恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

13.

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 まるで家賃の取り立てに来た誰かがいるかのように、乱暴にドアや壁に何かがぶち当たる音がする。それが雨音だなんて生易しいものでないことは想像に難くなかった。風が出てきたのだろう。
 子供の頃、台風による影響で学校が休校になった時、似たような音を聞いたことがある。
 真っ昼間なのに部屋が真っ暗だったのは雨戸を閉じていたからで、そういった明確な理由があるものにさえ、普段とはまるで違う非日常に心が踊った。
 家の中にいれば、自分の意志で電気も付けられるし暖も取れた。確実に安全が保証されていたからこそ、外の惨状を知らぬままでいられたからこそ、その非日常はエンターテイメントになり得たのだと思う。
「心当たりがあるんだ」
 唐突に恭介が言った。お互い、下着こそ身につけているのものの、その他の服は天井にロープを吊るし、乾くのを待っている状態だ。ログハウスの床をぶち抜いて作った焚き火の上に吊るすなんて、危険なことはしない。格子窓の近くに仲良く並べられたそれらは、乾いた空気による乾燥でしか、水分を飛ばせないだろう。
 翌朝に望む通りの状態で仕上がっているかどうかは改めて考えても絶望的だったが、濡れたままのそれを身に纏ったまま眠りにつく危険性を考えれば脱いでしまう方が安全だった。
 もぞり、と体を動かしたのは、恭介に背を向けていたから。
 両想いだと知ったばかりの相手と、自分の提案でとはいえ、ひとつの毛布の中にいるなんて――箍を外せばいつでも触れるしなやかな背筋が目の前にあるだなんて、拷問以外の何物でもなかったからだ。
 つい先程圭吾の手によって無理矢理押し込めたばかりの獣は、その息遣いさえ感じられる程近くで、今か今かとその時を待っている。ほんの少しでも滑らかな肌を視界に入れないようにと躍起になっていたところだったので、恭介の言葉に一拍遅れる羽目になった。
「……心当たりって?」
「弟が死んだ場所」
 感情のない声だと思った。そう思ってからすぐに、そうではないのだと理解した。

 この人は、飲まれないようにしてるのだと思う。

 姉である彼女が抱いた憤りも、哀しみも、恭介や圭吾が我が物顔で振りかざして良いものではない。傷つけられたと声を荒げる権利は、傷つけられた本人にしかないのだと正しく理解していた。
 シンパシーも、共感も、感情移入も。核心をブレさせるだけのまやかしであり、どれ程寄り添おうと心を砕いたところで、一緒になって同じ重さの武器を持つことはできない。
 外野である恭介たちができることは、傍にいて見定めることだけだ。
 今までだって、これからだって、その域を出てはいけない。
「最初に、いざという時の避難場所として……血液で囲ったところ。今は水が乾いていたけど、多分あそこは池だったと思う。中央に伸びてる石の足場が残ってたけど、それが中心で途絶えてる」
「橋ではないってことですか?」
「渡すために造られたんじゃない。真ん中に拘束して、見せしめにするための台か、或いは」
 そこで一度口を閉ざしてから、恭介は少し思案しているようだった。
「池に突き落とすための足場……だったのかもしれませんね」
 その先を言わせまいとして、圭吾が受け取った。
 ふるり、と小さく震えて、恭介が両手で顔を覆う。
「……失格だ、俺」
「どうして」
「可哀想だって、思っちまう」
 暗闇と砂嵐を混ぜたようにざらついた声が、恭介の感情を殺しきれないまま静寂に落とされた。
「俺だって、そうだったのかもしれない。師匠が、しのが……他のみんなが、いてくれなきゃ、とっくに」
 最初に師匠と羅列されたことに幼い嫉妬を感じたけれど、焼け付く喉を堪えてすぐに飲み込む。今言うべき感情ではないと判断した。きっと、こうした自分本意なところが、次点に名前を挙げられる最もたる所以なのだと思う。

 頼るべき大人は、恭介の近くにずっと居続けていたのだから。
 それでも――それでも、だ。

「先輩」
 とっくに、の後に何を言おうとしていたのか、想像できない程馬鹿じゃない。顔を覆う指に手を伸ばすと、氷を触った直後のように冷たかった。
 両手の中に閉じ込めて、圭吾はその中に息を吹き掛ける。
「……っ」
 咄嗟に、逃げようとむずかるそれをきつく握り締めて、オッドアイの両目を覗き込んだ。
 きっと、圭吾がこんなふうに踏み込むようになる前の彼は、凍える直前のような指を一人で握り込み、これはずっと温かさに触れられないものだと諦めて、夜が過ぎ去るのを待つ日々をあてもなく過ごしていたのだろう。
 安っぽい同情のようなものを無意識に抱いた自分を恥じて、自身の運命をひとり、なぞるように未来を閉じて。
 嵐が暴れる夜も、雨上がりの空にそよぐ風の匂いも、湿った土を踏む感触も、雨宿りを終えたそれぞれの生き物が、こぞって動き出す世界も。壁一枚向こう側にあるものだからと、ただ羨ましそうに眺めただけで終わらせていたのかもしれない。

 だけどもう、圭吾は触ることができる。
 一人ぼっちで握り込んでいた、この指に。

「迎えに行きましょう、僕たちで」
「しの……」
 猫っ毛の黒髪を、緩く撫でながら提案する。そのまましっとりと水分を含む髪に指を滑らせて、まるで風呂上がりのようだななんて邪な妄想に思考が傾きかけたが、どうにか持ち堪えた。
「ここを出られなくて、烏丸さんたちも入って来られない領域である以上、僕たちだけで浄霊しなければならないということです。ですが、呪いの原因もはっきりとわからない今のままでは、対話での浄霊は正直難しいと思います。危険を伴うとは重々承知ですが、一度現場に戻って、可能な限り霊視をするか……弟さんに直接話を聞く他ないでしょうね」
「呪いの原因って……姉が、弟を理不尽に殺されたことを恨んでるって話じゃなかったのか?」
 さっきの電話でのやりとりを思い出し、恭介が意外そうに聞き返した。
「……本当に、一個人の呪いだけで、山全体を結界で覆う力となり得るでしょうか?」
「……」
「……お姉さんの怨念も、おそらく原因のひとつだと思います。ですが、元凶は多分それだけじゃない」
 頭を撫でるだけだった掌が、無意識に恭介の首筋へとスライドする。体の形を縁取るように、しつこく触ってしまうのだ――まるでその存在が、輪郭が、この手の中にあることを確かめるように。
「つらいかもしれませんが、弟さんに……昔何があって、今何が起きているのか。聞くのが得策だと思います」
「……つらいなんて言わねェよ、馬鹿」
「そうかな」
 綿菓子を抱きしめるように、優しく手を背中に回してから圭吾は言う。
「貴方は優しい人だから」
 体に直接触れる面が多くなったから、気づいてしまった。
 その華奢な肩が、僅かに震えていることに。
「……寒い?」
「少し……」
 こんなこと、提案するのはまずいだろうか。不意に擡げた欲求は、すぐに言葉にするにはやや躊躇いがあった。
「しの?」

「……体温を、あげることをしても良いですか?」

「え……」
 本当に、何もわかっていなそうな無垢な顔で、恭介が小さく首を傾ける。
「さっきみたいに、乱暴なことはしません。傷口が開くような激しいことは極力……しませんから、だから、キスだけ」
 無意識に指に力が籠り、柔らかく触るだけだったそれが突如、拘束の意味を含みそのまま腰に回された。
「ま、待て、しの。駄目だ」
「どうして?」
「キスだけって、お前は言うけど、俺」
 耳まで真っ赤になりながら、睫毛を震わせて恭介が言う。
「しのにキスされたら……頭ん中、ぐちゃぐちゃに溶けて……おかしくなる……」
 ぐらり。
 その瞬間、圭吾を真っ赤な欲望が飲み込んだ。
「ん……っ」
「いい加減にしてください……! あんたは、男がどういう生き物かまるでわかってない!」
「え……な、何」
 まるで貪るように唇を奪いながらも、どうにか残っている理性で圭吾が叫んだ。
「本当に、乱暴にはしたくないんです……! なのにどうしてそんな、煽るようなことを……!」
「煽るなんて、そん……ん、」
 腰に回した手で、羽交い締めするようにしっかり抱きかかえながら、再び口を塞ぐ。
 ぬるりと舌を入れ込み、上唇を愛撫するように舐めた。
「待っ、しの……っ、アァ……!」
 意図した訳ではなかったが、逸る圭吾の爪が乳首をかすめ、恭介は高い声で啼いた。その瞬間を逃さず、圭吾の舌が恭介の腔内にねじ込まれる。
「っ、もっと奥に……入れたい……口、開けて先輩」
「奥……奥はだめ……っ、あ、んう」
 少しの隙間も許さずに凌辱する圭吾の舌からどうにか逃げながら、恭介が上擦った声で懇願した。
「お腹が、うずうずして、へんになるから……だめ」
「っ、くそ……っ!」
「やっ……」
 完全に理性の焼き切れた圭吾が、押し倒すようにして恭介の口の中を犯した。
「ん、んん……んう」
「……ね、先輩……乳首……舐めても良いですか?」
 熱に浮かされてはいたが、とんでもないことを提案されて恭介は縮み上がった。
「……! だ、だめ、だ」
「絶対に噛んだりしませんから。舐めるだけ……」
 まるで捨てられた仔犬のように縋る目が、ただでさえ不安定だった恭介の理性をどろりと溶かす。もう頭の中は、目の前の男の言うことを聞いてやりたいという欲望に染められていた。
「……ほ、ほんとに」

 言ってはいけない。こんないやらしいこと。
 言ってはいけない、のに。

「ほんとに、舐めるだけ、か……?」
「……ちょっとだけ、吸っちゃうかもしれませんけど、多分……舐めるだけ……」
 圭吾の、火傷しそうなくらい熱い吐息が耳を掠める。
 きっと、それが決定打だった。
「……痛く、しないなら……良いけど」
 ごくり。
 唾を飲み込む音が、圭吾の鼓膜に大きく響いた。期待に震えた乳首が、淡いピンクに色づいている。殆ど獲物に齧り付く野生動物のように口をあけた瞬間、放り投げていた携帯の受信音が鳴った。

「……絶対どこかで見張ってる気がするな」
「しの、電話……」
「電話じゃないですよ」
 その短さでメールか何かだろうと判断し、恭介の肩に毛布を掛け直してから、忌々しい気持ちで全く空気を読まない小型の機械を拾う。メールだろうと判断したそれは正解で、送り主も言わずもがなの人物であった。
 参考にしろ、という一言だけの本文の下には、添付されたリンクがある。恭介の近くに戻って、一緒に画面を見ながら、人差し指でタップする。起動中を意味する丸の記号が暫くぐるぐる動いた後、開かれたのは山全体を把握できる地図だった。
「助かりましたね。ここから移動をしてしまったら、そこに電波があるとも限りませんし、念のため画像保存しておきましょう」
「……しの」
「はい?」

「さっきの、続きどうすんの……? 乳首……舐める?」

「~~~~!!」
 不意打ちにも程がある質問をされ、咄嗟に携帯を取り落とす。改めて人から聞くと、とんでもないセクハラ発言だった。
「しの?」
「いいです……少し冷静になりました。絶対舐めるだけじゃ終わらないし、万一傷が開くようなことがあってもいけませんし」
「もし」
 脇腹の少し下をなぞりながら恭介が、ぼそりと呟いた。
「傷が開くようなことがあったら、傷口……しのが焼いてくれよ」
 とんでもないことを言われている気がして、息を飲んだ。睫毛を伏せてうっとりと微笑みながら、追い打ちを掛けるようにして恭介が言う。

「……そうしたら、俺……すげー幸せだもん」

 この時圭吾が理性を失わず、予定の通り乳首をしゃぶり倒すこともせず、柔らかく微笑んで「あんまりそういうことをそんな顔で言ってはいけませんよ」と一言を返すだけに留めることができた件に関しては、一生褒め称えられるべき事案だと後々まで仲間内で語られる伝説となった。
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