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第二章 朱に交われば赤くなる
番外編① 桃李 前編 ※注
しおりを挟む花椿殿。
桃李は母である蘭玲と、同じ宮で暮らしている。
成人した皇子たちは、基本的に自身の宮を与えられそこに住まうのが本来の流れだが、半魔族でありひとの血が流れる蘭玲の扱いを知っていた桃李は、今も共に生活している。
自分にも少なからずひとの血が混じっており、皇子たちの中でも魔力が低く、武芸も術もそんなに得意ではないため、人界へ派遣されるような任務は与えられなかった。
その代わり、幼い頃に大王である父から与えられた、たったひとつの任務があった。
それは、ほとんど同じ頃に生まれた第四皇子の監視。たった二年しか違わない第四皇子である梓楽。他の兄たちとは百年以上は歳が離れていたので、ほとんど交流もなく、形式的な会話くらいしか交わしたことがなかった。
「桃李、お前は今日から兄の梓楽の信頼を得て、その行動や言動、なにを考えているかをすべて監視し、私に定期的に報告すること。鏡華にはくれぐれも気を付けろ。彼女は梓楽に近付く者を排除したがる。自分はあれに近づきもしないくせにな」
大王は桃李が首を傾げたまま見上げてくるのに対して、ふっと口元を緩めた。まだ十にも満たない幼い子供には、理解できなくとも仕方がないだろう。
おいで、と大きな手を目の前に差し出され、桃李は立ち上がり父の前まで近付いていき、その小さな手を伸ばした。
花椿殿にわざわざ足を運んだのは、聞き耳を立てるような者がここには存在しないからだろう。
最低限の従者と護衛が配置されており、大王が赴く際は人払いをするので、今の宮はいつも以上に静かだった。
蘭玲も挨拶を交わした後は、自室に籠っていた。桃李に用があると大王が言ったためである。
大きな手は小さな手をそっと掴み、そのまま片腕で抱き上げられる。いつも見ている景色が一変し、高い位置にある視線に戸惑う。
赤い瞳からは先程までの厳しさは消え、どこか優しささえ垣間見える微笑を湛えていた。
「簡単なことだ。梓楽と仲良くなって、たくさん話をすればいい。あやつが心を開くまで、時間はかかるだろうがな。できるかい?」
「兄様と、仲良しになればいいのですか?」
今まで一度もまともに話したことがない兄と、はたして仲良くなれるだろうか?他の兄たちとさえ、挨拶以外の会話をしたことがないというのに。
不安しかないが、できそこないの自分に父が与えてくれた初めての任務。仲良くなって交わした言葉を報告すればいいのだから、難しいことではないだろう。
「でも······兄様は、私なんかとお話、してくださるでしょうか?」
「それはお前の頑張り次第だろう。お前が頑張れば、お前の母も他の妃たちのように優遇される。お前には何よりの褒美だろう?」
母はひとの血が混じっている半魔族であるため、大王は別として、他の妃たちからはかなり冷遇されていた。
自分が頑張れば、母は報われるのだろうか。それなら、やるしかないと桃李は心を決める。
その日から、皇子たちが集められる場では必ず梓楽と挨拶を交わすようにした。
魔王候補第二位でありながら、梓楽の周りには高官たちも近寄りたがらず、他の三人の皇子たちも関心がないようだった。
それもそのはずで、梓楽は挨拶をされても誰ともひと言も言葉を交わすことはなく、素通りしていってしまう。高官たちは一応形だけの挨拶はするが、それ以上の余計なことはしなかった。
それが日常と化していたので、桃李はまったく気にも留めていなかったのだが、改めて状況を見てみると不思議な光景だった。
仮にも魔王候補、赤い瞳を持つ皇子だというのに、第一皇子の玖朧との扱いの差に違和感さえある。もちろん、先に生まれもう成人している玖朧が期待されているのは理解できる。
彼は完璧すぎる皇子だった。
だからだろうか。いつも俯いていて挨拶さえまともにできない梓楽は、あくまでも第二候補、つまり玖朧の"予備"としての扱いなのだろう。
挨拶を交わしても何度となく無視されたが、ある日偶然、衝撃的な場面を目撃してしまう。
紫烏殿は花椿殿の近くにあり、途中までは同じ路を辿る。大王から与えられた任務は未だ思うようにいっておらず、桃李は護衛も付けずにこの辺りを意味もなくうろうろしていた。
もしかしたら、紫烏殿から出て来た梓楽に逢えるかもしれない。そうしたら、偶然を装って会話ができるかもという子供ながらの発想であった。
元々花椿殿の護衛も従者も最小限しかいなかったので、抜け出すのも思った以上に簡単だった。
目の前に続く整えられた路は、十字に分かれており、高い塀が迷路のように方向感覚を失わせる。何年も通っている道だが、いつも初めて来たような気分になって、桃李は右の道に足を向ける。
そんな中、ガシャン!という陶器が割れるような音が響き、桃李は向けていた足を止める。その音は紫烏殿の方から聞こえて来た。そのすぐ後に、複数の悲鳴が上がる。
まだ幼い桃李は響いた悲鳴に対して、単純に"怖い"と思ってしまった。なぜなら、それはあまりにも悲痛な叫び声で、何度も繰り返しては、そのどれもが途中で途切れてしまうのだ。
ただ事ではないと想像させるには十分で、思わず逃げ出したくなったが、聞こえてきたのが紫烏殿ということもあり、何とか踏み止《とど》まる。
(怖いけど····とにかく、覗いてみよう)
薄桃色の羽織をぎゅっと握りしめ、桃李は右の道から左の道へと踵を返した。あり得ないことだが、万が一賊でも入り込んでいたら大変だし、勘違いならそれで良いと思ったのだ。
紫烏殿の門の隙間から、中の様子が覗えた。その光景に、思わず口を塞ぐ。目の前に広がるその凄惨な状況に声を上げそうになったのだ。
殺風景な庭に佇む小さな影。その少し先に満足そうな笑みを浮かべて立っている、紫色の優雅な上衣下裳を纏う女性。
あれは、梓楽の母である鏡華だ。庭の真ん中で赤を滴らせた剣を握り締め、立ち尽くす梓楽の後ろ姿が見えた。
その周りでぴくりとも動かない者たち。纏っている衣を見るに、護衛の武官や従者たちだろう。状況が全く呑み込めない。
そこには心臓を貫かれ、無残にも絶命している者たちの姿があった。いったい何が起こっているというのか。
「良い子ね、梓楽。これであなたに近付く者はいなくなったわ。わかったでしょう?その者たちはお前のせいで死んだの。お前は一生、誰とも関わらずにひとりで生きていかないと駄目よ?お前は誰にも触れられることなく、私以外に愛されることもなく、ただの駒として大王様に一生を尽くすの」
梓楽は鏡華の言葉に対して何か言うでもなく、ただ剣を強く握り締めていた。
桃李は鏡華に対して、今まで美しくて怖いひとという漠然とした印象しかなかったが、その言葉を聞いて、その眼を見て、狂った愛情で梓楽を縛る、恐ろしいひとという現実を思い知る。
狂気。
これが梓楽にとっての日常なのだろうか?
自分とはあまりにもかけ離れすぎていて、想像もできない。蘭玲はいつも優しく微笑みかけてくれるし、私の可愛い桃李と言って頭を撫でてくれる。たくさん褒めてくれるし、甘やかしてくれる。
鏡華は興味が無くなったのか、侍女を連れてさっさと奥へと消えていった。それを待っていたのかのように、握っていた剣が地面に音を立てて落ち、繋がれていた糸が切れたかのように、梓楽もその場に崩れ落ちる。
「ごめ····な、さい········ごめ······っ」
カタカタと震える小さな身体を自分で抱きしめるように、膝を付いたまま地面に伏せて蹲る。それはまるで、自分の周りで息絶えている者たちへの懺悔のように見えた。
状況はよくわからないが、鏡華が言っていたことを読解するに、自分に善くしてくれただろう護衛や従者を、彼自身の手で残酷に殺させた、ということだろうか。
こんなこと、赦されるのだろうか?
宮ごとに配置されている武官や従者は、確かに皇子や妃の所有物ではある。しかしその扱いが自分の宮とあまりにも違いすぎて、幼い頭では理解できない。あんな状況に置かれている梓楽を、どうやって救ってあげたらいいのか。
救う?
自分で考えて、自分で問いかける。そんなこと、できるわけがない。
(父上は、酷い扱いを受けている兄様を心配して、私にあんな任務を与えたのかな?)
ふと、父の言葉が頭を過った。
『鏡華にはくれぐれも気を付けろ』
あの時はその意味を知りもしなかったが、今なら解かる。
蹲ったまま震えている梓楽を見守る。立ち上がるまで、ずっとその姿を見つめていた。できることなら駆け寄って、声をかけてあげたかった。けれども、ふたりを隔てる壁はぶ厚く、どうすることもできない。
なにより、もし鏡華に見つかったらと思うと、怖くて動けなかった。
この時はどうすることもできず、やがて立ち上がった梓楽が、周りに横たわる無残な姿の死体を弔う姿を見届け、その場を後にした。
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