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"化かし日和のともしび" 9
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「…?」
しかし、いくら待ってもその時はやって来ない。
今も変わらずセイ(由芽)の前にはアマネ(霙)が顔を覆って蹲っている。彼女の瞳には好奇心があった。プラスの感情はマイナスの中に埋もれにくくなるものだから、満たしてそこから目を離すようにしなければならなかった。だからたくさんの場所を巡ることを提案して、楽しませて、この世界の秘密を教えて、好奇と絶望を共に味合わせたはずだった。マイナスで包まれた人間は、何をしなくとも勝手に堕ちていくから。けれどアマネは、依然としてこの世界に溶ける気配がない。一体何故、と狼狽するセイの耳に、笑い声が届いた。耳を劈くような不愉快な声で、思わず目を瞠る。その声の主であるアマネはするりと手を地面に投げ出し、人形のように角ついた動きでことりと首を傾げセイを見上げた。
「やさしいね、セイ」
「…は?」
その言葉に、動揺する。何を言っているのだと怪訝な顔をすれば、アマネはまた笑った。今度は薄気味悪い叫び声のようなものでなく、思わず溢れたような小さな小さな笑い声だった。
「悪意に溶けてしまうから、この世界からもう出られないんでしょう?それが分かってて、わたしに声を掛けたんでしょう。この世界に入る前の私が、悪意の沼に堕ちないように」
「…」
セイは黙ってアマネの言葉を聞いている。否定も肯定もないその表情は険しく、それを聞き分けのない子供を宥めるようにアマネは扱う。
「好奇心に満ちている、確かにそう。私は好奇心でここに足を踏み入れた。だから、セイはそれを満たしてすぐに絶望に堕とした。何をそんなに急ぐことがあったんだろう。遅くても、きっといつか私は溶けるのに」
「…あまり人間が長居するのは心象的に良くないでしょ。僕は人間が嫌いなんだ。この世界を穢し、満たし、それでもまだ悪意をばら撒く存在なんて」
「最後は本当かもしれないけど、最初は嘘」
セイの瞳が、戸惑いに揺れる。
「ここに訪れた人間は、いつだって絶望していた筈。自ら地獄に足を踏み入れるなんて、余程狂わないと出来ないもの。だから悪意に溶けることが出来た。コーヒーにコーヒーを注いだところで何も変わらず混ざり合うように、マイナスにマイナスを混ぜても何も変わらなかった。けれど私は好奇というプラスを持っていた。どんな反応が起こるか分からない。世界への影響も考えられるけど、もう既に許容限界を超えて壊れることが分かっている世界に頓着する理由なんてない。いくつも世界を廃棄しているなら尚更。じゃあどうして、セイは私に絶望を渡したのかしら」
セイは答えない。アマネは小さく微笑んで、セイに一歩近付いた。
「…セイ」
「…ぅ」
「セイ」
「ち、が…」
「セイ!」
「違う!」
叩きつけるような叫び声が、悪意に満ちた世界に強く響いた。
しかし、いくら待ってもその時はやって来ない。
今も変わらずセイ(由芽)の前にはアマネ(霙)が顔を覆って蹲っている。彼女の瞳には好奇心があった。プラスの感情はマイナスの中に埋もれにくくなるものだから、満たしてそこから目を離すようにしなければならなかった。だからたくさんの場所を巡ることを提案して、楽しませて、この世界の秘密を教えて、好奇と絶望を共に味合わせたはずだった。マイナスで包まれた人間は、何をしなくとも勝手に堕ちていくから。けれどアマネは、依然としてこの世界に溶ける気配がない。一体何故、と狼狽するセイの耳に、笑い声が届いた。耳を劈くような不愉快な声で、思わず目を瞠る。その声の主であるアマネはするりと手を地面に投げ出し、人形のように角ついた動きでことりと首を傾げセイを見上げた。
「やさしいね、セイ」
「…は?」
その言葉に、動揺する。何を言っているのだと怪訝な顔をすれば、アマネはまた笑った。今度は薄気味悪い叫び声のようなものでなく、思わず溢れたような小さな小さな笑い声だった。
「悪意に溶けてしまうから、この世界からもう出られないんでしょう?それが分かってて、わたしに声を掛けたんでしょう。この世界に入る前の私が、悪意の沼に堕ちないように」
「…」
セイは黙ってアマネの言葉を聞いている。否定も肯定もないその表情は険しく、それを聞き分けのない子供を宥めるようにアマネは扱う。
「好奇心に満ちている、確かにそう。私は好奇心でここに足を踏み入れた。だから、セイはそれを満たしてすぐに絶望に堕とした。何をそんなに急ぐことがあったんだろう。遅くても、きっといつか私は溶けるのに」
「…あまり人間が長居するのは心象的に良くないでしょ。僕は人間が嫌いなんだ。この世界を穢し、満たし、それでもまだ悪意をばら撒く存在なんて」
「最後は本当かもしれないけど、最初は嘘」
セイの瞳が、戸惑いに揺れる。
「ここに訪れた人間は、いつだって絶望していた筈。自ら地獄に足を踏み入れるなんて、余程狂わないと出来ないもの。だから悪意に溶けることが出来た。コーヒーにコーヒーを注いだところで何も変わらず混ざり合うように、マイナスにマイナスを混ぜても何も変わらなかった。けれど私は好奇というプラスを持っていた。どんな反応が起こるか分からない。世界への影響も考えられるけど、もう既に許容限界を超えて壊れることが分かっている世界に頓着する理由なんてない。いくつも世界を廃棄しているなら尚更。じゃあどうして、セイは私に絶望を渡したのかしら」
セイは答えない。アマネは小さく微笑んで、セイに一歩近付いた。
「…セイ」
「…ぅ」
「セイ」
「ち、が…」
「セイ!」
「違う!」
叩きつけるような叫び声が、悪意に満ちた世界に強く響いた。
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