月に兎がおりまして

りずべす

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壹、天兎

天兎⑧

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 人のいない昼食スペースを求めて屋上に流れ着いた。屋上そのものは割と人気があるスポットだが、夏と冬――つまり暑い時期と寒い時期はめっきり人が来なくなる。そして今の時期は既に暑い。快適なランチタイムをお求めならば、ここはもうお勧めできない場所となる。
 それでも、立ち昇った厚い雲の下で給水タンクの影に座り、冷めたあんぱんにクロワッサン、冷たいコーヒー牛乳を飲んでいる分には、まだなんとか我慢が利くくらいだった。
 眺めは良い。吸い込まれそうなほどの蒼い空にぽっかりと浮いた白い繊月は、まさに手元のパンの形そのものかもしれない。眼下一面には遠方の山々にまで続く街並み。階下は昼休みの雑談ひしめく教室だが、ここには一切の音がなく、煩い日常から隔絶された別世界にも思えた。
「ちょっと無防備すぎるんじゃない? あんた」
「うおっ!」
 そんな静寂の中、突然背後から聞こえた声は俺の心臓を派手に貫いた。
「人間ってのは、こんな簡単に後ろを取られちゃうのねぇ」
 振り向いた先にいたのはアオだ。しかも人ではなく兎姿。その首に見覚えのある青い大きな風呂敷包みを携え、外周に設けられたフェンスの上にちょこんと二足立ち。
 いや待て。兎ってのはそんな危険なところに後ろ足だけで立てるような生き物だったろうか。
 影の落ちた彼女の蒼い瞳を、俺は見上げる。
「なんでお前がここにいるんだよ」
「あんたが出てったあと、家にいるのも暇だって気づいてね。あんたの匂いを追いかけたのよ」
 アオはそう答えながら、自慢げに兎姿の鼻をスンッとやった。
「何を勝手に……俺を見送るのが日課って言ってたじゃないか」
「見送りはしてあげたでしょ」
 見送ってすぐあとをつけてくる奴があるものか。子供のお遣いじゃあないんだから。
 とはいえ、今更咎めたところで後の祭り。むしろ騒ぎになっていないだけでもマシと言うべきか。何せ普通の高校に兎はいないから、もし見つかっていたらこんなに静かではないはずだ。
「……はぁ、まあいいや。お前こんなところ来て、よく見つからなかったな」
「この姿なら隠れる場所もたくさんあるし、外壁を伝って移動する分には、よっぽど見つかりっこないわ」
「外壁か……随分と身軽なんだな」
 にしても校舎の外壁を伝う兎って……一応ここ、三階建の屋上だぞ。
 呆れる俺に、しかしアオは気にしたそぶりもなく、さも当然と言いたげな顔で答える。
「大抵の獣は身軽なものでしょ。地上に来てもう丸二日休んだし、あんたがくれた食事と酒で回復も順調よ。これくらいは問題ないわ」
「そうか。それは何よりだ」
 話に聞くユエとやらの力だろうか。眉唾ものではあるが、本人が順調と言うならまあいい。
「つーか、その風呂敷には何が入ってるんだ?」
「んー……まあ、色々とね」
 アオは首を傾げてわざとらしくとぼける。
「何でもいいけど、着物はちゃんと入ってるんだろうな?」
「あ、それは家に忘れたわ」
「はあ!? 着物より優先するものがお前の荷物にあるのかよ? いいか、素っ裸で歩いて警察に捕まったら見捨てるからな!」
「けーさつ、ってのが何かは知らないけど……安心なさい。所構わず裸身を晒すような、はしたない真似はしないわ。今のところ、あんたの前だけよ」
「俺の前でも是非やめろ!」
 そうしたら俺の心臓ももう少し穏やかになるはずだ。ニヤついたアオに向かってそれだけ吐き捨てると、俺は彼女を背にして黙った。素直にからかわれてやるつもりはない。
 望み通りの反応が返ってこないとわかると、アオは「ふぅん」と真顔に戻って訊いた。
「それよりあんたさ。この群の中では、随分と邪険にされてない?」
 群とは、学校のことか。これはまあ、言われるだろうとは思っていたがやっぱり言われた。
「……放っといてくれ」
「これでよく平然としていられるもんね。群から弾き出されるのは、獣にとっては死と同義だけど?」
「人間の場合はそうでもないんだよ。別に平気さ、これくらい」
「そうは言うけどさ。孤独が平気な生き物なんていないでしょ」
 軽々しく言うアオのその言葉には、しかし妙な実感が伴っていた。
 俺は何も答えず、手元に残ったパンの一欠片を口に放り込んで、せっせと咀嚼に勤しむ。
「あ、でもまるきり一人でもないか。ヤマナシっていったっけ? 好きなメスが近くにいれば、気も紛れるかもしれないわねぇ」
「んぐっ!? なんでお前がそれを!」
 ようやくパンを飲み込もうとしたところへの思わぬ不意打ち。盛大に吐き出しそうになるのをなんとかこらえる。咳き込みながらアオを見ると、彼女はピョンっとフェンスを飛び降りて、俺の横に座り込んだ。
「え、何? 隠してるつもりだったの?」
「か、隠すも何も……いや、別に……」
「あっはっは! そっか、あれ隠してたんだ? ごめんごめん」
「お前……ちょっとそれは、笑いすぎだぞ」
 隣のアオは、まるで転がるように短い両手で腹を抱えている。
 俺は頭を抱えたい気分だ。
「まあまあ、いいじゃない、照れなくてもさ。あたしほどともなると、ユエで他者の心を読むって芸当も、できたりできなかったりよ?」
「嘘だろ……もう、なんでもありかよ……」
 読心術? それってもしかして読心術ってやつか? いくらなんでも反則技だぞ。
 信じられない思いでアオを見ると、彼女はまるで俺の心の声に答えるかのようにニヤリと笑った。こいつ……。だったらこっちは、心頭滅却するまでだ。
「ああもう、やめろやめろ。勝手に人の心を読むな。月見里は、別にそういうんじゃないから」
 俺はなるべく声穏やかに、本当っぽく聞こえるようにそう言った。こういう事情がアオにバレると面倒なのは目に見えている。頼むから顔とか赤くならないでくれ!
「ふぅん。別にそういうんじゃない、か。あんた……意外にわかりやすくて可愛いわねぇ?」
 しかしアオは、これみよがしにお得意の八重歯をちらりと覗かせる。……駄目だったか。
「まあ、あたしだって、特別色恋に長けてるわけじゃないけどさ……でも、あれはどう見たってあんたの片恋でしょ」
「片恋って言うな。だから違うって」
「ああいう、清楚で可憐でお淑やかー、なのがいいわけ? だったらあたしでもありでしょ? ほら、あんなお高くとまってない分、なおさらさ」
 聞けよ。
 そして何を言っているんだこいつは。さてはやっぱり淑やかの意味知らないな? ついでに清楚と可憐もかなり怪しいが、この思考を読心術で気取られても面倒なので、すぐに打ち切る。
「こんなに違うって言ってるのに……お前、しつこいぞ」
「あんたこそ、そんなにムキになることないのに。好きとかじゃないなら、じゃあ、ただ気になるから聞かせてよ。あのメスと初めて話したのは、その昔に街で、って聞いたけど?」
 ……もう本当、どこで聞いてやがったんだ。まさか午前中、ずっと俺はこいつに見られていたのだろうか。俺が怪訝な顔をして黙ると、アオはそれを黙秘の逃げだと思ったのか、途端にこちらへとにじり寄ってきて言う。
「あっ! あんた、もしかしてここで黙る気? いいとこなのに! 無駄よ。あたしがユエを使えばそれくらい――」
「わかった! わかった話すって!」
 ああまったく! なんて面倒くさい兎なんだ。
 ただ、ここまでダイレクトに訊かれると、それはそれではぐらかすのにも骨が折れるものだ。昔話くらいはしてやってもいいかもしれない、とそう思い始める。
 俺は仕方なく、脳内にて時計の針を逆回転。忘れもしないあの日を思い返して話した。
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