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66.アーサーは本能に忠実なお馬鹿さん?

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「あらあら、予想以上だったわねえ」

「お義母様は気付いておられたんですか!?」

「ええ、ここまで凄いとは思っていなかったけれど⋯⋯まあそれでも初等科に近いくらいの知識くらいあればなんとかなるのではないかと思っていたわ」

 初等科は12歳から15歳。シャーロットが通っていた学園は中等科で16歳から18歳まで。

「シャーロットは掌にキスされただけで掌底打ちというのをしたそうですし、ジェロームに話したほうが良いと思うんですが」

「面白そうだからわたくしとしては放っておきたいところだけど、離婚届の件もあるし少しばかり手を出したほうが良さそうね」

 エカテリーナがとても残念そうな顔で肩をすくめた。

「離婚届の事、ご存知だったんですか?」

「離婚届がシャーロットの手元にあること? ええ、知っていますとも。シャーロットの手元にアレを残しておくなんてジェロームは危険予測の能力が低すぎるって落胆していたの。
ジェロームの為ではなくわたくしの為に、少しばかりジェロームを手助けしましょう。
このままでは我が家の大切な針鼠が逃げ出してしまうわ」



 エカテリーナはサラサラと短い手紙を書き上げて執事のジェファーソンを呼んだ。

「これを大至急届けて欲しいの。直接ご本人に手渡してその場でお返事をいただいてきてね」

「畏まりました、一時間ほどで戻ります。既に警備は強化済みでございます」

 宛名も確かめず優雅な礼をしてジェファーソンが部屋を出て行くとマリアンヌが大きく息を吐いた。

「ジェファーソンは何もかも分かっていたみたいですね。いつも思うのですが高位貴族の執事って有能過ぎですわ」

「ジェファーソンが特別怖いだけよ。呼ばれる前から出かける準備が済んでいたでしょう? 有能すぎて敵に回したら大変なことになるわね」

 楽しそうな顔で微笑んだエカテリーナは、サラッと恐ろしいことを口にした。

「元々ジェファーソンはモルガリウスの諜報部を担当していたの。そろそろ後任に跡を譲りたいと言って執事になった人だから、この国のどんな情報でも手に入れられるんじゃないかしら。恐らく王家の影よりは情報通ね。
でも最近、上には上がいるみたいだって話してるの」

 そのせいでジェファーソンが妙に張り切ってイキイキしているらしい。



 社交界を裏から牛耳っているエカテリーナは何があっても決して人前で満面の笑みなど見せない。目線で人を黙らせて口角を少し上げるだけで人を従えるのがエカテリーナの定番だが、家人の前だけはごく普通に笑ったり顰めっ面をしたりする。

 武人のアーサーを骨抜きにするほどの美貌をもつエカテリーナの笑顔は『綺麗だけど怖い』⋯⋯マリアンヌは余計なひと言を飲み込んだ。

「ジェファーソンはどこへ行ったのですか?」

「王妃殿下のとこよ」

 エカテリーナは当たり前のように言うがマリアンヌは目が点になった。

「宛名も確認せず一時間で戻ると言ったということは知っていたと言うことですよね⋯⋯ 正規のルート以外じゃないと一時間では戻れないはずですし。もしかして王妃殿下のスケジュールも?」

「その通りよ、因みに警備の強化は針鼠対策ね。シャーロットは頭が良すぎるからどんな方法を使って逃げ出すかわからないでしょう? 臆病な泣き虫のくせに、やると決めたらやり切る心の強さもあるし⋯⋯」

「臆病と心の強さは同感ですが、泣き虫ですか?」

「ええ、臆病すぎて泣けてないけど。人前だけじゃなく自分自身に対してもだからタチが悪いわ」

 マリアンヌが首を傾げていると珍しくエカテリーナが説明してくれた。

「嬉しいとか悲しいとかがあったら泣くのは普通でしょう? 誰かの胸に飛び込んだり感極まってその場で泣いたりするものだわ」

 エカテリーナが笑いを込めてチラリとマリアンヌを見た。

「泣き虫マリアンヌはしょっちゅうアンドリューに飛びついて泣いているものねえ」


 エカテリーナは素直で大胆なマリアンヌを気に入っていた。両親が共働きをしてようやく家計を支えられていた『平民オブ平民』のマリアンヌだが、上昇志向があって侯爵家令息を狙ったわけではないし高価な宝石や豪奢なドレスが広げられても今だに目に欲を浮かべる事もない。

 好きになった人が偶々高位貴族令息で、一緒にいる為に貴族のルールに従う⋯⋯必要だから着飾るし、平民には理解できない愚かしい貴族の因習も受け入れる⋯⋯単純すぎる思考回路で貴族社会に旋風を巻き起こしていることに本人は全く気付いていない。

(平民の思考と貴族の思考の両方を取り入れたまま壊れる事もなく不満を持つ事もない。しかも婚姻前と少しも変わらない無邪気さと無茶振り⋯⋯アンドリューの女性を見る目には感服だわ)


「で、臆病者は人前では泣く勇気が持てなくて部屋に篭って一人で泣くのが定番だけど、もっと臆病になると一人になっても泣けないのよ。
自分が何らかの感情を持った事を認める勇気がないの」

「そんな事をしていたら心が壊れちゃいます」

「その辺りは能天気で猪突猛進タイプのジェロームに期待してるのよね。アンドリューは本能に忠実な脳筋だけど、ジェロームは天然のお馬鹿さんだから」

 アーサーをきっちり二つに分けたみたいだわと呟いた。

「それにしてもマリアンヌのお勉強が少し進んだようで嬉しいわ。マリアンヌは将来わたくしの後を継ぐのだから頑張ってもらわなくてはね」

「む、無理です!!」


「あらあら、あっさり断られちゃったわ」

「シャーロットなら出来るかもですが、わたくしには素質も素養もないと自信を持って断言できます」

「ふふっ、マリアンヌもシャーロットも育てばタイプの違う面白いキャラになりそうで楽しみだったんだけど⋯⋯鍛え方を変えてみようかしら」

 マリアンヌを地獄に叩き落とす言葉を発したエカテリーナは図書室へ向かった。




「ジェローム様、奥様からこれをお渡しするようにと申しつかって参りました」

 ジェローム付きの従者が持ってきた物をチラッと見ると昔読んだ事がある絵本が三冊くらい。

「ありがとう、そこに置いておいてくれ」

 その絵本は包括的性教育を学ぶ時一番初めに読むような内容のもの。

(これを読んだのって⋯⋯五歳とかそのくらいじゃなかったか? 母上の嫌味⋯⋯そんな無駄なことはしないか。ならどう言う意味でこんな絵本を持ち出してきたんだろう。
このタイミングでこの絵本⋯⋯)

 何を仰りたいのかさっぱり分からんと思いつつソファに座って端が少し痛んだ表紙を眺めた。流麗な文字で書かれた表紙の隅に薄くなった文字が見える。

(俺の名前か⋯⋯表紙の文字が綺麗で、それを真似したくて書いてものすごく怒られたんだった)

 ジェロームは懐かしい記憶を思い出しながら一冊目の表紙をめくった。




 タイトルは⋯⋯【おとなってなあに?】

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