いつつも、未曾有の危機から自領を護った英雄として兄の残した汚名を雪ぎ、信用を回復して行った。

 血泥に汚れ、身体を欠損し、金策に喘ぎ、政務に忙殺され、15年を浪費した頃、擦り切れた心身をようやっと解放された。
 18歳で成人と共に聖女と婚姻した息子に表向きを託し、聖域近くの別邸へと早々に隠居をきめ込んだのだった。

 ファビオは実にアギラルらしく有能で実行力があり、本質は隠者であった。





「ファビオ様ですよ。」

 いつもは人形の様な母が。
 作品めいた美貌もさる事ながら、何物にも心を移さぬ無機質な瞳の母が、今は真夏の彼は誰時かはたれどきが如く生命を迸らせ、まるで女神が慶事を告げるかの様で、私の胸はどうしようもなく高鳴った。

 母が寿ぐ祝福へと目が吸い寄せられる。

 ファビオ様の印象は丘の上に立つ古木。
 物腰はおだやかで、同じ時、同じ場所に居て言葉を交わすことが出来るのに、遥か高次元の存在感を放っていた。

 右の腕が肘の付け根から喪われている事すら神秘的に思えた。




 シルヴィオは美しいものが好きだ。
 特に自然現象が引き起こす刹那的な世界の揺らぎは涙を誘われる程に美しいと思う。

 夜空に閃く遠雷。
 万化の雲が織りなす光の輪舞ロンド
 月光にたゆたう綿雪の円舞ワルツ
 沃野に影差し駆け抜ける天空を滑る飛竜の巨影。

 影の遊び、光の瞬き、生と死と希望と絶望。



 無表情のままにハラハラと涙を零すシルヴィオを見た母親は顔を顰めた。
 声こそ出さなかったが、口元は「げぇ」と紡がれた。



 シルヴィオの母親は貧しい農村の出で名前はラウラ。家族との折り合いが悪く、今のシルヴィオと同じ5歳の時に森に捨てたれた。
 優れた容姿を惜しむ事もなく何の対価も望まれずゴミを捨てる様に魔獣の巣窟に放り出されたのだった。

 ラウラは異界渡りの珍しい魂を持っていて、異世界の知識があったし、生まれ落ちた砌より精神的には大人だった。
 両親も他の村民も教養とは無縁で日々の暮らしに追われて生きていたので、ラウラが前世知識で何かしようとする度に無理解と猜疑心を募らせた。
 ラウラに現世のルーツへ向ける愛着や尊敬が有れば事態は変わっただろうが、寧ろ未開の民と蔑み尊大に振る舞ったので、因果応報とばかりに汚れた魂で生まれた忌子として扱われた。

 ラウラは本人が思うほど賢くなかった。

 能力は人外級のチートなのに、制御力は平凡。
 凡人が過ぎたる力を持っても碌な事はない。
 折悪しくラウラが生まれた頃から目に見えて領政が乱れ始めたのも巡り合わせなのだろう。


 ラウラには魔素が見えた。異界には存在しない魔法の源だ。周囲の人間は皆、魔素を纏い体に巡らせ必要があれば体内で作り出す事ができたが、ラウラの体にはそれができない。ラウラの魂と魔素は水と油の様に馴染みが悪く、おかげで魔力的に不能だった。


 この世界には肉体を持たぬ魔素の結晶体も多く存在する。精霊や魔獣だ。

 ある日、不運な精霊がラウラに興味を持った。
 何せ魔獣とは違って純粋な魔素の結晶である精霊の動きをはっきりと目で追う人間は他に見た事が無かった。
 精霊視の力は稀有なのだ。

 精霊はラウラに悪戯を仕掛けた。
 どうやら声は届かない様なので近づいて突っついてやろうとしたら、逆に捕まりそうになった。
 が、捕まる前に精霊の身体は霧散した。

 精霊を閉じ込めたはずのラウラの両掌の隙間はそれまでどうしても扱う事が出来なかった魔素の霞で満たされて居た。

 村人が使う生活魔法の呪文の一つを試しに唱えると掌の魔素が小さな灯りに変化した。
 ラウラが生まれて初めて魔法の力を手に入れた瞬間だった。

 それから事あるごとに小さな精霊の命を刈り取っては些々たる生活魔法を行使して低級精霊を震撼させた。
 当然ラウラの村には精霊が寄り付かなくなって農地は荒れた。

 精霊を見かけなくなってラウラは困った。
 生活魔法の便利さを知る前には戻れない。
 今度は試しに人間から魔素を取り出そうとしてみた。
 枯渇する程奪いはしなかったが、思ったより魔素の流れは人体に影響を与えるらしく、直ぐに勘付かれた。
 上手く掠め取る事は出来ないものかと試してみたが、ラウラにスリの才能はなかった。

 それまで以上に村人に警戒されるようになった。

 次に、領内で爆発的に増加していた魔獣をターゲットにした。

 魔獣は精霊と違って人の目に映る。
 魔素以外に元素を身に纏っているからだ。
 物質の根元要素たる基本物質を魔素で固めて身体にしているので実体があるし、魔素を奪うと容易に崩れ落ちる。

 魔素を手に入れて村を襲う魔獣も退治できるのだから素晴らしい発見だとラウラは思った。
 実際この力で聖女を名乗り片っ端から魔獣を虐殺し倒す事になるのだが、魔獣の命を支配するラウラが村人の目には聖なる乙女とは対極の存在に見えた。

 魔を統べる者。

 きっと本物のラウラと産まれた時に取り替えられた魔王の幼体なのだと噂され、ラウラ一家は村八分になった。

 余談であるが、ラウラは度々このように無自覚に周囲を破滅に追い込み、混沌の申し子の異名を与えられたが、当の本人は知らない。


 ラウラの家族も思った。
 全ての凶事の根元はラウラだと。

 前領主の乱心にまで関与を疑われては哀れだがそれ以外はあながち間違いとも言い切れない。

 村人が囁くように魔王の幼体だと言うのは曲解が過ぎるが、元より貧しい暮らしがラウラの所為で完全に破綻しようとしていた。
 元いた場所に帰す様なものだと思えば気が楽だった。
 魔の眷属は魔の森へ還すのが良いのだ。

 その思い込みを免罪符に捨てられたラウラをファビオが拾った。

 ラウラ五歳、ファビオは22歳だった。




 蕩然と涙するシルヴィオを手招いたファビオは、静かな感動を覚えていた。

 人の涙には喜怒哀楽の激情が有るばかりたど思っていたが、シルヴィオの胸から溢れたのはもっと単純で微弱で、だからこそ尊く純粋な、祈りの様なものだった。

 ファビオの持つ生への絶望も死への渇望も、シルヴィオに目には、世界の誕生や命の輝きに等しい物事の表裏であり、陰陽、際立つほどに美しく燦く奇跡の光景と映った。

 危うく儚く引き裂かれた完璧で完全な男。

 ファビオはかつての自分に似た少年にしてやれる事の少なさに、己の余命を憂えて苦笑した。
 新妻を亡くしてからずっと、命の燃え尽きる時を待ちわびて生きて来たと言うのに今になって生き甲斐を見出すとは。
 これを不幸と喜ぶべきか、幸運と嘆くべきか。
 残された左の指でシルヴィオの頬とそこに伝う滴を撫でるファビオは眩しさに堪え兼ねたように目を細めた。

「ラウラは直ちに王都へ出立せよ。」

 母子は驚きファビオの顔を伺うが、指令したファビオは実行を待つばかりで何の衒いも感じさせない。脅しの類では有り得ない簡潔さだ。

 ラウラは困惑を隠さず尋ねた。
「それはシルヴィオと共に、と言う事でしょうか。」
「シルヴィオはここで私が育てる。」
 返事を聞いた母子の驚きは深まり、母の顔には激情が影差す。

「私を手元に置くためにシルヴィオを産ませたのではないのですか。話が違います。」

 自分の出生の秘密に言及する母にシルヴィオが慄くと、小さな手を節くれたファビオの手が包んだ。

「お前の異能は血に継がれる類の力ではない。始めから時間稼ぎの方便だが、王家へ嫁するか、力が遺伝するか確かめた上で子を差し出すかを選んだのはお前自身。子に継がれない以上、今後はお前の個としての能力を国家に役立てて頂け。」

 情報を処理し切れずにラウラは目を瞬かせる。

「初めから…継承できないと分かっていた?」
「過去の事実に照らした類推ではあるが、ほぼ確信であった。」

 ラウラは記憶を辿りながら惚けたように、は、とため息をつくと、続けて問う。

「あの時はまだ領内で私の力が必要だったけれど今は違う。」

 ファビオは応えず、俯くシルヴィオの瞳を覗くがそんな二人を前にラウラの目には怨恨が燃える。

「はじめからシルヴィオにの価値はなかった。そういうことですね。」

 忌々しげに吐き棄てるラウラの言葉から庇う様にふいと片腕でシルヴィオを抱え上げたファビオが背を向けて歩き出し幕引きを知らしめるが、納得のいかなラウラは追いすがる。

「この5年、私が大人しくしていたのは、今度こそ貴方が手に入ると思えばこそ。このままで済むとお思いですか。」

 足を止めたファビオが振り返りもせず応える。

「シルヴィオはだ。シルヴィオでもお前を変えられなかったのならば、最早容赦は有るまい。刃は己に返るものと心得よ。」

 それだけ言い置くと目を合わせることなくファビオは立ち去った。

 虚空を睨むラウラもやがて姿を消した。

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