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第3話

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父親が亡くなってからは父方の親せきとは縁遠くなっていたが、菜摘は大吾にだけはこまめに連絡を取っていたようだ。
大吾は名門帝都大学法学部に進学し、在学中の司法試験合格を目指し勉強に励んでいた。
学生寮に入っていたため、夏休みと正月くらいしか実家へは戻らなかったが、帰省したタイミングで3人で集まるようになった。
菜摘にとって大吾は家族のようなものだろうと健人は思っていた。しかし、菜摘の大吾を見つめるまなざしが自分にむけるそれとは明らかに違っていることに気が付いてしまった。
不思議と嫉妬はなかった。
大吾ならば仕方がないと思えた。身長だけはかろうじて追い越したものの、成長した今でも大吾は健人にとって憧れであり目標だった。


高校3年の夏休み。
大吾が寮へ戻る前日、どうしても夏季限定デザートが食べたいという菜摘の希望によりファミレスで外食することになった。
いつも通り健人はデミグラスハンバーグ300グラムとフライドポテトと唐揚げを注文する、そして菜摘にお子様舌だとからかわれる、そんな平凡な一日になるはずだった。
待ち合わせの公園には健人と大吾が先についていた。
夏の陽は長く、夕方になっても空はまだ明るい。
電車に乗ってくる菜摘は10分遅れで到着した。
見たことのない黄緑色のワンピース。おそらく大吾と会うために新しく買ったのだろう。

「ごめん、おまたせ」
「よし、じゃあ行くか、腹が減ったよ」

並んで歩きだしたそのとき、空の一部分が突然暗くなった。
雲がねじれるように暗部に吸い込まれてゆくと、ぽっかりと真っ黒な穴が空いた。そこから巨大な黄色い目玉がじぃっとこちらを見下ろしていた。

視線が合ったような気がした。驚きと恐怖で体が動かない。
すぅっと目玉が消えたかと思うと、一本の白い羽の矢がまっすぐこちらに飛んできて、菜摘の左胸を射抜いた。
細い身体が大きくのけぞる。
倒れる、思った瞬間、菜摘はふわりと浮き上がり、暗黒の穴に引き寄せられていった。

「菜摘!」

先に反応したのは大吾だった。
俊敏な動きで菜摘に向かって駆けだすと、飛び上がり天に向かって大きく手を伸ばす。
だが、その手は虚しくも白いミュールの踵に触れただけだった。
左足から脱げたミュールが地面に落ちる。
菜摘は穴に飲み込まれるかのように、徐々に姿が見えなくなっていった。

「待て、待ってくれ!!!!菜摘行くな、菜摘、菜摘!!!」

健人は立ち尽くしたまま、ただ大吾の叫び声を聞いていた。
やがて空は何事もなかったようにいつもの夕焼け空に戻った。


公園は立ち入り禁止を示す黄色いテープが張り巡らされ、パトカーの赤色灯が点滅していた。
野次馬がどんどん集まってきている。
健人と大吾はベンチに座らされていた。
何も聞こえず、何も感じず、何も考えられず、自分が現実の世界から切り離されているような気がしていた。
菜摘の母親が半狂乱で泣き叫んでいる。

警察に通報したのは犬の散歩をしていた年配の夫婦らしい。
大吾は駆け付けた警察官に事情を説明したがまったく信じてもらえなかった。ただ老夫婦も同じ証言をしたため、少なくとも悪戯ではないと判断されたようだ。

ひとりのスーツ姿の刑事が健人と大吾のそばに歩み寄った。
穏やかだが力強い声で語り掛ける。

「私は君たちを信じる。何かあったら連絡してほしい。君たちの力になりたい」

刑事から渡された名刺には『 警視庁 捜査第一課 瀬尾雄一郎 』とあった。
名刺を握りしめながら、健人は何もできなかった己の無力さにただ泣くしかできなかった。


新学期が始まっても健人はショックから立ち直れず、自宅から出られない日々が続いた。
一度は気力を振り絞って登校したものの、菜摘の失踪は学校でも噂になっており、同級生たちから向けられる好奇の視線に耐えられずにふたたび引きこもるようになってしまった。

不登校になってから1か月後、突然大吾が訪ねてきた。
自室のベッドにぼんやりと座っている健人の肩を強く掴んで言った。

「決めた。俺は警察官になる。かならず菜摘を取り返す」

普段の冷静な大吾からは想像つかないほどの熱のこもった言葉だった。
法曹界への道を捨て、警視庁警察官Ⅰ類試験を受けると言う。
そうだ、ここでぐずぐずやっていても菜摘は帰ってこない。
健人は再び高校に通いだした。卒業後は大吾の後を追い警察学校へ入学した。
3年間の地域課勤務を経て、今年、瀬尾率いる第七係に異動となった。


第七係のメンバーはみな白羽の矢の被害者だ。
課長の瀬尾は18年前に妻を、薫子は7年前に姉を連れ去られている。
そして和久井は自身がさらわれている。
まだ交番勤務だったころパトロール中に行方不明になった。現役警察官の失踪ということで警察に恨みを持つ者の犯行か、それとも汚職を隠すために逃げたのではないか、さまざまな憶測が流れた。
和久井は1か月後に50キロ離れた町の水田で発見された。
米農家が農作業中に“ぼちゃん”と大きなものが落ちる水音を聞き、振り向くと制服の警官が横たわっていたという。
保護された和久井の胸には直径1センチの傷跡ができていた。
レントゲン検査で胸の中に小さな金属片があることが分かった。外科手術で取りだされたそれは和弓の矢につけられる矢尻だった。
和久井に失踪していた間の記憶はなかった。逆行催眠までおこなったが、はっきりしているのは矢に射られるところまでで、黒い着物の幼い少女、池、竹林などのいくつかの断片的な記憶が掘り起こされたが、事件解決の手掛かりになりそうなものは何もなかった。

白羽の矢に射られても生還した者は和久井以外に何名かいる。
ある人は再びさらわれることを恐れ名前を変えて各地を転々とし、ある人はマスコミ取材から逃げるために海外へ移住し、ある人は白羽伝説の支持者たちに崇め奉られ新興宗教の教祖となっていた。

ただ、誰一人として、なぜ自分が生還できたのか説明できなかった。

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