神様自学

天ノ谷 霙

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2月26日 負け戦

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一生にも1秒にも思える沈黙の後、青海川くんはふっと笑った。堪え切れないとでもいうように肩を震わせ、口元を押さえながら小さな笑い声を上げる。何事かと驚いていると、青海川くんは改めて姿勢を正してこちらに向き合った。そこには先程のような硬さや獰猛さは何処にもなく、いつもより落ち着いた少年の姿だけがそこに腰掛けていた。
「稲森さんは賢いね。それに場慣れしてる」
「場慣れ?」
「うん。こんな突拍子もない話、切り捨てて罵倒したって不思議じゃないのに、真剣に向き合ってくれた。多少動揺しても、最後には覚悟を決めて正面から突っ込んでくる。これは流石に、武が悪い」
青海川くんはずっとおかしそうに笑い続ける。どういう意味かと首を傾げていると、それで、と話題の切り替えが入った。
「おれが稲森さんに話をした理由、それはね」
楽しそうに細められた青緑の瞳に、私の喉がごくりと鳴る。先程は微妙に誤魔化したが、"恋使"に変化するところを見られていたとかであれば言い訳は出来ない。目の前で消えたり現れたりするのだ。羅樹はそれを不思議がる以上の不安に襲われたせいか、そこについて触れることはなかったが普通はそうはいかない。それを突かれたらどう回避しようか、あるいは多少の秘密を打ち明けてしまおうかと考えを巡らせた時、青海川くんは薄い唇を開いてこう告げた。
「なんとなく」
一瞬、脳が理解を拒んだ。瞼が何度も下りて来て、幻聴ではないかの確認をする。詰まった喉が動いて、首を思い切り傾げながら「え?」と返すと、青海川くんは更に笑みを深めた。
「確かに不思議なことはあるし、おれの前世の記憶を話しても驚かないし、何か秘密はあるのかもしれないけど。でも稲森さんに聞こうって思ったのは、なんとなく、聞いてくれそうな気がしたからなんだよ」
青海川くんは緑茶に口付ける。私もそれに倣って湯呑みを持つと、先程までの私達の冷気に当てられたかのように、少しぬるくなっていた。程良い苦味と爽やかな風味が口の上を広がるのを感じてから、そっと湯呑みを戻す。青海川くんの方を向くと、ぼんやりとした様子で四阿あずまやの外を見ていた。何かと視線を追えば、チラチラと白い華が舞い降りて来る。
「雪?」
「…あぁ、しくじったなぁ」
ほんの僅かに、自嘲するように呟かれた言葉。目を丸くしてまた青海川くんの方を向くと、酷く苦しそうだった。今にも泣きそうに顔を歪め、それでも視線を雪から外さない。震えた指先が温もりを求めるように湯呑みに伸びるが、上手く掴めず倒してしまった。木の机に染み入る緑茶の香りが、何かの香りと重なって私まで泣きそうになる。
急に胸が苦しくなり、脈打つ度に全身が痛む。
これは、これは何?
そんな疑問と混乱に呑まれる私の前で、青海川くんが地面へと倒れ込んだ。
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