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0.ノアの疑問

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 暮れ行く農園の景色を見ながらライラが口ずさんでいるのはバッハのコーヒー・カンタータ。

 コーヒーを飲むと子供が産めなくなる・肌が黒くなるなどと言われ、堂々とコーヒーを楽しむことが出来ない事に怒りを覚えた者達は各地で激しいコーヒー騒動を起こした。
 主婦達を中心に起きたこの騒動を風刺喜劇にした『コーヒー・カンタータ』はライラのお気に入りのひとつで、コーヒーを許してくれる男でないと結婚しないと宣言するところが気に入っているらしい。



 ライラとノアが砂糖プランテーションの次に手をつけたコーヒープランテーション経営。さび病や日光に強い品種を模索した高品質のコーヒーは各国へ輸出されるようになった。

 コーヒーの木は種を蒔き2~3年で漸く白い花が咲くようになり、その後に出来る小さな緑の実が6~7カ月かけてコーヒーチェリーと呼ばれる赤い実になる。

 収穫後は短時間で腐敗するコーヒーチェリーから外果皮や果肉などを取り除いた白い種子がコーヒーとなるが、収穫後から出荷まで多くの人手が必要になる。


 収穫時期以外は別の作物や酪農を行い労働者が一年を通して安定した収入を得られるシステムと、機械の導入で手作業を減らした事でライラ達の農園は瞬く間に大きくなっていった。



 夕陽を背景に一台の馬車が坂を登ってきた。小さな窓から身を乗り出して手を振っているのは次男のジュリアンだろう。

 ライラが迎えに出ると馬車の扉が開くと同時に飛び出してきたジュリアンがライラに飛びついた。

「かあさま、ただいまかえりまちた!」

 抱き上げる事ができないライラはしゃがんでジュリアンを抱きしめ頬にキスの雨を降らした。

「おかえり、店の様子はどうだった?」

「すご~くたのちかったぁ。かあさまがいなくてちょっぴりさみちかったけどね」


「少しじゃないだろ? 泣きっぱなしだったくせに」

「あにさま、それはないしょって!」

 ノアと並んで歩いてきた長男のロベルトはまだ7歳だが4歳のジュリアンの前では格好をつけたいらしく、最近はライラに飛びついてくることはなくなった。

「ロベルトもおかえりなさい」

 立ち上がったライラが少し離れた場所で立ち止まったロベルトの手を引いて抱きしめると耳を真っ赤にしながら母親の胸に顔を押し付けてきた。

「ただいま帰りました」



「ライラ、少し風が出てきたから部屋に入ろう」

 ノアがライラの肩に手を回し頬にキスをしながら呟くと、足元でジュリアンがぴょんぴょん飛び跳ねながら『とうさま、ずるい! ぼくも~』とやきもちを焼いた。

 三人目を妊娠中のライラは絶賛甘えん坊中のジュリアンと手を繋ぎ反対の手をロベルトに差し出した。



「母上の予想通りだけど⋯⋯女性も入れるコーヒーハウスは好評だったよ」

「良かった、少し心配していたの」

 ノアは子供二人を連れて新しくオープンしたコーヒーハウスの視察に行っていた。女性も入れるコーヒーハウスでは時間によって軽食やケーキも楽しむ事ができる上に、一日に数回生演奏も聴けるとあってオープンから行列ができたと言う。

「特に『コーヒー・カンタータ』が流れると女性達が大喜びしてた」

「ロベルトはしっかり見てきてくれたのね」

「ケーキに夢中だったジュリアンと違ってロベルトは周りの反応に目を光らせてライラに報告できるネタを一生懸命探していたからなぁ」

 ライラの褒め言葉に嬉しそうに頬を赤らめていたロベルトはノアの暴露で首まで赤くなってしまった。

「ち、父上!」




 山と積まれたお土産を一つずつ説明しようとするジュリアンだったが四歳児の記憶はあやふやで⋯⋯。

「あにさま、これはなんだっけ?」

「あにさま、これはなにするもの?」



 久しぶりの家族の団欒で興奮しすぎたジュリアンは夕食の途中から舟を漕ぎはじめ、ロベルトに手を引かれて部屋に強制送還されて行った。







 久しぶりのノアと二人きりの時間。コンサバトリーでワインを飲むノアの横に並んで座るライラの手にあるのは『たんぽぽコーヒー』

 ライラ達のコーヒーハウスでも販売しているが、コーヒー好きだけれど妊娠中で飲めない人や付き合いでやって来た人達に意外に好評だという。特にカルダモンパウダーとシナモンパウダーを入れたものがよく売れている。

「奴隷制反対の次は女性解放運動に手を出すのかって言われてるらしいぞ?」

「ふふっ、それも良いかもね」





「⋯⋯ライラの夢は叶ったのかな?」

「え?」

「一度聞いてみたかったんだ。ライラはハーヴィー様と追いかけていた夢の為にずっと走り続けてきたんだろ?」

 ワイングラスを覗き込んだままのノアが小さな声で聞いてきた。

「それでも構わないと思ってきたし、これからもそれでいいと思ってる。ライラの側にいられて子供まで⋯⋯俺には十分すぎる幸せだって。
でも、たまに思う時があるんだ。ハーヴィー様が生きておられたらどうなったのかなって」


「そう言えば一度もきちんと話した事なかったわね。亡くなった人のプライベートを口にするのは⋯⋯って言い訳しながらノアに甘えて、なし崩しで誤魔化してた」

 ライラはカップをテーブルに置いた後少し身じろぎして話しはじめた。



「共依存って知ってる?」

「ああ、特定の相手との関係に依存しすぎる状態のことだよね」

「ええ、ハーヴィーとジェラルドの関係はそんな感じだったと思うの。二人は同じように抑圧された環境の中で育って、お互いしかないって思ってた。壊れそうになる心を唯一支えあえる特別な存在だったの。
ハーヴィーのジェラルドに対する愛情は恋愛感情に似て見えるけどそれとは違ってた」

「俺はてっきり⋯⋯その」

「私もそうかなって思ってた時期があったんだけど、色々話してるうちに気付いたの。ハーヴィーは幸せになるのが怖いんだって。ジェラルドと二人で耐えていた時から逃げ出せなくなってた。
そこに罪悪感⋯⋯私の存在が拍車をかけたの」

 恋愛関係・友人関係・親子関係など人間関係全般に現れる共依存は、相手との関係性において自分の価値を見出す。自分自身を見失ってしまったり、危険な状況を招いたりすることもあるという。

「ジェラルドはミリセントととても上手くいっていたけど心を見せる勇気がもてなかった。でも、偶々なんだけど⋯⋯ハーヴィーは私に親の事とか悩みを話せた」

「それが罪悪感になったんだ」

「ええ、ハーヴィーは自分の心が軽くなって周りを見る余裕ができはじめたけどジェラルドはそうじゃない。だから、ジェラルドを助けなきゃって思い込んでいたの。ジェラルドを幸せに導かなきゃいけないって思い込んでた。
同性の恋愛は自由だけど、ハーヴィーの言う愛はそれとは違ってた」

「ライラは何故それに気付いたんだい?」

「ハーヴィーはね、ジェラルドが誰とどんな風に仲良くしていてもヤキモチを焼かなかったの。それで、もしかして恋愛感情とは違うのかもって思ったのがはじめかな」

「ヤキモチか⋯⋯確かに⋯⋯恋愛感情があるなら独占欲とかあるはずだよな」

 ライラがノアの顔を覗き込んだ。

「ノアは? ヤキモチ焼いてくれてた?」

「ずっと⋯⋯毎日、頭がおかしくなりそうなほど。側にいる為ならいくらでも我慢できると思ったり、ライラの側に近寄る奴を八つ裂きにしたくなったり⋯⋯」

 真っ赤な顔になったノアに息も出来ないほど抱きしめられたライラは心の底から反省した。

「わた、私もノアがいなくなったらダメになってたと思う」

 夜の帳が下り虫の声や夜行性の生き物の鳴き声が遠くから聞こえる。ライラはノアの腕の中から月に照らされた景色を見ながらトクトクと聞こえてくるノアの鼓動に耳を押し付けた。

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