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第十九話 守りたいもの
しおりを挟む翠雪が与えられている別棟の部屋は、他の師たちに比べたら実は狭く、そういう細かな気遣いは風獅の配慮でもあった。師としては最年少であり、しかも外部から連れて来たある意味部外者である翠雪。同じ試験を受けさせ師という肩書を与えたものの、長年門派で腕を磨いて来た者たちにしてみれば、面白くない状況だろう。
とはいえ、道士としての実力は言わずもがな。他の道士や門下弟たちは気付いていないが、師という肩書を持つ者たちはさすがに気付いていた。掌門である風獅の客人であり、しかも煉丹術の研究をしているともなれば、翠雪のあの態度にも目を瞑り、その優遇を認めざるを得なかった。
そうやって表向きは下手に関わってこない他の師たちだが、言いたいことは溜まりに溜まっているだろう。なにせ、相手はあの翠雪なので、微妙に空気を読まずに口で言い負かしてしまうのだ。ついこの前も、あの素行の悪い師兄として有名な、慶明と栄莱に対して「誰ですか?」と本気で訊ねていた。
翠雪の方がもちろん立場は上だが、話を聞くにどうやら同期で、顔を合わせる度に絡んでいたという。それでも名前どころか顔すら憶えてもらえないふたりに、天雨でさえ同情しそうになった。もちろん、あのふたりに対しては天雨も嫌な印象しかなかったため、スカッとしたという方が正しいが。
(はあ······寝るなら寝台で寝ろってあれほど······)
天雨は本棚に占領されつつある翠雪の部屋に立ち入るなり嘆息し、頭を掻いた。つい三日前に陽と共に片付けたはずの床が、すでに書物と竹簡、巻物やらなにやらで動線がなくなっており、その奥でそれらに囲まれた状態で猫のように縮こまって眠っている翠雪の姿を目にするなり、だんだん苛ついてくる。
(そもそも、この量の資料を収めるには、この部屋は狭すぎるだろう?ここの真下に秘密の書庫があるとしても、だ)
元々この建物自体がそういう構造で、門派の倉庫のような役割をしていたらしい。今は新たな場所に別に造られている為、地下に保管されているものは全部、翠雪の研究の資料や道具、まったく関係のない書物だったりする。
天雨も陽も意外に書物には興味があり、暇な時に読んでいたりもするので、一概にガラクタとは言い難く、逆にこんな風に床に散乱させる翠雪の気が知れなかった。
本人曰く。
「これは全部必要なもので、すぐに手に取れるように置いているだけです」
だそうだ。片付けられない者の典型的な言い訳である。
それはさておき、水を汲みに行ったきりなかなか帰って来ない陽を待つまでもなく、天雨は足元の書物を無言で拾い上げ、横に積み上げていくという作業を淡々と繰り返し、翠雪までの動線を確保していく。
(······最近、ますます様子がおかしい気がする)
特に風獅への態度がよそよそしい。ふたりになにがあったのか、知りたいという気持ちと知ったところでどうにもならないという気持ちでもやもやした。二年前のあの日を境に、なにかが変わった気がする。自分への態度もそうだ。
時々、油断しているのか可愛らしい笑みを見せることがある。それは同年代の青年が見せるようなものではなく、彼の中性的な美しい容姿がそうさせるのかもしれないが、天雨はその度にあの少女を思い出してしまうのだ。
あの夢の続きはもう見れなくなった。その代わり、少女との些細なやり取りを夢で見るようになる。それは決まって、翠雪が口にした言葉だったり行動が引き金になっているのは間違いない。
薄々だが、天雨はあの少女が翠雪なのではないかと思うようになっていたが、そもそもどうしてあの夢の中の少女を『少女』と認識しているのかわからなかった。俯瞰で見ている幼い頃の自分の思考は、目の前の少女を『少女』としか思っていないのだ。
(けど仮にあの夢が俺の記憶の一部だとして、俺と翠雪が一緒にいたのなら、なぜ風獅様はそれを隠す必要がある?)
翠雪の話を聞かないことには確かめようがないが、両親が殺された時の話をあまりしたがらないため、こちらから訊くのも気が引けた。それに、そうである可能性があるというだけで、夢が本当の記憶であるという証明はできない。
やっとのことで翠雪の前までやって来ると、天雨はその場に片膝を付き、そっとその薄い肩を揺する。元々細身であったが、少し瘦せたような気がする。陽が率先して管理をしてくれているのだが、やはり本人が直さなければどうにもならないこともある。
すーすーと呑気に眠っている翠雪を見つめ、その目尻に涙がないことに安堵すると、揺するのを止め、そのまま軽い身体を抱き上げた。ゆっくりと立ち上がり持ち上げ直すと、普段は何の興味もないという冷めた表情しか見せない秀麗な顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「······間抜けな顔」
この部屋に差し込む唯一の光が、天窓から注がれている。その下で先程まで眠っていた翠雪は、まるで日向ぼっこをしている猫のようだった。そんな中、カタンとなにかを床に置くような音がし、足音が近づいてきた。足音の主は、部屋に入って来るなり視界に入った状況に対して、怪訝そうに眼を細める。
「戻りましたーって、またですか? 翠雪さま、いったい今回は何日徹夜していたんでしょう」
「お前が知らないなら俺が知るわけないだろう?」
そもそも、朝から晩まで監視しているわけではないのだ。陽は天雨に抱き上げられている翠雪の姿を見て、はあと呆れた顔で首を振った。
「あ、そうだ。どうやら、掌門の弟さんが戻って来るそうですよ?」
「弟? 確か、何年も閉関しているって聞いたことがあるが」
天雨がここに来た頃にはもうすでにいなかったため、一度も会ったことはない。風獅もあまり弟のことは話題にしていないようだったが、どんな人物なのかは少し気になった。顔が似ているということと、歳が五つ離れているということだけは知っているが、それ以外の情報はない。
「風獅さまができたひとだから、弟さんももちろん裏表のない尊敬できる御方なんじゃないかと俺は思うんですけど。天雨さんはどう思います?」
「さあ。特に興味もないし、この先関わることもないだろう」
「本当、翠雪さま以外興味ないんですね、天雨さんって」
は? と天雨が珍しく間の抜けた声を出す。誰が、誰にしか興味がないって? と訊き返そうとしたが、陽は肩を竦めてやれやれと嘆息した。
「だってそうでしょう? いっつも翠雪さまを見てるし、翠雪さまに近付こうとするひとたちを牽制してるじゃないですか。怖い顔して後ろに立って、あからさまに不機嫌になるし」
この前だって、道士たちが翠雪の悪口をわざと自分たちに聞こえるように言っていたのを聞いて、「あのひとの何を知っている?」と言って、恐ろしく冷たい眼でその場を凍り付かせていた。本人がいたら、言わなかったかもしれないが。
「あ、俺にはその睨みは効きませんからね。もう見慣れましたし、その気持ちを察すれば、寧ろ微笑ましくさえ思います」
十五歳の陽は、周りの者たちに比べてどこか達観しており、天雨だけでなく翠雪にさえ臆せず意見を言うような少年だった。のんびりとした口調で言うものだから、怒る気も失せてしまう。
「もしかして気付いてないんですか? あ、すみません。じゃあ聞かなかったことにしてください」
おい、と天雨は揶揄われていることに気付いたのか、眉間に皺を寄せて睨む。しかし背を向けて前を歩く陽にはまったく効果はなく。腕の中で眠る翠雪に視線を落とす。
最初はただ利用しようとした。
夢の中の少女がもういないと絶望した時、それを見せた翠雪のせいにした。けれどもこの二年間、少しずつ変化していった気持ち。
あの少女が彼であればいいと願うほどに。
あの時、翠雪が魔界に連れ去られた時から、本当は気付いていた。離れがたい存在。失いたくない存在。守りたい存在。何度も心の中で否定したが、無駄だった。これは、一方通行で報われないものだと知っている。だからこそ、傍にいられるならそれだけで十分だった。
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