神様自学

天ノ谷 霙

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『羅樹』

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羅樹に触れたせいか、更に強い記憶が流れ込んでくる。母親との別れ、葬式会場、仕事に打ち込む父親を見送る玄関。少しずつ暗くなる照明が、羅樹の絶望を表しているようで苦しかった。段々と真っ暗になっていく。誰にも気付かれないように心を押し留めて笑う羅樹が見えた。鏡の前で泣きそうな顔を隠し、笑顔の練習をしている。きっと父親が帰って来る直前なのだろう。両手で頬をつねり口角を持ち上げては、その手を離す度に泣き出しそうな顔をする。見ていられない程に痛々しい。けれど私の脳内でそれらの記憶は巡る。
やがて、周りが見えないほど暗い中に一筋の光が差した。金色に揺れる細い糸。小さなそれは、誰かの背中だということに気付いた。そしてその背は振り返る。動きに合わせて滑らかに動き、その人は羅樹を見つけて心の底から嬉しそうに笑った。こちらに伸ばす手は酷く小さいのに、何よりも頼り甲斐のあるものに思えた。羅樹は震える手を伸ばし、指先だけ僅かに重ねる。その瞬間、ガラスが割れるかのように周囲の暗闇が霧散し、温かい春風に包まれた。花びらが舞い踊り、草原の上に立っているような気分になる。
私はそれを見て、思わず泣きそうになった。
知らなかった。分からなかった。

羅樹の暗闇に光をもたらしたのは、幼い"私"だった。

重なった手の平が温かい。まるでそこから光が溢れるかのように心地良くて、ぎゅっと繋いだ手が解けることなく羅樹を連れ去っていく。たくさんの笑顔が見えた。羅樹の思い出の中の笑顔が、周囲に浮かんでは次々と切り替わっていく。幸せだという気持ちが伝わって来る。進む度に少しずつ体が大きくなって、今の姿に近付いていく。途中、私が羅樹を避けていた時のことも記憶の中にはあった。それなのに、"私"と羅樹は手を離していなかった。こちらを振り向かないだけで、固く握られた手は一瞬も離れることがなかった。高校の制服を着たところで、立ち止まって"私"が振り返る。何も言わず、少しずつ手を解こうとする"私"に、羅樹が震える手に力を込めた。嗚咽が混ざる。きっと泣いている。それなのに目の前にいる"私"は微笑むだけで、その手を離そうとする。

『…いか、ないで…』

弱々しい声が、羅樹の口から零れ落ちた。驚く私と対照的に、目の前の"私"は困ったように笑う。それを見て、羅樹は更に震えた。

『お願い…』

小さな小さな呟きだった。まるで懇願のような、苦しい心の声。止めどなく溢れる涙が、羅樹の願いを切実に訴える。


『夕音が笑顔でそこにいてくれるなら、僕のことを好きじゃなくたって構わないから。

───だから、いなくならないで』


初めて知った、羅樹の本当の声だった。
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