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眞島葵
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仏壇に影膳を供え、手を合わせる。
この半年、毎日繰り返している、もはや習慣だ。
マンション用の小さな仏壇は、急遽誂えたとは思えないほど部屋に馴染んでいる。
写真の夫は、藤色のネクタイを締めてにっこり笑っていた。
34歳、くも膜下出血だった。
倒れて三日しか私に看病をさせてくれなかった。
「足も早いけど、生き方も速かったのね」
母がぼんやりと呟いたのを思い出す。
夫の両親は財産分与の時には見たことのない顔をして私を責めた。
子供もいないし、身軽なんだからいいでしょうと。
籍も抜くように迫られた。
夫の兄が取りなしてくれなければ、どうなっていただろう。
放蕩息子と云われていた長男が、真面目一辺倒の次男を庇うなんて。
お陰で、まだ眞島姓を名乗っている。
インタホンが鳴った。
義兄だ。
夫が存命の頃は実家にも寄り付かなかったのに、葬儀の後も週に一度は顔を出していた。
さすがに最近は足が遠退いていたので、久しぶりの訪問はなんとも複雑だ。
……籍を抜いて、思いっきり他人になった方がいいだろうか。
「今日は仕事、休みなんだろ?」
最初はお金目当てなのかと思っていた。
保険金は税金を差し引いた分全て義両親に渡し、住んでいた家も(賃貸だったが)出て小さなマンションに移った。
彼らも鬼ではない、香典も寄越せとは云われなかった。
義兄にはなにも要求されなかった。
「銭湯の裏に気の早い桜が咲いてたぜ」
「ああ」
お茶を出しながら曖昧に返事をする。
夫は、あの垂れ桜が好きで、二人で銭湯に行く度に話をしていた。
人様のお庭だから、通りすがりに愛でるしかなかったけど。
あの家を離れても、あの桜からは離れがたかった。
不意に、義兄に押し倒された。
え。
あまりの想定外の出来事に思考停止する。
何が、起きた。
真新しい畳の香りが鼻をくすぐった。
私の混乱を他所に、義兄は私の首筋に唇を押し当て、胸を揉みしだく。
ようやく貞操の危機に気づき、両手で逞しい体躯を押し戻す。
私の容姿は十人並みだ。
夫は褒めてくれたけれど、それは痘痕もえくぼ、蓼食う虫も好き好き、というやつだ。
義兄が私に欲情することが理解できない。
「やっ、やめて、ください……っ」
膝下のスカートを捲り上げられ、たまらず声を出す。
義兄の身体はびくともしない。
兄弟とは思えない。
夫は眼鏡の似合う、優しい人だった。
いずれは跡取りと可愛がられていた長男との待遇の差に拗ねることはあっても妬むことはせず、分相応が口癖だった。
「お前を娶れたのが俺の最高の幸福だよ」
そんな言葉を臆面もなく口にする文学青年。
夫が、私は大好きだった。
「何お高く留まってんだよ、男日照りが半年以上だ、この女盛りを持て余してたんだろ」
乱暴な言葉が耳へ流れ込む。
あまりにも一方的な話で怒髪天である。
そりゃ、男は女なら誰でもいいのかもしれないが、女は違う。
夫にだけ、操を立てたい。
あ、でも、尾上菊五郎なら考えちゃうかな。
義兄の動きが止まった。
私は不審に思いながらも、その岩のような体躯の下から這い出す。
義兄は目を見開いていた。
「誰だよ、菊、なんとかって」
思わず口から出ていたらしい。
私は居ずまいを正して座り直す。
座卓を挟んで距離をとることも忘れない。
「いつの間に他の男を咥え込んだんだ」
「違っ、尾上、菊五郎よ、歌舞伎の美丈夫様よ」
ミーハー魂を浮気呼ばわりされるのは心外だ。
私は唇を尖らせた。
義兄は口を開け言葉を失い、それから笑い出した。
涙が出るほど笑っているので、先程の張り詰めた空気が霧散した。
「そうだ、歌舞伎、好きだったな、葵」
「えっ」
「俺だよ、葵。
……麟太郎だ」
今度は私が目を見開く番だった。
目の前の義兄が、夫の名を名乗ったのだ。
義兄は、笑いながら鼻の辺りを中指で押し上げるようにした。
眼鏡を愛用していた夫の癖だ。
「あなた……」
「お前が気になって、兄貴の身体を借りてきたのさ。
一人遺して、すまなかった」
「麟太郎さん……っ」
私は抱きついた。
座卓が揺れ、湯飲みが倒れた。
抱きついたまま、子供のようにしゃくり上げながら泣いた。
葬儀の夜以来、思いきり泣いた。
義兄の身体を借りた夫は、そんな私を抱き止め、頭を撫でた。
「だから、あんなに日をおかずに来てくれてたのね」
「ああ」
夫の胸に凭れたまま、話をする。
鼓動が頬に感じられ、心が暖かくなる。
「なんだか不思議だったの。
跡取りの重圧に耐えかねて家を飛び出して、それきり寄り付きもしなかったはずのお義兄さんが、あなたの訃報で帰って来て、そのまま居つくなんて」
「……ああ」
「あなた、だったなんて」
「……ああ」
夫が私の頤に手を当て、上を向かせた。
唇を寄せてくる。
私はそれを手のひらを押し当てることで制した。
「なんだ?
麟太郎だって、信じてないのか?」
「信じてるわ、もちろん」
「なら」
「私、あなたのことが大好きなの。
だから、いくら中身があなたでも、あなた以外の男の人となにかしようとは思わない」
「……」
「私は、あなただけ、あなただけなの」
夫は、義兄の身体を借りた夫は、絶句していた。
私はそれを、愛の深さに感動しているのだと解釈した。
帰る、と立ち上がった夫を玄関まで送る。
「もう私は大丈夫だから、お義兄さんに身体を返してあげてね。
あなたも成仏しないと生まれかわりが出来なくなっちゃうわ」
「……ああ」
靴を履いた夫は、私へ向き直る。
「俺はもう成仏するよ。
葵のことは忘れない。
幸せを願ってる。
だから、……だから、好いた男が現れたら、麟太郎に構わず結婚してほしい」
「あなた……」
「俺、いや、兄貴も、葵のことをいい女だって褒めてたし」
「お世辞でも嬉しいわ」
「お、兄貴は、真面目になって実家も継ぐって決心した。
軌道に乗るには時間もかかるが、がんばる。
だから、考えてほしい。
俺と、いや、兄貴と生きることを」
私は言葉を失った。
だが、笑顔を浮かべて見送り、玄関を閉めた。
扉に凭れたまま、しばらくぼんやりしていた。
「不器用でひたむきなところは、似ているのね」
この半年、毎日繰り返している、もはや習慣だ。
マンション用の小さな仏壇は、急遽誂えたとは思えないほど部屋に馴染んでいる。
写真の夫は、藤色のネクタイを締めてにっこり笑っていた。
34歳、くも膜下出血だった。
倒れて三日しか私に看病をさせてくれなかった。
「足も早いけど、生き方も速かったのね」
母がぼんやりと呟いたのを思い出す。
夫の両親は財産分与の時には見たことのない顔をして私を責めた。
子供もいないし、身軽なんだからいいでしょうと。
籍も抜くように迫られた。
夫の兄が取りなしてくれなければ、どうなっていただろう。
放蕩息子と云われていた長男が、真面目一辺倒の次男を庇うなんて。
お陰で、まだ眞島姓を名乗っている。
インタホンが鳴った。
義兄だ。
夫が存命の頃は実家にも寄り付かなかったのに、葬儀の後も週に一度は顔を出していた。
さすがに最近は足が遠退いていたので、久しぶりの訪問はなんとも複雑だ。
……籍を抜いて、思いっきり他人になった方がいいだろうか。
「今日は仕事、休みなんだろ?」
最初はお金目当てなのかと思っていた。
保険金は税金を差し引いた分全て義両親に渡し、住んでいた家も(賃貸だったが)出て小さなマンションに移った。
彼らも鬼ではない、香典も寄越せとは云われなかった。
義兄にはなにも要求されなかった。
「銭湯の裏に気の早い桜が咲いてたぜ」
「ああ」
お茶を出しながら曖昧に返事をする。
夫は、あの垂れ桜が好きで、二人で銭湯に行く度に話をしていた。
人様のお庭だから、通りすがりに愛でるしかなかったけど。
あの家を離れても、あの桜からは離れがたかった。
不意に、義兄に押し倒された。
え。
あまりの想定外の出来事に思考停止する。
何が、起きた。
真新しい畳の香りが鼻をくすぐった。
私の混乱を他所に、義兄は私の首筋に唇を押し当て、胸を揉みしだく。
ようやく貞操の危機に気づき、両手で逞しい体躯を押し戻す。
私の容姿は十人並みだ。
夫は褒めてくれたけれど、それは痘痕もえくぼ、蓼食う虫も好き好き、というやつだ。
義兄が私に欲情することが理解できない。
「やっ、やめて、ください……っ」
膝下のスカートを捲り上げられ、たまらず声を出す。
義兄の身体はびくともしない。
兄弟とは思えない。
夫は眼鏡の似合う、優しい人だった。
いずれは跡取りと可愛がられていた長男との待遇の差に拗ねることはあっても妬むことはせず、分相応が口癖だった。
「お前を娶れたのが俺の最高の幸福だよ」
そんな言葉を臆面もなく口にする文学青年。
夫が、私は大好きだった。
「何お高く留まってんだよ、男日照りが半年以上だ、この女盛りを持て余してたんだろ」
乱暴な言葉が耳へ流れ込む。
あまりにも一方的な話で怒髪天である。
そりゃ、男は女なら誰でもいいのかもしれないが、女は違う。
夫にだけ、操を立てたい。
あ、でも、尾上菊五郎なら考えちゃうかな。
義兄の動きが止まった。
私は不審に思いながらも、その岩のような体躯の下から這い出す。
義兄は目を見開いていた。
「誰だよ、菊、なんとかって」
思わず口から出ていたらしい。
私は居ずまいを正して座り直す。
座卓を挟んで距離をとることも忘れない。
「いつの間に他の男を咥え込んだんだ」
「違っ、尾上、菊五郎よ、歌舞伎の美丈夫様よ」
ミーハー魂を浮気呼ばわりされるのは心外だ。
私は唇を尖らせた。
義兄は口を開け言葉を失い、それから笑い出した。
涙が出るほど笑っているので、先程の張り詰めた空気が霧散した。
「そうだ、歌舞伎、好きだったな、葵」
「えっ」
「俺だよ、葵。
……麟太郎だ」
今度は私が目を見開く番だった。
目の前の義兄が、夫の名を名乗ったのだ。
義兄は、笑いながら鼻の辺りを中指で押し上げるようにした。
眼鏡を愛用していた夫の癖だ。
「あなた……」
「お前が気になって、兄貴の身体を借りてきたのさ。
一人遺して、すまなかった」
「麟太郎さん……っ」
私は抱きついた。
座卓が揺れ、湯飲みが倒れた。
抱きついたまま、子供のようにしゃくり上げながら泣いた。
葬儀の夜以来、思いきり泣いた。
義兄の身体を借りた夫は、そんな私を抱き止め、頭を撫でた。
「だから、あんなに日をおかずに来てくれてたのね」
「ああ」
夫の胸に凭れたまま、話をする。
鼓動が頬に感じられ、心が暖かくなる。
「なんだか不思議だったの。
跡取りの重圧に耐えかねて家を飛び出して、それきり寄り付きもしなかったはずのお義兄さんが、あなたの訃報で帰って来て、そのまま居つくなんて」
「……ああ」
「あなた、だったなんて」
「……ああ」
夫が私の頤に手を当て、上を向かせた。
唇を寄せてくる。
私はそれを手のひらを押し当てることで制した。
「なんだ?
麟太郎だって、信じてないのか?」
「信じてるわ、もちろん」
「なら」
「私、あなたのことが大好きなの。
だから、いくら中身があなたでも、あなた以外の男の人となにかしようとは思わない」
「……」
「私は、あなただけ、あなただけなの」
夫は、義兄の身体を借りた夫は、絶句していた。
私はそれを、愛の深さに感動しているのだと解釈した。
帰る、と立ち上がった夫を玄関まで送る。
「もう私は大丈夫だから、お義兄さんに身体を返してあげてね。
あなたも成仏しないと生まれかわりが出来なくなっちゃうわ」
「……ああ」
靴を履いた夫は、私へ向き直る。
「俺はもう成仏するよ。
葵のことは忘れない。
幸せを願ってる。
だから、……だから、好いた男が現れたら、麟太郎に構わず結婚してほしい」
「あなた……」
「俺、いや、兄貴も、葵のことをいい女だって褒めてたし」
「お世辞でも嬉しいわ」
「お、兄貴は、真面目になって実家も継ぐって決心した。
軌道に乗るには時間もかかるが、がんばる。
だから、考えてほしい。
俺と、いや、兄貴と生きることを」
私は言葉を失った。
だが、笑顔を浮かべて見送り、玄関を閉めた。
扉に凭れたまま、しばらくぼんやりしていた。
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