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第二十一話 あの日、魔界で

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 雲のない青い空。秋晴れの昼下がり。季節も天気も関係のない天窓しかないその部屋の中で、翠雪ツェイシュエは必要な資料を本棚から探すという楽しみに興じていた。

 今日は気分転換に仙薬の研究でもしようかと思い、地下の書庫を漁った後、自分の部屋の本棚から関連の書物を次々に床に積み上げていく。昨日までは綺麗に整えられていた本棚や床は、この数刻の内に見る影もなくなっている。翠雪ツェイシュエにとっては綺麗に整えられた場所よりも、ごちゃごちゃとしているこの状態の方が集中できるし気分が上がるのだ。

 資料や書物が散乱した状態がどんどん悪化して動線を塞いでいく。また天雨ティェンユーヤンに小言を言われそうだが、そんなことはお構いなしだった。翠雪ツェイシュエに言わせれば、なぜ大事な資料を勝手に片付けてしまうのか不服でしかなかった。手伝ってくれるのはありがたいし、毎回資料を探す楽しみが増えたのはいいが····。

 本棚の一番高い場所を見上げ、翠雪ツェイシュエはしばし考える。踏み台を使ったとしても、自分にはぎりぎり届くかどうかという高さ。いつもならあの高さに置いてある書物は天雨ティェンユーに取ってもらうのだが、今は風獅フォンシーからの任務で外に出ていた。

 この二年で彼は自分よりずっと背が高くなり、雰囲気も大人っぽくなった。十八歳で自分よりもふたつ下だというのに、並ぶと明らかに彼の方が年上に見られる。市井しせいで任務のために依頼人と会う時も、どちらが師でどちらが弟子なのか、外の者たちには見分けがつかないようだ。

 母親は大好きだったが、幼い頃から母親似の中性的な顔立ちが嫌いで、細身なのもきっと悪い。ヤンも最初に会った時は自分の事を『お嬢さん』などと勘違いしたくらいだ。それが周囲の印象といっていいだろう。

 しかも天雨ティェンユーが、必要以上に自分に対して"女性扱い"するせいで、ますます誤解を生むのだ。例えば、町を歩いている時にぶつからないようにそっと引き寄せたり、重い物を持たせてくれなかったり、無言で頬や髪に触れてきたり、とにかく様子がおかしいのだ。

 だがそれとは別に、上から物申す態度は相変わらずで、生意気で命令口調なのは出会った時から少しも進歩していない。これは自分が彼に『師』と思われていないのが原因だろう。

(まさかとは思いますが、この二年の間、ずっと一緒にいたことで昔のことを思い出した、とか?)

 二年前のあの日。
 魔族の皇子と名乗った緑葉リュイェの秘密の部屋で目にした、鉄の鳥籠に囚われていた紅蝶。

「その紅蝶は、元々お前のものだ。あの時の出来事を記録している、事件の真相を知る貴重な証拠」

 緑葉リュイェは鳥籠に貼りつけられた封印符を、ゆっくりと一枚ずつ剥がしていく。その言葉に対して、翠雪ツェイシュエ緑葉リュイェの横で眉を顰める。触れたままの指先で気持ちを悟られないように、冷静さを装うのが精一杯だったが、彼は特に気にもしていないようだった。

 封印符が剥がされ、鳥籠の扉に手をかける。キィという音と共に開け放たれた扉から、紅く光る紅蝶がひらりと翠雪ツェイシュエの方へ迷うことなく飛んで来た。

「どうして、私の許に?」

「言ったろう? それはお前のものだ。あの時、俺がお前から奪った。あのままお前の傍にいたら、あいつに消されていただろうからな」

「そんな記憶、私にはありません。この紅蝶も、なにも。私の中には欠片も存在しないんです」

 翠雪ツェイシュエが無意識に翳した指先に吸い寄せられるように、舞い降りた紅蝶が人差し指の上でその翅を休める。揚羽蝶くらいの大きさの紅蝶は大人しく、なんだか可愛らしいと思った。

ある者・・・に都合よく消されているからな。俺はその者と協力関係にあるが、そろそろ潮時だと思っている。こちらが得られる利が、お前との邂逅によって終了したと言ってもいいだろう。あの魔草の研究成果はお前のその状態を確かめられたことによって、成功を意味する」

「····ある者。魔族であるあなたに協力を持ち掛けたその者が、私の両親が殺された事件の首謀者ということですね」

 そしてここにいる緑葉リュイェもまた、母、翠霧ツェイウーの仇である可能性が増した。その顔半分を覆う呪詛が紛れもない証拠。それは母が残した印であり、執念のようにも思える。父やあの時駆け付けてくれたひとたちを殺したのも、彼なのだろうか?

「魔草を使って実験的にお前の記憶を改変させるきっかけを作った俺を、恨むか? だが賢いお前ならわかるだろう? 俺を殺せばお前も瘴気で死ぬ。そうなれば真実は隠されたまま、表に出ることはない。俺にとってお前は、愛しい実験体。実験体が主である俺を殺すことなどできない」

 緑葉リュイェの言うことはもっともで、ここで感情に任せて彼に危害を加えれば、翠雪ツェイシュエの方が不利になるのだ。今やるべきことは、彼から少しでも情報を引き出し、彼のいう"ある者"の正体を知ることの方が大事だった。

「取引をしませんか?」

 紅蝶を見つめたまま、緑葉リュイェに視線を合わせることなく翠雪ツェイシュエは呟いた。緑葉リュイェはこうなるだろうと予測していたのか、特に驚く様子もなく表情も変わらなかった。

「あなたが欲しいものはなんですか? 望みはありますか? それを与える代わりに、ひとつ、私のお願い・・・を聞いて欲しいのです。命や身体の一部とか、そういうもの以外なら、要求はのみます」

「お前の望みとは?」

 緑葉リュイェは駆け引きを楽しむかのように、翠雪ツェイシュエに視線だけ向ける。細められた薄緑色の右眼。命や身体の一部以外と言ったのは、この部屋の状態を見てあり得そうな要求だったからだろう。ますます興味が湧いた緑葉リュイェは、訊ねる。

「私の望みはひとつだけ。私が失ったと思われる記憶を取り戻すこと。あなたの魔草の研究資料をください。あとは自分でなんとかします」

 翠雪ツェイシュエは真っすぐに緑葉リュイェを見つめ、自分の望みを告げる。それは緑葉リュイェが想像していたものとは少し違っていたようで、首を傾げて不思議そうに見下ろしてきた。

 魔草の研究資料を渡すということは、緑葉リュイェにとって大したことではなかった。もちろん資料の複製は作ってある。そもそもこの研究に興味を抱く者など自分以外おらず、それを目の前の者に譲ることに抵抗もなかったからだ。

 しかしそれを知ってか知らずか、翠雪ツェイシュエは自分の望むものを与えてくれるという。緑葉リュイェの望みもただひとつしかなかったが、もう少し目の前の者との駆け引きを楽しむことにするのだった。


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