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第二章 ヴィオレット
第六話
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マノンさんと別れて道を進んでいると、少し先の脇道から今日会ったあの人が出てきた。
向こうはこちらに気付かず歩いていく。
どうしようかと思ったが、マノンさんと話して気分が高揚していたのもあって、
「ニコラさん」
その勢いに任せて呼び止めてしまう。
呼ばれた彼はゆっくりと振り向いて、穏やかに微笑んだ。
なんだかホッとする笑顔だ。
「ヴィオレットさん。今帰りですか?」
「はい、ニコラさんもですか」
ニコラさんは頷く。
「ヴィオレットさん、今日はありがとうございました」
「いえ」
つい声をかけてしまったが、何を話そう。
「今日の説明会」
考えていると、ニコラの方から話題を振ってくれる。
「希望してる仕事の説明も聞けたので、とてもためになりました。あのまま迷ってたら聞けないところでした」
「それはよかったです」
「僕は研究員のための校正とか校閲の仕事がしたいと思っていて」
「校正、校閲ですか」
研究員志望じゃなかったのか。
事務棟の別の部屋に校正、校閲の部署があるのは知っている。
研究員たちの研究報告や論文なんかのチェックを行っている部署だ。
「別に魔法学校に行くことは必須ではないんですが、研究員の人たちと同じ背景を持っていた方がわかることも多いと思って」
希望する仕事のために魔法学校に入ろうと決めたんだ。
なんというか、将来設計がしっかりしている人だ。
「ニコラさんはどうしてその仕事がしたいと思ったんですか」
言ってから、踏み込み過ぎたかなと思う。
初対面ではないが、ほぼ初対面みたいなものだ。
でもニコラさんの方から話し出してくれたこともあって流れるように質問してしまった。
「父が出版社で校閲をしているんです。昔からどういう仕事なのかよく聞いていたので、興味を持って」
同じ立場とは言えないが、アルシェのことが頭をよぎって、それで口が勝手に動いてしまう。
「お父様の影響というか、自分の進路がまわりに決められてしまったって思いますか」
唐突で不躾な質問だったにも関わらず、ニコラさんはあまり間を置かずに、
「うーん。父の仕事がきっかけではあるけど、決めたのは自分だから」
と、答えてくれた。おっとりとした口調だが、はっきり言い切る姿に意志の強さを感じる。
「失礼なこと言ってすみません。ニコラさんはしっかりしてるんですね」
「いや、そんなことは全然まったくないんですけど。あの、敬語じゃなくていいです。同い年だし、僕まだ学生なので。ニコとでも呼んでください」
今後、会う機会があるかわからないが、とりあえず頷いた。
その気さくな様子に、たぶんつられたんだと思う。
「じゃあそっちも敬語なしで。私のこともヴィオラって呼んで」
誰一人呼んだことのない愛称を口にしてしまった。
もし、彼が研究所で働くとしても、まだずっと先のことだ。
この場限りになるかもしれないし、軽い気持ちで言ったと思う。
なのになぜかニコからの返事がない。
そして、歩みが止まった。
どうしたんだろうと隣を見れば、なぜか片手で目を覆っていた。
「え? どうしたの?」
「いいの?」
ニコの手が外されて、こちらを見る。
「え?」
「ヴィオラ」
いきなり呼ばれて、呼んだニコの顔が赤くなっていく。
「ちょっと何照れてるのよ! うつるじゃない」
「ごっ、ごめんっ」
こっちまで恥ずかしくなってきた。
でも、なんだかそう呼ばれたことで、今までと違う生活が始まるようなそんな気持ちになる。
真新しい呼び方のせいなのか、ニコが呼んだからなのか。
それから他愛もない話をしながら歩いて、気が付けば私の家の近くまで来ていた。
聞くと、ニコの家は本当は途中の角を曲がらないといけなかったらしい。
ぐるっと回れば帰れるから、と言うニコにお礼を言う。
「ありがとう。じゃあ、またどこかで会えたら」
「うん、また」
手を振って別れる。
まだ傷はジクジクと濡れたままだけど、新しい生活はたまに傷を忘れる時間をくれる。
その度に段々、覆われていって。
たぶんそうやって、最後は思い出さなくなるんだろう。
そう思っていた。
あの子が傷を暴きに来るまでは──。
── ─
「ヴィオレットさん」
研究所を出たところで、あの声が私を呼んだ。
ギクリと体が強張る。
振り向きたくない。
「ヴィオレットさん」
なんで彼女がこんなところにいるんだろう。
小走りに回り込まれて上目遣いに顔を覗かれる。
「こんにちは。無視しないでくださいよ」
変わらない声音。
あのときと同じまま。
「マリエル⋯⋯、何か用?」
「ちょっと話したくて。帰り道ご一緒しますね」
拒否することを許さない言い方で、無理やり隣に並ばれた。
背中を嫌な汗が伝って、無意識のうちに歩調が速まる。
早く帰りたい。
この子から逃れたい。
「この前、研究所の説明会があったじゃないですか。私もいたんですけど気付きました?」
どうやらあの大勢の学生の中にいたらしいが気付かなかったし、気付きたくもなかった。
なんなら二度と会いたくなかった。
「ヴィオレットさんが入ってくるからびっくりしましたよ」
そんなことをいちいち言いに来たのか。
こっちは店を辞めたし、アルシェにもあれ以来会っていない。
それに、マリエル自身だって復学してもうお店には行っていないはずだ。
彼女がアルシェと会ってるかは知らないけど、どっちにしろ私とは関わる必要もない。
「あの人、ヴィオレットさんの彼氏ですか?」
「は?」
うっかり反応してしまい眉根を寄せる私に、マリエルが口の端を歪めて笑う。
「あの眼鏡の人ですよ。会場に一緒に入ってきた」
違うけど、マリエルにいちいち説明することでもない。
「⋯⋯あなたに関係ないでしょ」
低い声で突っぱねるがマリエルに気にした様子はなく、懲りずに話し続けている。
「私その日の夕方、二人が一緒に歩いてるところも見ちゃったんです」
なんなんだろう。
帰り道で偶然会っただけだし、別に見られて困ることもない。
返事をしないでいると、マリエルが嫌な顔で笑う。
「なんかずいぶん妥協したなって思いました」
なんなのこの女。
怒りが湧き上がってくるが、反論してマリエルとやり合うのも面倒だった。
「あの人なんだか、ぼーっとしてるっていうか。アル先輩とは全然違いますね。ヴィオレットさん美人なんだからもっといい人いるんじゃないんですか。あれじゃまるで」
マリエルが貶めるように言葉を吐き出す。
「女王様と下僕って感じですよ」
「いい加減にしてよ!」
挑発に乗ってしまったのは自覚しているが耐えきれなかった。
私が怒鳴っても、マリエルの表情は変わらない。
私を見下して、潰そうとしている。
「あの人、研究員志望でもないみたいですし、出世しそうにも見えないですよね。あ、知ってますか? アル先輩、魔法学校の研究生になったんですよ」
マリエルが得意げに言った。
「アル先輩のこと最初はかっこいいし優しいからキープしてたんですけど、魔法研究に興味があるって聞いてから本格的に狙いにいきました。やっぱり将来有望な人がいいじゃないですか」
負け犬を見るような目が私を苛んでいく。
悔しい。
悔しい。
アルシェの隣りにいたのは私だったのに。
「ヴィオレットさんも早く、女王様の騎士が見つかるといいですね」
悔しい。
悔しい。
絶対に、
絶対に見返してやる。
アルシェより、もっとずっと優秀な人を手に入れて、この女に見せつけてやる。
絶対に、
絶対にこの女に勝たないと。
そうしないと。
頭の中がすべてマリエルへの敵愾心で埋め尽くされていくのを感じた。
絶対に、
絶対に。
そしてそんなとき、私の前に現れたのが彼だった。
向こうはこちらに気付かず歩いていく。
どうしようかと思ったが、マノンさんと話して気分が高揚していたのもあって、
「ニコラさん」
その勢いに任せて呼び止めてしまう。
呼ばれた彼はゆっくりと振り向いて、穏やかに微笑んだ。
なんだかホッとする笑顔だ。
「ヴィオレットさん。今帰りですか?」
「はい、ニコラさんもですか」
ニコラさんは頷く。
「ヴィオレットさん、今日はありがとうございました」
「いえ」
つい声をかけてしまったが、何を話そう。
「今日の説明会」
考えていると、ニコラの方から話題を振ってくれる。
「希望してる仕事の説明も聞けたので、とてもためになりました。あのまま迷ってたら聞けないところでした」
「それはよかったです」
「僕は研究員のための校正とか校閲の仕事がしたいと思っていて」
「校正、校閲ですか」
研究員志望じゃなかったのか。
事務棟の別の部屋に校正、校閲の部署があるのは知っている。
研究員たちの研究報告や論文なんかのチェックを行っている部署だ。
「別に魔法学校に行くことは必須ではないんですが、研究員の人たちと同じ背景を持っていた方がわかることも多いと思って」
希望する仕事のために魔法学校に入ろうと決めたんだ。
なんというか、将来設計がしっかりしている人だ。
「ニコラさんはどうしてその仕事がしたいと思ったんですか」
言ってから、踏み込み過ぎたかなと思う。
初対面ではないが、ほぼ初対面みたいなものだ。
でもニコラさんの方から話し出してくれたこともあって流れるように質問してしまった。
「父が出版社で校閲をしているんです。昔からどういう仕事なのかよく聞いていたので、興味を持って」
同じ立場とは言えないが、アルシェのことが頭をよぎって、それで口が勝手に動いてしまう。
「お父様の影響というか、自分の進路がまわりに決められてしまったって思いますか」
唐突で不躾な質問だったにも関わらず、ニコラさんはあまり間を置かずに、
「うーん。父の仕事がきっかけではあるけど、決めたのは自分だから」
と、答えてくれた。おっとりとした口調だが、はっきり言い切る姿に意志の強さを感じる。
「失礼なこと言ってすみません。ニコラさんはしっかりしてるんですね」
「いや、そんなことは全然まったくないんですけど。あの、敬語じゃなくていいです。同い年だし、僕まだ学生なので。ニコとでも呼んでください」
今後、会う機会があるかわからないが、とりあえず頷いた。
その気さくな様子に、たぶんつられたんだと思う。
「じゃあそっちも敬語なしで。私のこともヴィオラって呼んで」
誰一人呼んだことのない愛称を口にしてしまった。
もし、彼が研究所で働くとしても、まだずっと先のことだ。
この場限りになるかもしれないし、軽い気持ちで言ったと思う。
なのになぜかニコからの返事がない。
そして、歩みが止まった。
どうしたんだろうと隣を見れば、なぜか片手で目を覆っていた。
「え? どうしたの?」
「いいの?」
ニコの手が外されて、こちらを見る。
「え?」
「ヴィオラ」
いきなり呼ばれて、呼んだニコの顔が赤くなっていく。
「ちょっと何照れてるのよ! うつるじゃない」
「ごっ、ごめんっ」
こっちまで恥ずかしくなってきた。
でも、なんだかそう呼ばれたことで、今までと違う生活が始まるようなそんな気持ちになる。
真新しい呼び方のせいなのか、ニコが呼んだからなのか。
それから他愛もない話をしながら歩いて、気が付けば私の家の近くまで来ていた。
聞くと、ニコの家は本当は途中の角を曲がらないといけなかったらしい。
ぐるっと回れば帰れるから、と言うニコにお礼を言う。
「ありがとう。じゃあ、またどこかで会えたら」
「うん、また」
手を振って別れる。
まだ傷はジクジクと濡れたままだけど、新しい生活はたまに傷を忘れる時間をくれる。
その度に段々、覆われていって。
たぶんそうやって、最後は思い出さなくなるんだろう。
そう思っていた。
あの子が傷を暴きに来るまでは──。
── ─
「ヴィオレットさん」
研究所を出たところで、あの声が私を呼んだ。
ギクリと体が強張る。
振り向きたくない。
「ヴィオレットさん」
なんで彼女がこんなところにいるんだろう。
小走りに回り込まれて上目遣いに顔を覗かれる。
「こんにちは。無視しないでくださいよ」
変わらない声音。
あのときと同じまま。
「マリエル⋯⋯、何か用?」
「ちょっと話したくて。帰り道ご一緒しますね」
拒否することを許さない言い方で、無理やり隣に並ばれた。
背中を嫌な汗が伝って、無意識のうちに歩調が速まる。
早く帰りたい。
この子から逃れたい。
「この前、研究所の説明会があったじゃないですか。私もいたんですけど気付きました?」
どうやらあの大勢の学生の中にいたらしいが気付かなかったし、気付きたくもなかった。
なんなら二度と会いたくなかった。
「ヴィオレットさんが入ってくるからびっくりしましたよ」
そんなことをいちいち言いに来たのか。
こっちは店を辞めたし、アルシェにもあれ以来会っていない。
それに、マリエル自身だって復学してもうお店には行っていないはずだ。
彼女がアルシェと会ってるかは知らないけど、どっちにしろ私とは関わる必要もない。
「あの人、ヴィオレットさんの彼氏ですか?」
「は?」
うっかり反応してしまい眉根を寄せる私に、マリエルが口の端を歪めて笑う。
「あの眼鏡の人ですよ。会場に一緒に入ってきた」
違うけど、マリエルにいちいち説明することでもない。
「⋯⋯あなたに関係ないでしょ」
低い声で突っぱねるがマリエルに気にした様子はなく、懲りずに話し続けている。
「私その日の夕方、二人が一緒に歩いてるところも見ちゃったんです」
なんなんだろう。
帰り道で偶然会っただけだし、別に見られて困ることもない。
返事をしないでいると、マリエルが嫌な顔で笑う。
「なんかずいぶん妥協したなって思いました」
なんなのこの女。
怒りが湧き上がってくるが、反論してマリエルとやり合うのも面倒だった。
「あの人なんだか、ぼーっとしてるっていうか。アル先輩とは全然違いますね。ヴィオレットさん美人なんだからもっといい人いるんじゃないんですか。あれじゃまるで」
マリエルが貶めるように言葉を吐き出す。
「女王様と下僕って感じですよ」
「いい加減にしてよ!」
挑発に乗ってしまったのは自覚しているが耐えきれなかった。
私が怒鳴っても、マリエルの表情は変わらない。
私を見下して、潰そうとしている。
「あの人、研究員志望でもないみたいですし、出世しそうにも見えないですよね。あ、知ってますか? アル先輩、魔法学校の研究生になったんですよ」
マリエルが得意げに言った。
「アル先輩のこと最初はかっこいいし優しいからキープしてたんですけど、魔法研究に興味があるって聞いてから本格的に狙いにいきました。やっぱり将来有望な人がいいじゃないですか」
負け犬を見るような目が私を苛んでいく。
悔しい。
悔しい。
アルシェの隣りにいたのは私だったのに。
「ヴィオレットさんも早く、女王様の騎士が見つかるといいですね」
悔しい。
悔しい。
絶対に、
絶対に見返してやる。
アルシェより、もっとずっと優秀な人を手に入れて、この女に見せつけてやる。
絶対に、
絶対にこの女に勝たないと。
そうしないと。
頭の中がすべてマリエルへの敵愾心で埋め尽くされていくのを感じた。
絶対に、
絶対に。
そしてそんなとき、私の前に現れたのが彼だった。
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