神様自学

なみだいろ

「もう嫌だ！！！」
空を切り裂くような悲鳴が木霊する。ヒトの世から帰って来た少女の声だ。部屋の隅で頭を抱え、蹲っている。足からは靄のようなものが溢れ、周囲は宙と溶け込んで揺らいでいる。恐らく怪我をしているのだろう。体の震えは止まらず、ガチガチと歯が鳴っている。
たった1回。
されど、1回。
何重にも起こったヒトの世との隔たりが因果となって無意識に少女の中に溜まり、取り返しのつかない程にヒトを嫌悪するようになってしまった。ヒトという種族に対する憎悪を呪詛のように吐き続け、大きな朱色の瞳を更に見開いて涙を零し続けている。
「伏見ふしみ…」
少女の名前は、伏見。稲荷様に名付けられた、ヒトを外から見続ける者の名前。羨ましそうに見続ける彼女を知っているからこそ、ヒトとの隔たりを少しでも解消するための目標として付けられた名前。
「…ふし…」
「嫌！嫌！やめて！やめてください！」
こちらの話を聞ける状態ではなく、稲荷様はそっと息を吐いて言葉を止める。
「…しばらくは此方の世に留まる。その間に休養を取ると良い」
「…」
稲荷様の声掛けにも、伏見さんは答えられない。膝を抱え、嗚咽を漏らしながら泣き続けるばかり。きっと伏見さんも混乱しているのだろう。初めて見たヒトから敵意を向けられたことに、記憶はないのに何度も経験しているせいで。
他の使つかいに伏見さんを任せ、稲荷様は部屋を出て行く。神社のような造りをした邸宅内で、黄から緑へとグラデーションしていく髪を持つ、凛々しい女性を見つけた。
「稲荷、どうしたの？」
「姉様…」
稲荷様に姉と呼ばれたのは、虹にじ様だ。髪の隙間から伸びた2本の角は、枝のように伸びている。
「…わたし、彼の者を助けたくて…でも、余計に怖がらせてしまって…わたしが関わる程、ヒトと分かり合えなく……っ」
思わず泣き出し崩れ落ちる稲荷様を、虹様が優しく抱き締める。小さくしゃくり上げながら、体を震わせて悔やむ。私欲で傷付け合うヒトという種族を罰する為、起こされた大飢饉。その罰が起こした悲劇。その責任を取る意味も込めて結んだ約束は、少女の死によって果たすことが出来なくなった。それでも稲荷様は魂の管理者に掛け合って、約束を果たそうと奔走した。けれどその途中で抱いた、ヒトの世で幸せになってほしいという想いが、彼女を傷付けることになってしまった。悔やんでも悔やみきれない。そもそもの話ならば、ここまで1つに心を砕くことすら許されない筈なのに、そんなことに構っていられない程その目標は稲荷様の心を多く奪っていた。
声を掛けず、ただ抱き締め続ける虹様。
慰めても溢れて来る泣き声に、寄り添い続ける姉神様。
その想いは尊いものだと言えたなら、どれだけ楽だっただろうか。けれど我々は全ての世界を統べる存在。1つのものに構う時間が多くなるほど本来の役割が熟せなくなる。本当だったら切り落とさなくてはならない。けれどそれを選ばせるのは残酷だとわかっている。
どうするのが正解だったのかは、神にもわからない。
虹様は言葉を飲み込んで、稲荷様を抱き締める力を強めた。