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第一章 邂逅
第八話② やがてくる、黄昏
しおりを挟むすかさず、白男の足下を確認する。
袴の下には、葦原の履き物――草履と白い足袋。急いでそこへ触れると、男は小さく「いたっ」と呻いた。
やっぱり。
そう確信し、草履と足袋を引き剥がす。案の定、いや想像していた以上のその有様に――シルヴァは絶句した。
白く、滑らかな素足には、紐状の黒い痕が無数に残っている。恐らく、先程怨霊に掴まれた時にできたものだ。今朝、寝間着姿の白男にそんなものはなかったので、間違いない。
「お前……」
全然、平気そうだったのに。一時間近く、オレを背負って歩いていた、のに。
まさか、こんな足で? と驚ききった顔で見上げるシルヴァに、お供の男は「えへへ」と苦笑した。
「ごめんね。シルヴァに、心配かけたくなくって」
「心配だとか言ってる場合じゃないだろ!」
思わず、そう怒鳴る。
神の使い的な生き物だから、怨霊の霊障など効かないのだろう。そう誤解していた、己を恥じる。
むしろ、――その逆だった。
神に近い存在だからこそ、人間よりも深刻なダメージを受けていたのだ。
それにも関わらずこのへらへら笑う変な男は、強靱な体と気力で我慢に我慢を重ねて痛みに耐えきり、シルヴァを無事なところまで運びきった。何事も起こっていないような、いつも通りの笑顔で。
まず神官へ診せるべきは、彼ではなく、この男のほうだというのに。
「馬鹿野郎!」
と怒鳴りながら、シルヴァは白男の手を引く。空になった容器をゴミ箱へ捨てると、水晶護符を握りしめた。筋力上昇の魔法を使ったのである。
そして自分より大きな男を背負い、喧噪で騒がしい通りの中へと歩き出した。
「大丈夫? シルヴァ」
「お前よりはマシだ! 魔法で筋力を上げたしな!」
そう怒鳴りながら、教会を探し、辺りを見渡した。遠くにそれらしき屋根を見つけ、真っ直ぐにそちらに向かっていく。
「なんで痛いなら痛いって言わないんだよ! そんな足で歩いて、もっと悪化したほうが、お前もオレも困るって、よく考えたらわかるだろうが!」
「……うん。そうなんだけど」
「わかってるなら、すぐ言え! お供にしろ眷属にしろ、何かあって一番困るのは主なんだぞ!」
そう叱りながら――シルヴァは己を恥じていた。一番怒りを覚えている対象は、この男ではなく、自分自身だからである。
なんて、間抜けだ。
全然、気づかなかったなんて。それどころか、どこか痛めているんじゃないかって、想像すらしていなかった。
万が一負傷していても、こいつが大人しく申告するわけがないのに。オレに心配かけないように黙っていることぐらい、この数日見ていればわかるはずなのに、それなのに「もしかしたら」って気にかけることすら、していなかった。
オレより強いのと、平気そうな顔をしているから。だから確認を怠ってしまった。
本当は、こんな酷い有様だったのに。少し疲れているからって、全然気づかずに、それどころかそんな怪我人に背負われて街まで帰ってきて。
主失格だ。
「馬鹿野郎」
背中の男ではなく自分自身に向けてそう零すと、後ろから「ごめん」と悲しそうな声が聞こえた。
込み上げる悔しさに唇を噛みしめ、それでも今は急いで教会へ向かおうとする。そんなシルヴァの耳に、ふと遠くで、誰か、彼を呼ぶ声が聞こえたような、気がした。
「……?」
聞き馴染みのある声に立ち止まり、振り返る。
誰だ? と目を凝らすと、右へ左へと歩く人々の流れの中、そこにぽつんと動かずにいる男が目に留まった。
一見、シルヴァと同じくらいか年下に見える、――よく見知った、青年。
「ジョシュア?」
名を呼ぶと、まるで、その声につられたように。ジョシュアは一歩、二歩と、近づいてくる。
やがて手が届くほど近くまでやってきた彼は、――何かが、おかしかった。
強ばった顔のまま真っ直ぐにシルヴァを見つめるその眼に、怯えとは違う、不可思議な何かが、揺らいでいる。
「……坊ちゃん」
ジョシュアの声は、微かに震えていた。
滲み溢れるその感情の正体は、わからない。ただ、いつもと様子がおかしいことだけは、確かだった。
「ど、どうしたんだ? ジョシュア」
また誰かになんか言われたのか? と気遣うシルヴァに、小柄の青年はもう一歩、近づく。何かを差し出しながら。
「坊ちゃん、これを」
「……?」
なんだろうとそれを見つめれば、封筒のようだった。
もっともシルヴァは今、成人男性一人を背負い、両手が塞がっている。仕方なく「おい、白いの」と声をかけ、代わりに受け取ってもらった。
「なんだ? これ」
と尋ねるものの、問われた本人は何も答えず、俯く。
「…………」
「ジョシュア?」
やはり、明らかに様子がおかしい。ちょうどいいタイミングで出会ったため、「補佐官殿に今日は行けないって伝えてくれ」と言付けをできたらとも思ったのだが、それどころじゃない。
――変だ。絶対に、おかしい。
体が微かに震えているし、よくよく見たら、手や服にうっすら汚れがある。
「まさか、誰かに嫌がらせでもされたのか?」
「……いえ。坊ちゃん、……僕は、」
絞り出すようにそう言うと、ジョシュアは両手をぎゅっと握りしめる。そして、何か言いかけて口を動かし――止めた。
代わりに「ごめんなさい、坊ちゃん」と答え、くるりと背を向ける。
「また、今度、お話しします」
「は? な、なんだよジョシュア! 何かあったんだろ? 今、ちょっと立て込んでるけれど、ちゃんと話を聞くから、一緒に教会についてきてくれよ! こいつの怪我、お前ならどうしたらいいかわかるかもしれないしさ」
「……ごめんなさい、坊ちゃん」
また今度。それだけ言い残して、ジョシュアは駆けだした。
待てと呼びかけるものの――その背中は見る間に見えなくなる。忙しい往来の中へ溶けるように、走り去ってしまったからだ。
「シルヴァ。あの子、追いかけたほうがよさそうだよ?」
「……わかってる」
何かが、おかしい。
早く問いたださなくちゃいけないことも、十二分に理解している。
ただ、今から追いかけて尋ねる余裕は、なかった。ジョシュアも心配だが、白男の怪我も深刻なのだ。それに、魔法で筋力は補うことはできても、怨霊に削がれた気力まではどうにもできない。
「お前の傷を何とかしてからだ」
ひとまず、こいつとオレの霊障を治さないことには、話が進まない。
いずれにせよ、明日には騎士団宿舎へ行って、今日の出来事を補佐官殿に報告する必要がある。その時、ジョシュアを探して、改めて問いただせばいい。
――まずは、こいつの怪我が先だ。
そう判断し、教会に急ごうとシルヴァもまた踵を返した。
「……本当にもう、今日は散々だ」
三歩進んで二歩どころか、三歩も四歩も下がっている。
なんて厄日だとぼやきながら、遠い頭上を見上げた。
先程まで、あれほど澄み渡っていた空の青は、徐々に、その色を移ろわせ始めている。
静かに、ゆっくりと。
まもなく訪れる黄昏に、焦がれるように。
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