神様自学

天ノ谷 霙

文字の大きさ
上 下
690 / 812

痛い 空間

しおりを挟む
とぷん、と背中から水に浸かったかのような不思議な浮遊感に、私はゆっくりと目を開く。しかし視界は全く変わらず、まだ瞼の裏の方が明るいのではないかと考えてしまいそうな程に深い闇に包まれていた。時々、こんな空間にやって来ている。恋音に注告された時、北原くんへの返事を考えている時、他にもあったかもしれないけど、記憶の糸が絡まって分からない。
感覚だけで首を動かせば、紗奈の姿が見えた。暗闇の中心で薄く光る紗奈は、"関係を壊すのが怖かった"と涙ながらに叫んでいる。反対方向に視線を動かせば、由芽が"情報で自分を守っていたの"と苦しそうに俯いている。他にも無数の姿が展開され、この1年間で見て来た涙や苦しみが、何度も何度も繰り返される。彼ら彼女らを映す光は瞬く間に消えては別の人へと変わっていき、暗闇の中に溶けていく。その中には蒼くんのことが好きだったと泣いていた女の子の姿も、好きだからこそ嫌なんだと苦笑いを浮かべた霙の姿も見つけてしまった。片倉さんを想うが故に花火を突き落とそうとした女の子も見つけた。前世の恋情に縛られて面影に苦しむ青海川くんも居た。家の事情に振り回されて気持ちを伝えるのに足踏みした紺様も見えた。長い片想いに踏ん切りをつけると泣いた爽の姿もあったし、過去の恋愛から臆病になってしまった五十嵐くんの背中も見えた。明を手に入れるために手段を選ばなかった男の子も、明に振られた腹いせに暴力を振るう人も見えた。
たった唯一を想うが故に、理を断じて禁忌に手を伸ばした虹様の姿も見えた。
私の周りに浮遊するのは、幾つもの恋がもたらした暗い感情。嫉妬や執着、時には自分すらを忘却の海に追いやって壊しに来る、厄介で不可思議な人間の心模様。
視認出来た幾つかの数十倍、数百倍の記憶場面が一気に展開されては散っていく。まるで花びらが宙へ落ちるように、暗闇を撫でては何もなかったかのように消えていく。
あまりにも痛い。痛すぎる。
叶えば全てを捨てても良いくらいの幸福をもたらすその感情は、裏返った時に自分を殺してしまいそうな程に苦しい。

こんなに痛いなら、こんなに苦しいなら、

──恋なんてしなければ良かったんだ。

恋なんて、しないでくれれば良かったんだ。

溢れることのない水滴が瞳を覆う。それは零れることも流れることもなく暗闇の中に溶けると、私は何故か安堵の息を吐いた。背中からいつの間にか現れたスライムのような何かに包まれ、溺れていく。
痛い。痛い。痛すぎる。
瞑った瞼の裏は、やはり目を開けていた時と同じように真っ暗だった。
しおりを挟む

処理中です...