ラボラトリー:Θ

りずべす

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第三章 旅の夜:ブルームーン

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 中居の女性は沢と白坂を座敷の部屋に通すと、そのまま敷布団を二つ用意して下がった。
「露天風呂の方、本当はもうじき終了時刻なんですが、一時間だけ延長しておきますね。お連れ様は、今夜はお部屋のお風呂のがよいかもしれませんが……よろしければ明日の朝にでも」
 と去り際に残して。小さな旅館ゆえ、そういった決まり事にも融通が利くのかもしれない。
 沢はまず白坂を敷布団へと横たえ、もう一方に自分のリュックサックを投げ出すと、すぐにまた部屋の出口に立った。
「せっかくの中居さんの厚意だし、俺はとっとと風呂に入ってくるよ。動けそうなら、お前も部屋のシャワー浴びとけよ」
 それから部屋はしんと静かになったが、しばらくすると白坂がおもむろに布団から起き上がった。自分のキャリーバッグまで這うようにして寄っていき、やがて壁伝いに立ち上がってはよろよろとバスルームへ消えていく。律儀に部屋の電気を消灯するあたりが白坂らしい。まだ体調が優れないようだが、ややあって壁越しにシャワーを使う音が聞こえ初めたとき、僕は少しだけほっとした。
 この部屋まで来るにあたり、僕は再び沢のリュックに詰められることになった。そして今、ようやくもぞもぞと這い出す。ホイールはちゃんと洗浄済みだ。決して部屋を汚すことはない。
 客室は、二人用にしては大きい方だと思われた。十二畳程度の客間、書院付きの床の間には掛け軸や淑やかな柄の花瓶に生けられた花が置かれており、隣には床脇。さらに障子を挟んで一段下がった広縁に、丸いウッドテーブルと二つのソファが備えられている。大きな窓はちょうど街が見渡せる良い位置取りで、差し込む淡い月明かりが薄い暗がりを蒼く照らし出す。
 なんとなしに動き回っていると、三十分ほどで沢が部屋に戻ってきた。浴衣姿で、水の入ったペットボトルを二本持っている。一つは既に口がつけられているようだが、もう一本は封が切られていない。きっと白坂の分なのだろう。
「お、シータ。リュックから出てきたのか」
 うん。狭いのは嫌いなんだ。
 沢はなぜか部屋の電気を点けないまま、新しいペットボトルを白坂の荷物の脇に置くと、その足取りで広縁のソファに腰かけた。沈み込むように四肢を投げ出して深く息を吐く。顔が赤いのは湯上りのためだろうか、それともまだ、身体にアルコールが残っているからだろうか。
 沢はそこから、一言も喋らなかった。まるで眠ったかのように身動きなく、ただ窓から夜空を眺めている。けれども不思議と、彼は起きているのだとわかる。
 やがて漠然と部屋に響いていたシャワーの音が消え、バスルームからは沢と同じく浴衣に身を包んだ白坂が現れた。
「なんで電気、点けてないのよ」
「むしろなんで消えてたのかわからないけど、まあ月で見えるから、いいかなって」
 やや憮然とした表情の白坂も、しかし結局、電気を点けることなくこちらに戻ってきた。
 自身の荷物の横にある柱を背にして、そのまま畳へと座り込む。自然と目についたであろう見覚えのないペットボトルが、今、沢の目の前にある物と同じ銘柄であることを知り、彼女は少しの戸惑いを見せた。けれども数秒の逡巡ののち、その水を行儀良く口へと運んだ。
「その……迷惑かけたわ。ごめんなさい」
「やけに素直だな。いや、別にいーけどさ」
 沢は相変わらず動きを見せずに弛緩した声を返した。
「なんだかんだで俺も宿にありつけたわけだし……つか、やっと喋れるようになったか」
「ええ……さっきまでは、少しでも喋ったら吐きそうだったの」
「吐いた方がいっそ楽になるもんだぞ」
「……そういうものなの?」
「そうか。本当に酒には慣れてないんだな」
「しょうがないじゃない」
「ま、それも、らしいっちゃ、らしいけどさ」
 その肯定はとても意外だったのか、彼女はまるで、毒気でも抜かれたような顔つきになった。
「……吐いた方が楽、か」
 そして言った。静かに大きく息を吸い、ほとんど倍の時間をかけてゆっくりと胸を下ろす。
「ねぇ、眠らないの?」
「俺は酔うと目が冴えちまうんだ。あと頭が痛い」
「……そう、なの」
「俺のことは気にしないで、眠たかったら寝ていいぜ」
「ううん。私も……酔うと眠れなくなるみたい。落ち着いてるのに、少しドキドキして、まるで……夢の中で微睡んでいるみたいな気持ちがする」
「じゃあ、それくらいがちょうどいい酔い具合なんだよ、たぶんな。次回からの参考にしろよ」
「ええ、そうね。頭は、まだちょっと痛いんだけどね」
 時刻はもう、とっくに夜更け過ぎになっていた。街も山も、草木も人もすっかり静まり返っている。二人の声は、そんな停止した世界でなければ互いに届かないほど小さく、独り言のようでもあった。
 二人とも揃って眠れないのなら、僕も、もうしばらく起きているとしよう。
 彼らに気づかれないよう細心の注意を払って移動し、広縁に下がる段の一歩手前、月明かりを巧妙に避けた部屋の隅――ちょうど二人の中間地点へ。
 そして僕がそこに居座ると同時、また白坂が口を開く。
「月が、綺麗ね」
「なんだよ、いきなり。傾く前に出会えてよかった、か?」
「へぇ……意外とそういう知識はあるんだ」
「昔、ひたすら本を読み漁ったこともあったよ。もう飽きたけど」
「そうなんだ。でも違うわ。今は、純粋にそう思っただけよ」
 夜空の月は円く大きく、そして蒼く、天高くから何物にも隔てられることなく僕らを照らす。
「月は、太陽光の約七パーセントを反射して輝いているそうよ。直接見れば、その色は黄色。けれど、今の私には蒼く見える」
「ああ。俺にも、そう見えるな」
「人の目は、薄暗いときには赤への感度が下がって、逆に青への感度が上がるの。今みたいな、街明かりの少ない静かな夜には、特にね」
 沢はぼんやりと視線だけを動かして空の蒼い月を見上げる。
「……まあ、月が綺麗に見えるくらいしか、取り柄のないところだしな」
「別に、そういう意味でもなかったんだけど……随分と棘のある言い方じゃない。確かにあなたは、こういう情緒が売りって感じの場所には、さして興味なさそうだけど」
 すると沢は、その言葉に同意を示しながら小さく笑う。
「はは、ちげーねえ。でも今回ばっかりは、棘があっても許されるってもんだ。だってここ、俺の地元だもん」
 そのとき白坂は反射的に首を持ち上げた。
 僕も少しだけ驚いた。でも、そうか。言われてみれば、ここに来るまでの沢の言動には、思い当たる節があったような気もする。ここは彼の出身地だったのか。
「さすがに、こんな観光地のど真ん中じゃあないけどな。それでも、自転車走らせたら難なく着くようなところだよ。ゲーセンもなければカラオケもない。映画館も、スタジアムも、デパートも遊園地もさ。ド田舎で山と川ばっかで、あるのは旅館にホテルに民宿。そんなんばっか」
 口調は平坦。地元の質素さに毒づいている割に、声には抑揚が乗っていない。白坂はそれを、どう思っただろう。上げた首を今度はゆっくりと下ろして手元を見つめ、静かに言った。
「そう……でも、私は好きよ。とても綺麗で、雰囲気もあって……素敵、だと思う」
「素敵ってお前……似合わねーな」
「うるさいわね。今はそういう気分なの。あと、お前じゃないわ」
「あー、はいはい。まあそりゃ……俺だって別に、嫌いってわけでも……ないけどさ」
 そう。彼のこの発言は、きっと嘘ではないのだろう。大っぴらに褒めちぎるほど良い側面ばかりを見てきたわけでもなくて、でも心の底から罵るほど悪いと思っているわけでもない。そういう複雑な想いの末の言葉。普通の機械にはわからない代物だ。人間、皆、多かれ少なかれ捻くれている。でも、そんな彼らと一緒にいる僕も、ちょっとくらいは捻くれておかないとね。
「そういえば、私たち……宿の人に、どう、思われたかしら」
「どうって……ああ」
 そこで沢は少々考えた。けれどもすぐに、言外の意に思い当たったらしい。
「事実だけ見りゃ、夜遅く旅館に二人で駆け込んで、おんなじ部屋に泊まってる。まあ、中学生や高校生みたいな子供だったら、あまりいい顔はされなかったかもしれないな。でも俺ら大学生だし、付き合ってるのかなーくらいの印象だろ」
 僕の分析からするに、部屋に通してくれた中居さんの二人を見る目は、駆け落ちしてきた恋人か、痴情のもつれた元恋人、はたまたあるいは既に結ばれた若夫婦の新婚旅行……とまではいかないにしろ、恋仲に近しい人を見る類のものではあったと思う。その証拠に、部屋の中央に敷いてもらった二つの布団は、ほとんど隙間を空けずにくっついている。
「そうね……大学生は、もう、子供じゃないものね」
「だって二十歳もとっくに超えたんだから、だろ」
 そんな部屋の光景を見るともなしに見ていた白坂の呟きに、沢は得意げに続きを添えた。
 白坂は黙したまま何も言わない。おそらくは無言の肯定だ。なぜならそれは、いつも白坂の方こそが、よく口にしている言葉なのだから。
 この現代社会、生まれて二十年が過ぎれば、皆一律に大人の資格を得る。でもそれは、思えばとても奇妙なものではないだろうか。年齢。精神の成熟。自立する力。決意に覚悟に、その他諸々。どれも大人になるための必要条件の一つに過ぎない。時代、環境、個人によって求められるものは異なる。早々と大人になった人もいれば、いつまでも子供のままの人もいる。
 大人を目指した人。
 大人になることを強いられた人。
 子供をやめた人。
 子供でいる必要のなくなった人。
 それぞれがぞれぞれに違う。
 さてさて、今、目の前にいる沢と白坂。はたして二人は、大人か、否か。
「聞いても、いい?」
「今日はやけに質問が多いなぁ」
「そういう気分なのよ」
「そっかよ。んで?」
 会話は、非常に遅々としたペースだった。どちらも周期の長い、深い呼吸に合わせて声を発している。僕はこれまでに、今ほど二人の周波数が合っている瞬間を見たことがなかった。
 白坂は言った。
「あなたは、どうして此処から、あの大学に行くことにしたの?」
 すると今度は、ソファの背に預けられていた沢の首が少しだけ伸びる。
「そんなこと聞かれるとは、思ってなかったな。別に……なんてことない理由だよ」
「なんてことない理由でも、あるなら聞かせてよ」
 弛緩し切った身体に走る一筋の緊張は、沈みかけていた沢の意識を心地良く引き戻した。彼は何度かその口を開いたものの、少なくとも三十秒は声を発せず、やがて答えた。
「……俺はさ。二十歳なんて言わずに、高校出たら、もう子供じゃないって思ってた。でも同時に、まだ大人でもない、とも思う。俺たちは、子供でいられなくなっただけなんだ。そんなどっちでもない俺たちには、まだ責任もない代わりに自由もない。でも俺は、自由になりたかった。大人にはまだなりたくなくても、自由にはなりたかったんだ。ずっと此処から出ていきたくて、此処じゃない別の場所に行きたくて、そして……いつか自分は、一人で生きていかなければならないんだとも思っていた。縁もしがらみも何もないところで、頼れるものも縋れるものも一切ない場所で、自分一人だけの世界で、生きていかなければならないんだって。それが大人になることなんだろうって」
 なるほど。きっと『子供じゃない』は『大人』じゃない。
「その練習、かな」
「そっ……か」
「そ。親とは大喧嘩だったよ。毎日毎日言い合いして、デカイ啖呵切って出てったんだ。だからこんなに早く帰ったんじゃ……ほら、格好つかないだろ」
 沢は、ここまで語ってしまった真面目な話を散らすように、緩く片手をヒラつかせる。
「それでこの学会のことが決まったとき、妙な雰囲気だったのね」
「急に里帰りしろって言われた気がして、驚いてたんだよ。学会そのものは単に面倒だった」
「あなたねぇ」
 憎まれ口に白坂はやや唇を尖らせたが、しかし同時に、その表情は自然と和らいだようにも思われた。強張っていた身体から緊張を解くように、今度は短く息を吐く。そして静かに、そして穏やかに、彼女は言った。
「自由に……か。ええ、わかるわ。とても」
「はは、本当かよ」
 沢の口調には、まださきほどの皮肉めいた軽さが少し残っている。
「本当よ。それはきっと、どこまでも尊くて得難いもの」
 けれども白坂から返った言葉は、驚くほどに純粋で真剣で、透き通っていて。
「そんな自由を得るための一歩の価値は、その大きさは……踏み出した人だけがわかるものよ」
 沢の茶化しかけた空気は、またすっかり何処かへ飛んでいってしまった。
 それからややあって彼は「……あんまりキャラじゃねーんだけどなぁ」と小さな声で零したあと、意を決したように口を開いた。
「じゃあ、俺と白坂はもしかしたら……同じ理由で、今、此処にいるのかもしれないな」
 そして沢は、ここにきて初めて、白坂の方へと振り返る。瞼が半分ほど落ちかけた眠たげな顔。でも、その瞳の奥には、まだ熱が籠っていて眠れそうにない。そんな顔で。
「次は白坂の番だと思う」
 白坂はじっと沢を見つめた。二人の瞳の中心にお互いの姿がくっきりと映り、その像もまた、互い自身をとらえている。静寂の中、白坂が唐突にぽつりと、けれどはっきりとただ告げる。
「私、研究者になりたいの」
 沢は黙ったままで先を待った。
「私は幼い頃、近くに住んでいた叔父に、よく遊んもらっていたの。その叔父が、大学の教授――いわゆる研究者で、光の研究をしている人だった。早い話が、それに憧れたってわけ」
「叔父さんが研究者って……でも白坂の家は、確か」
「うん。うちは知っての通り、何代も続く世襲政治家業、白坂の本家。親は議員で、近くにいっぱい住んでる親戚も、みんな政治関係の職に就いてる」
「なのに研究者になりたいのか。今、俺らがいる学部、政治とはまるっきり無関係だよな。親とか、何も言わないのか?」
 まあ、まっとうな疑問だと思う。彼女だって当然のように、家業に関連する職に就くことを、周囲に期待されているのだろうし。
 けれど白坂は淡々と答える。
「親とは、もう長いこと話してないの。平日も休日も関係ないし、長期で家を空けることもしょっちゅうよ。自分たちの仕事で手一杯って感じで、そもそも私に、関心ないんだと思う」
 何の感情も浮かんでいない表情。まるで自分も、そんな親には関心がないと言わんばかりに。
「私のことは家政婦や秘書に任せっきり。その人たちだって別に、特別私に親身なわけじゃない。小さい頃から大きな家に、ほとんど一人で住んでるわけ。進路は一人で勝手に決めたし、手続きも全部自分でやった。父と母はもしかしたら、私が今、何処の大学の何の学部に行ってるのかも、知らないんじゃないかしら」
「いや、さすがにそれは……ないんじゃないのか?」
「さあ? でも、それくらい関わり合っていないってことよ」
 一人が平気な人間はいない。そんなことは、人間じゃない僕でもわかる。それでも彼女は自由を――孤独と表裏一体の自由を選び取ってここまできた。きっとそれはひとえに、
「叔父さんが、私に踏み出す一歩を教えてくれた」
 それゆえだろう。
「政治関係者ばかりの親類の中で、一人だけ研究者だった叔父さん。親戚同士の集まりにも一切顔を出さないで酷く浮いていたのに、自由気ままに生きていた変わり者の叔父さん。父の、年の離れた兄で、もう随分前に亡くなったけれど、その直前まで元気で無邪気で突拍子もなくて、楽しそうだった叔父さん」
 ゆっくりと、古い記憶を辿るかのように彼女は語った。その口調はとても穏やかで、紡がれる言葉たちは、蒼い月明かりに照らされて沢へと届く。
「今でも覚えているのはね。いつものように家には親がいなくて、家政婦の人も帰ってしまった夜遅くに、近所一帯が停電したの。真っ暗で怖がっている私のところに、両手に収まらないほどの大きなダンボールを持ってやって来て、そこから出した大量の手作りキャンドルで、私の部屋を一杯にした。大学の学祭用にみんなで作った、人を元気にするキャンドルだって」
「……人を元気にするキャンドル?」
「そうなの。光って、強度とか波長とか偏光とか、パラメータによって人に色んな影響を及ぼすじゃない。よく言われるのが、色温度の低いオレンジ色の光は人の心を穏やかにするとか、近赤外線は痛みを和らげるとか、1/fゆらぎの?燭の光は緊張をほぐすとか。自作のキャンドルでそういう、見る人を効率的に元気にする炎を出すキャンドルを作ったんだって」
「へぇー。そりゃ確かに、面白いな」
「まあでも、所詮は学祭に乗じた道楽だったんだと思うわ。要するに売れ残りを持ってきたわけだもの。ただ、それでも叔父さんの聞かせてくれた話は確かに面白かったし、目の前に広がった幻想的な夜のオレンジと合わせて、当時の私を十分に魅了した」
 僕は白坂の言った、オレンジ色の夜の情景を思い描いてみる。
 真っ暗な世界の中、煌々と揺れ輝く無数の燭火。住宅地であっても停電ゆえ、窓から差す街光は一切なく、周囲から隔離されたかのように音もない。
 そう、それはちょうど、今の状況とよく似ている。
 他に光源があるとすれば、空にたゆたう月くらいのものだろう。降り注ぐ薄絹のような光のカーテンに包まれて淡く優しく揺れる炎は、得も言われぬほど美しかったに違いない。目の前に座る白坂の瞳には、今も鮮明に、そのときの記憶が映っている。
「叔父さんの言ったことが気になって、自分でもあとから色々と調べ始めたのが、思うに、この道への入口だったわ」
 小さな灯火は、彼女の夢を指し示す灯台になった。
「でも駄目ね。私、あんまり才能なくて。あなたの方が向いてるのかも」
 けれど続いて出た弱音に、沢は意外そうな顔をする。
「はぁ? いや、冗談だろ」
「ううん。だってほら、前にも伏屋先生に誉められてたじゃない」
「え? ああ……そういや、そんなこともあったっけか」
 あったといえば、あった気もする。二、三ヶ月くらい前のことだったろうか。その記憶を掘り返すのにやや時間を要した沢。しかしやがて「そういうことか」と何やら得心したような様子を見せた。
「まあ、そうだな。言われてみりゃ、俺は昔から器用な方でさ。大抵のことは始めてすぐ、そこそこできたよ。でも、それだけだぜ。それは正真正銘、そこそこなだけだった。本気のやつには全然勝てない。それですぐにやめちゃうんだ」
 いやに明るい口調で「俺は白坂みたいに、頑張れないよ」と、そんな風に沢は続ける。
「いいじゃねーか。才能とか、あとはなんだ……運命とか資格とか? そんなもの、結局全部、結果論だろ。自分を納得させたいがためだけに使う言葉だ。目指したことに打ち込めるって、それ自体が、俺は十分、すげーことだと思う。なんなら、それこそが才能だよ。そう思ったらいいんじゃないのか?」
 沢は、ゆっくりと言葉を選んでいた。面と向かってまともにそんなことを言う沢に、白坂は少なからず驚いただろう。つまるところ『キャラじゃない』沢の発言に。
 でもすぐに、その言葉が単なる見せかけや、おためごかしではないとわかったらしい。目を伏せて俯きながら、ぽつりぽつりと零すのだった。
「……私ね、怖いの。なりたいものに、なれなかったら……そう思うとすごく怖いの。だからいつも、焦ってばかりで、ずっと不安で、ただただ不安で……」
 消え入りそうな白坂の声は、それでもこの部屋の中でならば、ちゃんと聞こえる。沢にも、そしてもちろん、この僕にも。
「なりたいものになれなかったら。このままずっと無力だったら。空の星が落ちてきたら。明日世界が終わったら……そうやって考え出すとね、止まらないの。余裕なくて、ほんと駄目。もっとあなたみたいに明るかったら。周りの人まで笑顔にするくらい楽しく振る舞えたら。奇抜で突拍子もなくて面白くて……私もあの叔父さんみたいだったら。そう思うと、ちょっとあなたが羨ましいわ」
 まるで悲しい詩を読み上げるような、蒼い月明かりに溶ける冷えた声。
「……白坂の叔父さんがどんな人かは、俺にはわからないけどさ。俺が明るいのは……意地、なんだよ」
 対して沢は答える。「本当は俺も焦ってばかりだ」と。誤魔化しの一切ない、真剣な顔で。
「なあ。自分が楽しいと思えることをする。そうじゃないことはしない。もし本当にそうだったなら、いつも楽しいことだけをしているはずなんだ。そう……思うだろ?」
「ええ……あなたはよく、そう言っているわね。『俺は自分が楽しいことだけをするんだ』って」
「なのに俺はさ。頭のどこかではずっと、今やってる『これ』はいつ終わるんだろうって、考えてるんだ。自分のやることには全部すぐに終わりが来ることを知ってる。んで、終わっちゃったら、また次のこと探さなきゃ。楽しいことを、次から次へ、早く、早く見つけなきゃって。じゃないと俺の毎日は、すぐつまんねーものになっちまう。本当はわかってるんだ。真にすべきことが何かわからない自分の日常が、絶望的につまらないものなんだってこと」
 僕は思った。きっとこれは、白坂が詠った悲しみへの、その心への、彼なりの返歌なのだと。
「先のこととか、将来とか、考えたくない。考えたらキリがない。不安で仕方ない。日々、ただただ浪費されていく時間の中で、自分の生きる意味を探しているんだ。俺はなんのために生まれてきたのかっていう、その答えを」
「答え……」
「うん。『ああ、これだ』って。『俺はこのために生まれてきたんだ』って。『この道をずっと歩いていくんだ』って。そう感じられる瞬間。そんな瞬間があるかないかで、人生の価値は決定的に分かれると思う。そして今の俺には、それがない」
 淡々と語る沢の声。でもそこには、はっきりと彼の感情が込められている。普段の彼ならば絶対に表に出したりしないであろう、恐怖や不安。それと同時に、強い、強い強い、憧憬。
「でも白坂はもう、それを持ってる。ちゃんとなりたいものがある。白坂が俺を羨ましいって言うんなら、それは俺にとっても同じことだ。俺も、白坂が羨ましいよ」
 そして沢が話し終えると、やがて白坂は柔らかに目を閉じた。
「そんなこと……初めて言われたわ」
「そりゃあそうだろ。こんな機会でもなけりゃ、わざわざ言わないよ。けど、周りはみんな、白坂の一生懸命なところ、すごいと思ってるんだ。もちろん俺も含めて」
「そう……なのかしら」
 白坂はやはり不安そうな表情を見せる。沢の言葉を疑っているわけではないのだろうが、それでも上手く信じられない。そういった想いが表れている。
 沢は戸惑う白坂に向かって、今度は皮肉のない、かけねなしの笑顔で言った。
「そうだよ。だからさ、白坂はもう少し、周りと話してみればいいんだ。そしたらわかるよ」
 口調は穏やかながらも、あとに「それこそ俺を見習ってな」とおどけて付けるあたり、いつの間にか今の沢は、十分に沢らしい。
 すると、それを聞いた白坂も
「そうね。私たちは、二人で足して二で割るくらいがちょうどいいのかも。そうしたら、普段のあなたももう少し、真面目になるものね」
 と彼女にしては珍しい彼への同意、そして悪戯な笑みを溢した。
 即座に沢は、窓の外へプイッと自身の首を捻る。
 それから二人が言葉を交わすことは、もうなかった。まるで示し合わせたかのようにそれ以上の会話はなく、ただ窓の外の街明かりを眺め続ける。
 するといつしか、静まり返った部屋には二人分の落ち着いた寝息が聞こえ始めていた。


 翌朝。二人は頭を押さえながらほとんど同時に目を覚ました。
 二日酔いゆえか、お互い壁や椅子に寄りかかりつつもやっとのことでチェックアウトの準備をし、宿を出たのは昼近くだった。
 そのままバスで駅まで向かい、新幹線に乗って大学の最寄りまで帰ってくると
「それじゃあ」
「ええ、また」
 とだけ交わして別れた。
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