神様自学

天ノ谷 霙

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2月9日 本当の恐怖 ???

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男の拳は空を切った。酷く遅く振り上げられたその腕を掴み、じっと目を見つめる。恐怖に歪んだその瞳の中に、赤く光る2つの双眸が見えた。
おおよそ、ヒトには見えない。
神に命を狙われ、腹を刺され、生死の境を何度も彷徨った。人の身一つで与えられる苦痛など高が知れている。私を中心に逆巻く風も、男の近くでバチバチと散る火花も、人が扱えるものではない。私ですら扱えるそれらを使えない者が、人外わたしに勝てるわけがない。
ぎゅっと握る手に力を込めた。蝕むように、自由を奪っていく。恐怖で動転している男は、あまり力を入れていないというのに気が狂ったのかと思うほどに騒ぎ立てていた。ガクガクと足腰を震えさせ、まともにこちらを見ることすら出来ない。大きく見開かれた瞳は焦点が定まっておらず、それなのに私から目を離すことは出来ないようだった。
自分より弱いと思った者には強く出るくせに、いざ自分が弱者の立場になったらそんなにも無様に恐れ慄くのか。
軽蔑の視線を送る。しかしそんなことにすら気付けない程、男は震えていた。
その間、じわりじわりと私の中に巡るものがあった。私の中に宿る花。その毒を以って神の呪いすら解除する狐花ヒガンバナ。錫杖の音が、体内で鳴り響く。その音を記録して、掴んだ手から相手の体へと流し込む。毒花と共に、静かに蝕んでいく。明が感じた恐怖や困惑、戸惑いの記録を返すように。
「ひっ…あぁっ……」
何か脳に異変が起きたのか、掴まれていない方の手で頭を押さえ、のたうち回る。本当は両手で押さえたいようだが、私から手を振り解くことが出来ないらしい。自分より体躯の劣った女に負ける気分はどうだろうか。まぁ仕方ないのだ。桜に愛され、澪愛みおうの力を何百、何千と負ったことのあるに、人の身で敵うはずがない。暴力を振おうが策略を巡らそうが、所詮人の所業。
「………なさ…っ」
「…何?」
微かに唇が動いたが、私の耳にははっきりと聞こえない。眉を顰めて問い掛ける。
「…ごめんなさい…っ許して、許してくださ…っ」
泣きじゃくりながら告げる言葉。祈るように、縋るように私を見る。私は目を細めて、問い掛けた。
「…何で私に言うの?傷付けたのは、私じゃなくてじゃない」
私は未だ倒れたままの明の方を、視線で示す。分かりやすく示して見せたのに、男はそちらの方に視線を動かすことも出来ず、うわ言のように「ごめんなさい」「許してください」と繰り返すだけだった。
私はため息を吐いて、手を離す。そろそろヒトの気配がして来た。

『…やっぱり、恋なんて碌なものじゃないわ』

誰にも届かない愚痴を呟くと、再度奥へと戻る。何処かで入れ替わってしまったらしい。毒は外に出してはいけない。他の者に露呈してはいけない。私は意識を、友人を思いやるあの子に明け渡して、また体内へと戻っていった。
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