神様自学

天ノ谷 霙

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記されていた名前

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それからの日々は早かった。帝と奥方様は元々愛し合っていたわけではない。ただ情は存在していた。そんな相手が亡くなったことを隠し新たな妻を娶ることに、帝は罪悪感に苛まれた。ほとんどの者に隠しながらということも余計に苦しみを募らせた。それでも澪愛の女の損失は痛い。この時期に失うわけにはいかなかったのだ。高貴な身分ということもあり顔を知る者も少なかったため、臣下に混乱を招くこともなかった。代わりに亡くなったとされる女性が舞茶となっただけだ。奥方様を逃すために犠牲になった、と。後はそれを知る自分と舞茶本人が黙っていれば問題はない。問題は、ないのだ。
国の安寧の為に尽くし、その翌年から雨乞いと晴天を呼ぶ儀式は後継ぎの妹が行うことになった。とっくに嫁いだ存在であったが、奥方様不在の今、澪愛みおうの血を受け継ぐ貴重な存在として代役を務められるのは彼女しかいなかった。不意に転がって来たその役目に、何となく察していたのか彼女は何を問うこともなく、静かに引き受けた。そして国の治世を守ること十余年。引き継ぎ守られるこの国を見届けながら、ついに帝の最期がやってきた。
帝は部屋の奥に隠した帳面に、後妻の名前を記した。それは本来やってはならぬ行為。国の弱みになるかもしれない危険な行為。だが帝は諦めきれなかった。幼き頃から共にしてきた主人あるじを失い、嗚咽を漏らす程の苦しみを抱えたのにそれすらも隠し彼の方の役に立つならば、と後妻の役目を買って出た気丈な女性。彼女のその名前を、いつか後世で誰かが紐解くその日まで、忘れることのないように記しておきたかった。先祖代々、我ら帝とその直系血族しか見ることの出来ない書物に、そっと彼女の名を加えることで悔いはなくなった。
「この書物に名を書ける人物は、舞茶を除いて全て澪愛の女となるのだろう。引き継ぎ、紡がれ、時を越え、いつか忘れられるその時まで。澪愛の力は途絶えることはきっとない」
誰もいない部屋であるからか、そっと呟く。そしてそのまま寝台に寝転がり目を閉じると、そのまま安らかに息を引き取った。


ここまでが記憶。せん様の奥底に眠っていた奥方様の記憶。その筈だった。しかしどう考えても彼女が知るはずのないその先の記憶までが見えた。これは恐らく、こん様の記憶。この離れにはいないはずの紺様の記憶が流れ込んできていた。これは一体、どういうことだろうか。
開いていた筈の瞳が閉じられていることに気付き、目を開く。どうやら現世に戻って来たようだった。
目の前には涙を流す扇様の姿があった。
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