Dear “Dear”

りずべす

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第一章

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 透明な箱が、ゆっくりと空へ上っていく。ほんのわずかな過重力空間。足下に力がかかり、その代わりにふわりとした妙な浮遊感が身体にせり上がってくる。
 学校終わりの午後四時半。高校三年生である俺、那城蓮なしろれんは、エレベータに乗っていた。街の中心である都心駅に併設された、百貨店のエレベータ。なんと全面ガラス張りで、上階にある高層タワー展望台に直通だ。
 上るほど、次第に低く、小さくなっていく人や街並み。やがて駅周辺以外も見えるようになってきて、ある高度までくると、眼下はいっぺんにオレンジの雲海に変わる。
 バス、地下鉄、在来線や新幹線の集まる都心駅の真上、オフィスや百貨店の入ったビルから伸びる形で、このタワーは建っている。最近になって首都圏に建設された、地球の丸みを実際に見ることができるという成層圏展望台ほどではないが、雲を突き抜けて天空の世界に片足を踏み入れる感覚くらいは、このタワーでも味わえる。建築物の高さが国家の保有技術の指標であるという慣習は今も昔も変わらないもので、現にこいつも、世界で何番目かの地上高を誇っているらしい。まあ、建てられて久しい今となっては、訪れる人も少ないのだけれど。
 きっと今も昔も、千年前も二千年先も、人類の営みはさほど変わらない。暮らしが劇的に豊かになっても、不可能と言われていた夢の技術が確立されても、人間の本質は変わらないのだ。
 ――そう、まるで人間のように振る舞う人形が実現されても。
 信じられるだろうか。俺の生きる現代では、人形が人間の生活を支えているのだ。人間の形をした、人間でない人工の存在が、俺たちの社会に深く深く溶け込んでいる。そして俺たち人類は、彼らのことを《ディア》と呼ぶ。
 今や人間は、何をするにもディアと一緒だ。ディアは何だってできてしまう。
 たとえばディアは、常に世界中のネットワークに接続している。だから人間は、彼らの傍らにいるだけであらゆる情報を得ることができる。自宅でも街中でも関係ない。加えてスケジュール管理や家事だってお手のものだ。秘書や多忙な母親の代わりに会社や家庭を補佐しているディアはごまんといる。ディアのスペックを上げる研究は国家規模で大々的に行われているし、社会インフラの運用についてもディアに頼っている部分は非常に多い。
 つまるところ、ディアは俺たち人間のサポーターであり、かけがえのないパートナーだ。さきほどまで俺が見下ろしていた街の人混みだって、おそらくは三割くらいがディアなのだろう。かつて観光客で賑わっていた頃には、このエレベータにもガイド役として配置されたディアがいたと聞く。
 なんて、そんなことを考えていると、長い長い上昇を終えて、ようやくエレベータが到着の知らせを出した。
 扉から出て、広い円形フロアの中心に降り立つ。視界は三百六十度がオレンジ色に染まった天空。わずかな設置物と横薙ぎの陽光が作る、細長い陰が印象的だ。
 フロアの外周は、床が透明になっているところもある。円盤の中心を串で貫いたかのようなこの展望台の構造上、空中に張り出したその部分まで行けば、まるで空にぽっかりと浮いているような気分になるだろう。雲のない日ならば、遠い下界の景色が足元に見えるはずである。
 そして、一角にはテーブルや椅子、それとカウンターが設けられている。訪れる人々はここで飲み物や軽食を買い、景色と一緒に楽しむことができるわけだ。
 俺が目を向けると、ちょうど一組のカップルがカウンターで注文をしていた。応対するのはシックな黒いベストに身を包んだ男性店員。おそらくはディアだろう。
「ご注文はお決まりですか?」
 店員が尋ねる。
「えっと、俺はコーヒー。アメリカンのLサイズで。君は?」
「私は……紅茶にしようかな。アッサムをミルクティーで」
 男女がオーダーを告げると、店員は素早くレジを片手に愛嬌のある笑みで問いかける。
「かしこまりました。ご一緒にお菓子はいかがですか? コーヒーにはこちらのタルト、紅茶にはスコーンなどがお勧めです」
「へえ。うん、もらおうかな。フルーツタルトで」
「じゃあ私も、プレーンスコーン。あ……」
 言い終えると同時、女性はさらに別の場所に並べられたビスケットへと視線を向ける。
 それは一瞬の出来事だったが、しかし店員はその視線の動きを見逃さなかった。すぐに
「こちらのビスケットもお召し上がりになりますか? セットにするとお安くなります」
 と快く笑みを重ねる。
 すると女性は嬉しそうに「はい。お願いします」と答えた。
「かしこまりました。すぐにお持ち致しますので、お好きなテーブルでお待ちください」
 さすがはディアだ。今のは、女性の瞬間的な視線の動きを正確に追跡した上での提案だろう。加えて、目当てのビスケットを視界に収めたときの、わずかな心拍数の上昇も読み取っているかもしれない。
 注文を終えた男女は、満足そうな表情でフロア内のテーブルの一つへと歩いていった。
 また、別の方向へ目を向けると、買い物のあとらしき家族連れの姿が見受けられる。たくさん店を巡ったのか、疲弊した様子の壮年の父親。その傍で小学生くらいの男の子が、カフェカウンターのケーキを食べたいとせがんでいる。さらにその双子とみられる女の子が辺りをパタパタと走り回っていて、二十代くらいの清潔な身なりの女性が、多くの荷物を片手にしながらそれを見守っている。この場にいない母親はまだ、階下の百貨店で買い物中といったところか。
 ごく一般的な、和やかな家族の光景。ただ、思うに妙齢の女性はディアかもしれない。女の子が女性に向かって「セレナー、セレナー」とディア特有の呼び名で声をかけている。
 父親にあしらわれた男の子が諦めて頬を膨らませ、走り回る女の子のあとに続いて走る。これは……と思ったところで、案の定、二人がぶつかった拍子に転びかけた。しかしすかさずディアの女性が片腕を伸べて二人を受け止める。決して少なくない量の荷物を持ちながら、さらにもう一方の腕に二人の子供。いやはや、まったく脱帽の対応能力。
 これだからディアは……やはり優秀だ。
 これが今の人間の社会。人間と、人間に似て非なる存在――人間とディアが作る社会だ。
 俺はエレベータから離れ、フロア外周の吹き抜け部分へと歩き出した。途中で自販機から缶コーヒーを二本買い、景色の良く見えるテーブルに腰掛ける。そして一息。一本目の缶コーヒーを開け、窓の外へと目を向けようとする。
 けれど、そこで俺は、咄嗟にフロア内へと視線を戻した。
 少し離れたテーブルに、一人の女性が座っていたのだ。そして紅茶を嗜んでいる。
 ただ問題はそこではない。驚いたことに、その女性は全身を黒いゴシック調のドレスに包んでいた。鍔広の柔らかそうな生地の帽子。ひらひらしたレースで飾られた胸元。スカートの部分は腰から広がって傘のようになっており、おまけに手にはロンググローブ。さらに足元は細くて高いフォーマルなヒール。一見、パーティー仕様のようだが、これでもかと言うほど露出の少ない真っ黒な装いから、まるで喪服のようにも見えてしまう。
 想像するに、年の頃は俺よりも二つ三つ上という程度。若さの割に大人びた印象を抱かせるものがある。髪は纏う服と同じ漆黒で、長く腰まで伸ばしたあとに先端で緩く切り揃えられている。かと思えば、目を見張るのはわずかに覗く肌の白さだ。抜けるように一片の曇りもない白が、夕陽の茜色に溶け込んで同化している。
 その姿はまるで、完成された一枚の名画のようだった。
 しかしそれゆえ、周りとの隔絶は激しかった。彼女の周囲には現実と絵画の世界を隔てる額のような境界めいたものがあるのではないかと疑うほどだ。
 ……ものすごい人がいるな、と俺は極めて端的にそう思った。常識的に考えて、あんな格好で涼しい顔して往来を出歩くことは可能なのだろうか。いったい何のコスプレだ? ファンタジーの世界からやってきたのか? 冗談抜きで人形みたいだ。
 しかしそう思って俺は、ふと気づく。そうか、人形か。それならあり得なくはない。
 なるほど、彼女はディアなのかもしれなかった。
 確かにあれだけの美人なら、ディアの可能性は十分高い。もちろん人間にだって絶世の美人はいるけれども、客観的に見てディアの方が整った容姿を持つのは事実である。
 たった一人でこのフロアにいるというのはいささか謎だが……うーん、一時的に《所有者オーナー》と別行動をとっているのだろうか。ディアは単独で行動することもままあるけれど、しかしだからといって、ここで暇そうに紅茶を飲んでいるのは、よくわからない。
 とすると、やっぱり人間なのだろうか。人間ならば、散歩がてら一人で紅茶を飲んでいようがおかしくはないが……。
 いやいや、はてさて、一体全体どっちだろう。ちょっと興味がわいてきた。
 『目の前の存在は、はたしてディアか人間か』というのは、昨今を生きる中ではしばしば出会う疑問である。大抵の場合、眺めているだけでそこそこ察しはつくものだが、如何せん今回の場合はまた別だ。相手が一人で紅茶を飲んでいるだけでは見当をつけにくい。
 ならば、次なる手段は実際に声をかけてみるというものだ。ディアならそうと答えるだろう。仮に人間だったとしても、きょうび、ぱっと見でディアに間違えられて憤る人はあまりいない。非常に容姿が整っており、老化という概念すら持たないディアのように見えることを、ほとんどの人々は好意的に解釈するのだ。自分が美しく見られたのだと。
 たとえばルックスの良い人に向かって「まるでディアのようだね」と言うのは今ではありきたりな褒め言葉だし、歳不相応にいつまでも若々しい人が「本当はディアなんでしょう?」と疑いの言葉を向けられるのは、ジョークの一種として市民権を得ているほどだ。
 俺はコーヒーを飲み進めながら、ぼんやりと女性の様子を眺める。
 その間、あちらはただカップを口に運ぶばかりで一度もこちらを振り向きはしなかった。
 そして一本目の缶を空けたと同時、唐突に俺は、横から声をかけられた。
「お客様。お飲み物をお持ちしました。当店のデイリーオリジナルスペシャルブレンドコーヒー、プレミアムエディションでございます」
 何事かと思い声の方を向くと、離れたカウンターにいたはずの店員が目の前にいる。
「え? あ、いや……あの、頼んでませんけど」
「あちらのお客様からでございます」
 戸惑いつつ断りを入れると、店員はさきほどまで俺が見ていた女性の方に視線を向けた。
 すかさず女性が、横目で俺をちらりと見やる。
 目の前では、コーヒーの満たされたカップと銀のスプーン、さらに砂糖とミルクの入った容器が次々と並べられていく。それらがいちいち高級そうで、コーヒー一杯に随分と仰々しい。ていうかデイリーオリジナル……何だって?
 店員が去ったあとも、俺はしばらく固まっていた。突然現れたコーヒーに戸惑っていたのももちろんあったが、遠目に見ていた女性に既に気づかれていたことにも驚いていた。俺が見ていることに気づかれていることに、俺自身が気づいていなかった。
 しばらくするとその女性はするりと立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくる。両手でティーカップを丁寧に携え、動きにくそうな服装に反して危なげなく、やがて俺の対面に腰掛ける。惚けていた俺にとって、それは一瞬の出来事だった。
「こんにちは。初めまして、かしら」
 女性が言う。帽子の影から見える、大きな紫の瞳を俺へ向けて。
「こ、こんにちは。ええ、たぶん、そうだと思います」
 思います、なんて言いつつ、絶対に初対面だという確証が、俺にはあった。今までの人生でこんな人に出会っていたら、まず忘れてなどいないだろう。
 答えると、女性はニコッと笑って目を細めた。
「今日はどうしてここへ?」
 そして、尋ねられて俺は、今更のように思い出す。俺が今日、どうしてここを訪れたのか。俺はここにきてようやく、本来の目的を求めて窓の外の景色を見た。そこにあるのはぽっかりと雲の上に浮かぶ夕陽、その夕陽をちょうど真っ二つに割るように聳える――
「塔です。あの塔を見にきました」
 そう。この世界には、塔が建っている。遠く離れた海の真ん中に建設された人工島から、空を貫くように真っ直ぐ一本。どんな天候や天災にも負けることなく、その先端を宇宙空間まで届かせる巨大な塔だ。飛び出た先端はまるで花弁のように開いて太陽からの光を受け止め、エネルギーとしているらしい。そして今の世界は、そのエネルギーで回っている。
 あの塔はいわば、世界の中心。
「《世界樹ワールドツリ―》ね。へえ、わざわざあれを見るために、こんなところまで?」
「そうです。そのためにわざわざ、こんなところまで」
 丸い地球上に地理的な中心と呼べる場所があるかはさておき、役割の面から考えれば、あの塔は間違いなくそれに当たる。その役割と、花弁を模した先端、そして部分部分で葉のように張り出した構造から、塔は別名《世界樹ワールドツリ―》と呼ばれている。技術力、構造美、その他様々な側面から見て、人類史上、唯一無二の傑作に相違ない建造物。それがこうして夕陽の中で、他に何物も並び立つことなく佇む姿は、俺のお気に入りの景色だった。
「あら、それは珍しいお人だこと。あんなの別に、目新しいものでもないのに」
「まあ、そりゃあ、新しくはないですね。むしろ機械的な建築としては、飛び抜けて古い方です。なんたってあれは、今から三百年も前にできたものですから」
「三百年、ねえ」
 女性は俺と同じように窓の外を見て、まるで感嘆の溜息でもつくかのように呟いた。
「大昔ですね。でも、だからこそすごいじゃないですか。だってあの塔は、世界のエネルギー問題を一挙に解決しただけじゃなくて、今や世界の隅々まで普及したディアの、総合サーバーとしての機能まで果たしているんですよ」
「あらあら。あなた、物知りね」
「いやいや、何を言っているんですか。からかわないでくださいよ。建てられてすぐの頃ならまだしも、今じゃ小学校で教えてくれるような常識ですよ」
 世界樹と呼ばれるあの塔は、全世界におけるエネルギー消費の約八割を賄っていると同時に、この地球上で稼働しているディアの全てとオンラインで繋がっていて、常に演算補助や情報共有を行っている。どちらかと言えば、今やこちらの方があの塔を世界樹と呼称すべき理由として大きいのかもしれない、と俺は思う。
「でもそれだけじゃなくて、特に俺がすごいと思うのは、三百年前に建てられたものだっていうのに、現代の技術と比べてまったく遜色がないところですね。機械としてのスペックはもちろん、接続方式や処理方式は時代ごとに更新されてきているのに、今のところその全てに対応してる。まるで建てた当時から、何百年も先の未来を想定していたみたいだ」
 俺が感想を述べると、女性は「へえ。そうなのね」と穏やかな相槌を打って見せた。柔らかな物腰だ。呼吸や雰囲気にとても親近感が持てる。もしかしたらこの人はディアではなく人間かもしれないと、俺はこのとき、ふと感じる。
「じゃあ、あなたはあの塔がすごいものだと思うから、こうしていつも見に来ているのね」
「すごいっていうか、まあ、そうですね。ああいう機械的なものが好きなんです。特にあの世界樹は現代の情報社会の象徴、世界のCPUみたいなものですし……てか、あれ? 俺がここへ通ってるの、よくわかりましたね?」
 指摘された通り、俺がここへ来るのは初めてではない。しかし、どうしてこの女性にそれがわかったのだろう。もしかして、実は初対面じゃないとか? いやそんなはずは……。
「ふふっ。だって、分かるわよ。迷わず自販機でコーヒーを買って、数あるテーブルの中から真っ直ぐ一つを選んで座る、なんてことをしていればね。しかも、買ったコーヒーは同じ種類の缶を二つ分。そんな一見さんは、なかなかいないわ」
 なるほど。俺は微笑む女性の言葉を聞いて納得すると同時に、自分がこのフロアに踏み入ったときから気づかれていたのだと知った。
「長居するつもりなんだなって、すぐにわかったわよ。それに、随分と私のことを気にしてくれていたみたいだしね?」
「それは、えっと……すいません。バレてたんですね。気を悪くされたのなら、謝ります」
「ふふっ。いいえ、思いの外に熱い視線で、私、ドキドキしちゃったわ。だからお礼にご馳走させてもらったんだもの」
 言って、女性がテーブルの上に視線を向ける。そこにはさきほど店員が運んできた立派なコーヒー。しかしながら、若干立ち昇る湯気が薄くなってしまっている。
「コーヒーが好きみたいだけど……どう? お気に召さなかったかしら?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……俺、こんな立派なコーヒー、飲んだことないんですよね。自販機でいつも缶コーヒーを買うのは、他に並んでるジュースがあんまり好きじゃないからで……でも、同じ値段でお茶や水を買うのも嫌ってだけなんです。そうすると、消去法でコーヒーしかなくて。それで、いつも」
「コーヒーオンリーなのね」
「そうです。だから特別コーヒー通ってわけでもなくて。作法とか……よくわかりません」
「あっはは。なんだ、そういうことだったの。でも、ドントウォーリーよ。特に難しい作法なんてないわ」
「そうなんですか? じ、じゃあ……お言葉に甘えて、好きに飲ませてもらいます」
 せっかく用意された砂糖やミルクを使った方がいいのかと思ったが、結局俺は、何も入れずにそのまま口を付けることにした。一口飲んで、とても美味しいと感じる。これは、缶コーヒーとはまったく別の飲み物だ。
「それで今日は、あなたはお一人? ここまで話を聞いていると、お連れ様がいてもよさそうなものだけど」
 尋ねられて、俺の手が止まる。“お連れ様”か。この場合「誰と一緒なのか」というよりは「ディアを連れていないのか」と質問されたとみるべきだろう。現在では目新しくもない世界樹を何度も見にくるほどの物好きが、まさかディアを連れていないわけがないと。
「ああ、えっと……そうですね。今日は、一人です」
 しかし、俺はディアを連れてきていない。正真正銘、お一人様だった。“今日は”というのも、実のところ嘘なのだ。俺はそもそも、普段からディアを連れていない。
 皆が口を揃えて便利だと言い、重宝するディア。もはや連れて歩いていない方が、不思議に思われてしまうくらいのディア。でも、俺はそんなディアが少しばかり苦手だった。
「学校帰りに寄り道しているだけだから、別に一人でも困らないんですよ。それに、ディアを連れてきて、俺だけ缶コーヒーを飲みながらここにいるのも、あれでしょう? なんか悪いし」
「悪いって……ディアに?」
「ええ、まあ、そうです」
「……ふうん。だからロンリーなのね」
 ただそれはそれとして、ちょくちょく変なコメントが返ってくると思ったら、オンリーウォーリーときて、お次はロンリーか。随分と節操のない韻の踏み方だ。
「……随分と苦しいですね。ダジャレにしてもさすがに」
 もはや語尾を伸ばしているだけに近い。こんな下らない、冗談にもならない冗談を、ディアは間違っても言ったりしないだろう。
「ふふっ。いいじゃないの、ちょっとくらい大目に見てよ」
 女性は少し身を乗り出し、テーブルに頬杖をついて薄く笑った。思いきり雑なギャグを言っているのに、そのくせ纏う高貴なオーラが一向に崩れないことには素直に驚く。穏やかで清楚な身のこなしと、夕陽に照らされて映える容姿の賜物だろう。
 最初はディアの可能性を考えていたものだが……握れば折れてしまいそうな細い指先、雪にも劣らぬ白い肌、木漏れ日のように光を跳ねる長い睫毛……これが人間の容姿だと思うと、いやはや、ちょっと感嘆を禁じ得ない。
「ところで、さっきの話だけど……」
 女性は浮かべた笑みを意味深な雰囲気のそれに変え、俺をじっと見つめて尋ねた。
「もし人間がコーヒーを飲んでて、一緒にいるディアが隣で待っているだけでも、誰も気にしないものなんじゃない? そのディアも含めてね。むしろ私からしたら、そっちの方が自然な光景に思えるわ」
「そう……ですか?」
「そうよ。だってディアは、基本的に飲食をする必要はないんだもの。稼働のためのエネルギーは世界樹から電波として受け取っているのよ。ごく稀に、レストランや家で人間と一緒に食事をしたり、お祭りやイベントでお酒を飲んだりすることはあるけれど、それはただ形式的なものであって、場の空気を壊さないようにするためだけの行為じゃない。こういう日常の中での話なら、あなただけがコーヒーを飲んでいても、悪気を感じる理由はどこにもないわ」
 確かに、一般的なディアに対しての認識は、まあそんなものかもしれない。ディアはあくまで人間のサポート役。それ以上でも以下でもない。裏を返せば、ディアはやはり人間ではないのだということだ。それ自体は揺るぎない事実であり、俺だって否定するつもりは、一切ない……でも。
「でも、今のディアは、限りなく人間に近い存在って言われているくらいじゃないですか。人間のように、体内に入れたものを糧にする機構も持っています。美味しい食べ物を食べたら喜ぶし、苦い飲み物を飲んだら顔をしかめる。稼働に必須ではなくても、食事ってそういう、味とか感想みたいなものも伴うわけだし」
「味や感想? ディアが?」
 俺が答えると、途端に女性は目を見張った。何だろう、俺の回答はそんなにおかしなものだったろうか。まるで虚を突かれたというような表情を見せる。
「え……ええ。ディアだって、何も感じていないってことはないでしょう、きっと。少なくとも、人間の感情に近しいパラメータみたいなものは、あるはずですし」
 俺の肯定に、女性はすぐには言葉を返さず、こちらを見据える両眼を少しだけ細めた。何かを考えているのだとわかる。静かに漂う時の中で、そんな女性の姿はこの上なくミステリアスだ。やがて女性は、形の良い唇の端を持ち上げてニヤリとする。
「……へえ、あなたってとってもファニーね」
 ……出来損ないのダジャレはもういいですよ、なんて突っ込むべきだったのかもしれないけれど、しかしながら今のは、冗談の類ではないようだった。
 俺が返答に迷っていると、その沈黙の間に、女性は椅子から立ち上がる。
「あれ、もう……お帰りですか?」
「ええ。そろそろ夕陽も、お帰りのようだからね。お話しできて楽しかったわ」
 そうか。いつの間にか、もうそんな頃合いか。窓の外を見やると太陽が半分ほど雲の中に隠れていて、赤い光が世界樹を横薙ぎに照らしている。
「いえ、そんな。あの、コーヒー、ありがとうございます。とても美味しいです」
「そう? 何よりだわ。私も、一度でいいからオーダーのときに『向こうのお客さんに』って言ってみたかったのよね。だから、私も、ありがとう」
 女性は満足そうに笑うと、艶やかに服裾を翻し、俺に背を向けながら言った。そうして歩き出そうとしたところで、あたかも今しがた思い出したかのように、首だけで振り返る。
「あ、それと、言い忘れていたんだけれど……私、こう見えても、ディアなのよね」
 女性のその言葉を、聞いたときだった。俺の思考は、明確に数秒、停止した。いきなり予想外のことを言われて、完全に処理落ちしてしまったのだ。
「ごめんなさいね。せっかく綺麗な人に出会えたのに、相手がディアで」
 ……あれ、この女性は人間のはずじゃ……いや、それは俺が勝手に得心していただけか。言われてみれば、結局最後まで確認はしなかった。でも、この女性がディア? そんな、まさか。
 うろたえる俺を前に、女性は悪戯な笑みとともに手を振って見せる。
「ふふっ。もし機会があれば、次は是非、紅茶をご一緒しましょうね」
 そうして俺の返答を待つことなくフロアの中央まで歩みを進め、しばらくしてやってきたエレベータに乗り込んで姿を消す。
 惚けていた俺が再び動き始める頃には、辺りはすっかり藍色に包まれていた。まるで女性が帰るのと一緒に、あの眩い夕陽までも連れ帰ってしまったかのようだった。
 もしかすると、俺は夢でも見ていたのではないだろうか。
 しかし目の前には、今も残った立派な佇まいのコーヒーがある。俺はそれを、これが現実であることを確かめるかのようにゆっくりと飲み干すと、どこかぼんやりとした感覚を抱えたまま、雲の下へと降りていった。
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