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59.もう終わったことなのに

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「と言うことで、今日から俺はこの部屋に寝泊まりさせて欲しいんだ」

 シャーロットがここ最近ギリギリまで追い詰められているのは誰もが気付いている。強引なのは分かっているが、一人にするのは危険だし一人にしたくない。

 何かしたいわけではなく、恐怖心で心が固まっているシャーロットを誰か⋯⋯自分がそばにいて支えたい。

「は?」

 ジェロームは当然のように、もう少ししたら予備のベッドが届くと言う。

「じ、冗談でしょう? ご自分の部屋があるのに何でここにベッドを持ち込まなくちゃいけないのよ!?」

「シャーロットのベッドの端を使わせてくれるなら別だけど、この時期にソファで寝ると風邪をひきそうだからかな?」

「信じらんない! だったら私が部屋から出てく!!」

 勢いよく立ち上がったシャーロットの目の前に立ち塞がったジェロームが手を伸ばした。

「待って、シャーロット。説明さ⋯⋯」

 人型の黒い影がのしかかり力強い手が真っ直ぐに喉元に伸びてくる。汚れ切った女の体臭が纏わりつき⋯⋯息が。真っ暗な部屋のはずなのに血走って吊り上がった目が見えた。大きく開けた口から呪詛の言葉が漏れてくる⋯⋯。

『アンタもずーっと一緒だよ。逃がさないから』

「シャーロット⋯⋯シャーロット!」


 ソファに倒れ込み目を瞑って震えるシャーロットは身体を抱え込んでガタガタと震えはじめた。

(嫌だ! 死にたくない⋯⋯誰か、誰か助けて⋯⋯⋯⋯ジェロー⋯⋯)



「シャーロット⋯⋯シャーロット!」

 バクバクと鳴る心臓の音と耳鳴りの向こうから焦ったジェロームの声が遠く小さく聞こえてきた気がする。

「シャーロット、すまん! 大丈夫か!?」

 冷え切った身体に感じるのは手触りのいいビロードの感触の柔らかく心地いいソファ、広々とした部屋はたくさんのランプで昼間のように明るく照らされている。大きな窓には生成りに小花模様のカーテンが掛かっていていつでも逃げ出せる。
 鼻についていた埃っぽく据えた臭いが消えて蜜蝋の甘い香りと花の香りがして、薪の爆ぜるパチパチという音も聞こえてきた。

(ここは⋯⋯ここは侯爵邸⋯⋯も、もう)


 背の高いジェロームがのしかかるようにシャーロットを見下ろした時、目の前が突然暗くなったように感じた。影になったジェロームの顔が別人の⋯⋯血走った目で笑う別の人の顔に変わった。

(ただの幻よ、あの女はもういないんだから)


「シャーロット、怖い思いをさせてすまなかった」

 大きく息を吸って背筋を伸ばしアルカイックスマイルを浮かべたシャーロットは優雅な仕草で立ち上がった。身体は震え顔は青褪めているが⋯⋯。

「こちらこそ、驚かせてしまって申し訳ありません。出来れば少し休みたいので一人にしていただけますかしら?」

 知らない人が見たらなんの異常も感じないかもしれない。それくらい自然な仕草でシャーロットの口からは普段と変わらない毅然として感情の見えない声が聞こえてくる。

(シャーロットのコレは領地や王都の屋敷で何度も見た事がある。少し顎を上げて肩を怒らせるのは拒絶か防御の⋯⋯)



 ジェロームから離れるように後ろに下がり堂々と胸を張って窓を見つめている様子は強気で傲慢に見えるが、全身で部屋のあちこちの気配を窺っているようなピリピリとした緊張感には虚勢と怯えが見え隠れしていた。

「今日は色々あって少し神経質になっていたようですわ。他にもお話がおありでしたら明日にしていただけますかしら」

 揃えた両手を握りしめて震えを抑え心を閉ざしたシャーロットの前にはしっかりとした壁が出来ているかのようでジェロームは前に進む事も声をかけることもできなくなった。

(今にも壊れそうだ。小さな台座の上に立つひび割れたガラス細工みたいな⋯⋯どうすればいいんだ? シャーロットの望み通り一人にするべきか? でも、こんな状態のシャーロットを一人になんて⋯⋯そばにいてやりたかったのに、またやり方を間違えた!)

「出来ればそばにいたいと思ってるんだけど?」

「それではわたくしが別の場所に参りますわ。と同室では落ち着きませんの」

「⋯⋯分かった。今晩は冷えそうだから暖かくした方がいい」

「ご心配いただき感謝いたしますわ。ご当主様も」

 ゆっくりとした動きで部屋を出るジェロームはなるべく音を立てないようにドアを閉めた。






 シャーロットの部屋の前でうつらうつらと舟を漕いでいたジェロームは朝の支度を手伝うためにやってきたメイドの気配で立ち上がった。
 昨夜のシャーロットの様子が気掛かりで自分の部屋に戻る気になれず、彼女の部屋の前で夜を明かしたジェロームは眠気の取れない顔をゴシゴシと擦った。

(物音はしなかったはず⋯⋯少しでも眠れたなら良いんだが)

 カチカチに固まった身体を伸ばしていると不安そうな顔のメイドが部屋の中から顔を覗かせた。

「ジェローム様、シャーロット様がお部屋におられないんですがどちらに行かれたかご存じありませんか?」

「は? 嘘だろ!? 俺が一晩中ドアの前にいたのに」

 慌てて部屋に飛び込んだがメイドが言う通りシャーロットの気配はなく、暖炉の火は消えて灰もランプも冷たくなりベッドが使われた様子もない。

(どういう事だ?)

「出来れば騒ぎにはしたくない。それとなくシャーロットの行きそうなところを探してくれないか?」

「はい! 屋敷の中を見てまわりますね」

「俺は⋯⋯温室を見に行って来る」



 温室の中は普段と変わらず花と土の香りがしていた。仕事が休みの日に何度かここで二人でピクニックをした事を思い出しながら奥へ進んでみたが予想通りシャーロットはいない。

(敷地の外に出るのは無理⋯⋯だとするとどこに行く?)

 高い塀の上には忍び返しが設置され正門には昼夜を問わず門番が常駐しているモルガリウス侯爵邸。商人が搬入口として使う裏口は鉄で出来ており厳重に施錠されている。

(定期的に巡回しているから塀に這い出す穴があるはずもないし、父上が馬場がないと困るとか言って王都でも少し外れた場所に⋯⋯馬場?)

 温室を飛び出して厩舎に向かって駆け出した。朝露に濡れた芝のせいで足元が濡れるのも気にせず、汗まみれになりながら厩舎の扉を開けるとまだ起きたばかりの馬達の不満そうないななきが聞こえた。

「朝っぱらからうるさくしてすまん」

 せっかく来たなら餌をよこせと強請る馬達を放置して厩舎の一番奥まで行くと、普段は3本足で立って眠るソックスが腹ばいになっていて『ブフン』と文句を言いながらジェロームを睨みつけた。

「おはよう、やっぱり俺のお姫様はここにいるみたいだな。ソックスが毛布になってくれたんなら風邪も引いてないかもだけど、部屋のベッドの方がいいと思わないか?」

 ジェロームがソックスに話しかけながら近づくとフンスと鼻を鳴らして威嚇してくる。

「ソックス、腹を立ててもシャーロットは返してもらうぞ」

 歯を剥き出しにして抗議するソックスはまるで我が子を天敵から守る母親のよう。

「ソックスは雄だから父親か⋯⋯ならお前は俺のライバルって事か? ソックスが立ち上がらないのはシャーロットの布団がわりだからなのか俺から隠そうとしているのか、どっちにしろシャーロットの顔を見るまで諦めないからな」

 じわりじわりと近づくジェロームを鼻面で押し退けようとするソックスの攻防に気付いたシャーロットが目を覚ました。

「ソックス? もしかしてお腹が空いたの?」

 ソックスが『ブフン』と不満げな声を上げるとシャーロットのくすくす笑う声が聞こえてきた。

「おはよう、シャーロット。因みに俺もお腹が空いたんだけどなあ」

「⋯⋯」

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