恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンアームド・エンジェルの失言

5.

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「兄が死んでからおかしくなったんです」
 神経質な程綺麗に切り揃えられた黒い髪を耳に掛けながら、依頼主――水無月拓真は、疲れ切った顔を隠さずにそう切り出した。
 世間はGW折り返し地点を迎えて一層浮足立っているようだったが、生活費をやりくりするのに一定の収入を得る必要がある恭介には悲しいかな大型の十連休を謳歌するような余裕はない。それでも初夏と同時に梅雨を迎えたような不安定な気候だけはこの人里離れた神社にも平等に与えられ、昨日一日かけて降り注いだ雨も相まって、清々しさからは凡そ掛け離れた空気が本殿のみならず神社全体を包んでいた。
 北側の小窓と縁側に続く大窓二か所を開けっ放しにして風の逃げ道を作ったが、それでもむしむしと肌に纏わりつく湿気はどうしようもない。せめてその貴重な風をより潤滑に回せるようにと首振りの扇風機を引っ張り出していた矢先のことだったので、予定時間より早い依頼者の来訪と唐突な話し出しに恭介の反応は一瞬遅れた。
「お……お茶とか……」
「いいえ、お構いなく」
 いつもはこういう礼節を怠らない有能バイトがまめまめしく世話を焼いてくれるのだが、珍しく遅れますという連絡があったため、絶妙な濃さと季節に合わせた最適な温度で淹れられるお茶の準備は絶望的になった。後輩のいないたった数十分のことでお茶どころか水も出せないような接客の不行き届きが不安になり、そういえばあいついつからいつまでいないんだったかとちらりカレンダーを見遣る。そんな気もそぞろな恭介の横で、すっかり疲弊した声が本当にお構いなく、と付け足した。それは絶対にお茶なんか出してくれるなという意味ではなく、何よりもまず先に話を聞いてほしいというSOSだった。それだけ切羽詰まっていることは恭介にも伝わり、台所へと走ろうとしていた足をひとまず畳の上に戻す。
「双子の兄は……和真は良く出来た人間でした。守護霊の守護など、今まで実感したこともありませんでしたが、兄にだけはずっと守られているような感覚さえありました。私が間違ったことをすると叱り、諭し、許し、光ある場所へと導いてくれるような……本当に、完璧な人でした」
 出来過ぎた兄を語るその声にどこか違和感を覚えながらも、口をはさまず扇風機の首を固定することに集中する。五月の初めにしては湿気の多い空気は重たく、去年の七月頭にフル稼働させたこの小型の機械を一か月半も前倒しで出す羽目になるとは思ってもいなかった。網の穴にこびり付いたホコリを親指で払い、無造作に畳へと放る。遠くでゴロゴロと、雷の音が聞こえた。夕立が、近いのかもしれない。
「兄には、霊感があったんです」
 漸く角度を整えてスイッチに伸びかけた指が、一瞬止まる。が、その動揺を悟られないようすぐに手を動かして、カチリ。小さなフックに指を掛けて、OFFからONにスライドさせた。逸らし過ぎた頭が首振りにブレーキを掛けるタイミングを発見し、角度を微調整。ぎこちない動きがなくなり、プロペラは順調に居間の空気を掻き回し始めた。
「昔兄は、私には相応しい守護霊がついていると言っていました。私自身には実感はありませんでしたが、考えてみたら大きな事故も病気もなく、無難に生きていたことは確かでしたので……そうなんだと思う程度には、納得していました」
 聞くだに、充分な守護霊じゃないかと思う。誤解されやすいので未だに勘違いしている人間も多いが、守護霊は幸運の女神様などではない。守護している人物が道を誤らぬよう諭し、導き、努力して生きてゆくその日々が安寧に続くよう見守るのが役目であり、やれ宝くじが当たらなかった、やれコンクールに受からなかったなどというようなことで守られていないと文句を言うのは、まったくのお角違いだった。守護霊とは、理由もなく一方的にアドバンテージを与えてくれるチートな存在などではない。そこを理解していない人間であるなら、恭介は最初から守護霊交代の依頼など受けはしかなっただろう。
「兄が死んでから、おかしくなったんです……」
 もう一度、拓真が言った。空気を混ぜる小型家電製品に、飲み込まれてしまいそうなか細い声だった。
「私は、守られなく、なりました。お陰で、今まで守られていたことを実感できます……皮肉な話です」
「具体的に」
 何があったんだ、そう恭介が問い掛ける前に、拓真はゆるりと顔を持ち上げた。生きているのが不思議な程、ひどく青白い顔だった。くすみがかった影に浮き上がる目鼻立ちは、日本人にしてはくっきりと輪郭を象っている。問われたことへの答えを自分でも探しているような覚束ない表情で、ぼそりと答えた。それは、まるで人ごとのように頓着のない声だった。
「私は、殺されてしまうかもしれません」

 拓真の話をまとめるとこうだった。兄の和真が亡くなってから、死が身近なものに感じられるようになったという。それは概念的な話などではなく、物理的に、ただ単に「死」そのものが身近なものだと思えるほど危険な目に遭う回数が増えた、ということだった。要は、一日に何度も死にかけるのだ。青信号で渡ったはずの横断歩道に、ぶつかれば無事では済まないようなトラックが猛スピードで突っ込んで来たり、職場へ向かうために使用する慣れ親しんだ階段でさえ、原因の分からない力に引っ張られ、転倒しそうになったことも数知れずあるという。それは、横断歩道や階段など分かりやすい所ばかりの事故に留まらず、日常の一部のような頻繁さで拓真を襲ってきた。新しいはずのオフィスの窓が突然外れ、彼の頭目がけて落ちてきたり、朝起きて、珈琲を淹れようと用意したマグカップさえも、手を滑り落ちたら最後、割れた破片は迷うことなく心臓を狙ってくる。最早保護がない、などというレベルの話ではなかった。明らかに意図的な力が働いて、拓真を殺そうとする存在がそこにいることは明白だった。

〝守護霊交代なんて、聞いたことねェぞ〟
 寝る起きるというような行為とは無縁だろうにまるで寝起きのようなしゃがれた声を張らせながら、犬神は恭介の後をしおしおと付いてきた。聞いたことがないような仕事でも、マスターの命令は絶対だ。恭介が引き受けると決めた以上是非もないけれど、拭いきれない不満を零す程度の反抗的な気持ちはあった。
「確かに、大抵は話し合いとか注意とか……もっと穏便な方法で対処するのが基本だけどな。強引に剥がすなんて、俺だってあんまりやりたくねェし」
〝そうじゃねェだろ〟
 一般論の話をするつもりはなく、犬神は恭介の言葉尻を拾い上げた。問い質したかったのはよりメジャーな方法を選択したのかどうかではなく、当社比でいえば間違いなく前例ゼロの案件を、どうして眉ひとつ動かさずに引き受けたのかということだった。
「まあ、それに関しては不安がない訳じゃないけど」
 白生地の正服に腕を通しながら、流れ作業のように恭介は曖昧な返答を寄越した。知識をどれだけ詰め込んでみても、経験値には遠く及ばない。自分に何かある程度のことであれば自業自得と諦めもつくが、依頼人を巻き込んでの大きな事故などあっては目もあてられない。普段は慎重に慎重を重ねて行動する恭介だったが、今回ばかりは急ぐ理由が彼にはあった。
「このまま放っておけば、依頼人の命が確実に危うい。明日何かあってもおかしくないような状況なんだよ」
「先輩。遅くなりました」
〝圭吾!〟
 ナチュラルに着崩した薄手の半袖シャツに、オフホワイトのスラックス。長い足を大股に開きながら、珍しく遅刻した有能バイトが到着した。袖の端にデザインされたロイヤルブルーのラインは、彼が受験生だと明記している学年カラーだ。学業とは関わりのない日ではあったが正装代わりに袖を通すことの多いその制服は、学生には必要不可欠な身分証明書のようなものだった。柔らかな癖のある栗色の前髪をハーフアップのように掻き上げながら、襟元を引っ張り熱を逃がしている。漂う色香は中学三年生とは思えないそれだったが、この非常時にそんなことで、ここまでかき乱されているのは恭介くらいのものだろう。いたたまれなさで両手で顔を覆いかけたが、代わりに拳を作って咳払いをひとつ。こう見えても恭介は圭吾の雇用主なので、遅刻を咎める責任はあった。
「ところで先輩。僕が居なくてもちゃんと、お茶くらい出しましたよね?」
 先におもてなしについてちくりと咎められ、思わず反射で後ろに下がる。出したか否かを問い掛けている筈なのに聞きながらもう答えを確信しているのか、じりじりと近づく怒りのオーラは少しずつ成長していた。
「いや、だって……お茶っ葉どこにあるか分かんなかったし」
「あんたにお茶から淹れさせるなんて危険なことさせる訳ないでしょう? だいたい今日の最高気温何度だと思ってんですか。この時期にもてなすお茶なんて、冷やしてあるに決まってるでしょう! まさかとは思いますが、冷蔵庫も見なかったんですか? 麦茶、冷やしてありましたよね?」
「と、戸棚は見た……」
「今僕は冷蔵庫じゃなく戸棚を見て満足げにしていることを怒っているんですけど」
「いたたた、やめろそのあたりに丁度口内炎があるんだ突くな口内で血が出るレベルまで突くな」
 黙っていても十分迫力のある美形を怒らせると、まるでホラー映画を観ているような非日常的な恐怖があるなとぼんやり思う。口の中にどろりとした感触を噛みしめながら、恭介は短い舌を出した。
「うえ……血が出てきた」
〝おいお前ら、もう依頼人来てるんだしそろそろ準備しろよぉ〟
 情けないような声に促され、圭吾は小さく息をつく。小脇に抱えていた書類を無造作にテーブルの上に投げて、準備が出来たら呼んでくださいと言い捨てて出て行った。弾みで出た中身の書類を見るともなしに見ながら、真正面から食らうには重すぎた空気をどうにか払えたことにとりあえずの安堵。仕草にときめいたり、命の危険を感じたり。圭吾といると、心臓がいくつあっても足りない。
〝ほら、準備なんか殆ど終わってるだろ。恭介も早く行くぞ〟
 優しい声に促され、渋々といったポーズで頷く。いつまでも十の子供だと思われていそうな庇護欲さえ伺える眼差しに居心地が悪くなり、数珠を通した腕で軽く頭を叩くつもりが、するりと逃げられ臍を噛む。お茶を出せなかったことに怒られはしたものの、ともすれば一人で対応しようとしていた大きな仕事に、犬神が斡旋した圭吾の参加を諾々と了承したことを暗に褒められているのかもしれない。自分だって己の判断ミスでひどい痛手を受けた蛇霊の一件から、何も学んでいない訳じゃない。万全の態勢で臨まなければならない仕事だという自覚はあった。
〝無事に、守護霊交代できるといいな〟
「……本当に、守護霊の力が単に及ばなくなってるだけならまだいいさ。交代さえ成功すりゃあ、問題ないんだからな」
〝それだけじゃないって言いたいのか?〟
「厭な予感はしてる」
 強過ぎる防虫剤の臭いに顔を顰めながら、恭介は箪笥の扉を閉めた。クローゼットなどというお洒落なものはない、古びた日本家屋。この家で服を管理できるような場所は、壁の中ではなく家具の中でしかない。掌で軽く斎服の皺をならしながら、くるりと犬神を振りかえった。
「まぁでも、俺だって闇雲に勉強しただけじゃねーよ。念のため、師匠にも色々やり方聞いてきたし。問題さえ起きなきゃ、交代の作業自体はとりあえずどうにかなると思う」
〝師匠?〟
 切れ長の目を瞠らせながら、犬神が単語を繰り返した。
「何だよ、まさか忘れた訳じゃないだろうな」
 信じられない薄情者を見るかのような目つきで、恭介はため息交じりに言い捨てた。
「俺にお祓いの仕方を教えてくれた、烏丸師匠だよ」
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