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第一章 虹色の瞳

第一話 異世界にも人がいる

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『あなたは新しい世界へ向かうことになりました』

 いきなりそう言われて、ちゃんと対応できる人はどうかしてると思う。

 わたしは薄紫のもやもやの中に浮いていた。もやもやに包まれているような感覚はあるのに、手を伸ばしても触れることはできない。

『新しい世界に行くにあたり、どのような能力が欲しいですか?』

 エコーのかかった女の人の声は聞こえる。しかし姿は見えない。わたしが最も苦手な、電話と完全に一緒だ。

 自分から電話をかけることは絶対にない。かかってきた電話も無視する。そんなわたしが電話口でできるのは、「はい」と答えることだけだ。

『あの、聞こえていますか?』

「あ、はい」

 こんな感じだ。

 この時代に声でやりとりするなんて、神様か何かわからないけど、陽キャが過ぎる。文字でやり取りすれば、ログが残るし、考えてから答えることができるっていうのに。

『聞こえているなら、答えてください。どのような能力が欲しいですか?』

「えっ、あ、の……」

 エコーがかった声にいら立ちの色が見えて、わたしの喉は詰まった。文字でのやりとりなら、こういうことも起こらない。

『何も答えないということは、何もいらないということで、よろしいですか?』

 頭に響く声は、どんどん早口になっていく。そんなことをしても、わたしがしゃべれなくなるだけだとわからないのだ。

「えと、まっ……」

 わたしも内心かなり焦っていた。異世界といえばモンスターがいたり、治安が悪かったりと、生きるだけでも大変なのが定番だ。ここで強い能力をもらわなければ、わたしなんかでは一日と生きられないだろう。

『そうですか。わかりました』

(何も言えてないのに、わかってくれた……? さすが神様!)

 わたしは心の中では饒舌なのだ。

『神である私と、コミュニケーションを取ろうとしないということは、私の加護など一切いらないということですね?』

(何もわかってなかった!)

 わたしは頭がとれるんじゃないかという勢いで、首を横に振った。

『世界の知識も、言語も文字も、加護なしでは何一つわからないでしょう。しかしそれは、あなたの選んだ道です。さぁ、お行きなさい! 寡黙な少女よ!』

「まっ……」

 強い落下感と同時に、周りのもやもやが晴れていく。

 そう。わたしは超が付くほどのコミュ障なのだ。


~~~~~~~~~~~~~~~


 気が付くと、わたしは星空を見上げていた。落下感はもうない。

(ここが、異世界?)

 星の一つ一つが、光の輪っかに囲われていた。周りに明かりがないおかげか、見える星の数も多い。光が強調された星たちは鮮やかで綺麗だったけれど、わたしは下品なイルミネーションを思い出して嫌な気分になった。

(たしか、わたしは神社で休憩していて……)

 今は土の上に仰向けになっていた。

(最悪。せめて汚れないところに転移させてよね)

 起き上がって土を払う。着ているものは転移前と同じ黒いジャージだ。長い髪の手触りも、ごわごわしたままだったので、本当にわたしのまま転移したのだろう。

(荷物がない?)

 財布とスマホはポケットに入っていたけれど、持ち歩いていた黒革のアタッシュケースがなくなっていた。

(離れた場所に置いたんだっけ?)

 転移する前のことだ。

 わたしはアタッシュケースを捨てるために、奥多摩の山に入った。真夏に黒いジャージという、間違った選択をしたせいで、あっという間に体力は奪われた。体中に張り付くジャージの感覚は、まだ体に残っている。

 そんなときに目の前に現れたのが、くたびれた鳥居だった。わたしはその足元にアタッシュケースを置き、奥に見えた小屋に飛び込んだ。板の床が冷たくて気持ちよかった。そこまでは覚えている。

(鳥居……? 近くにはなさそうだけど)

 わたしのいる場所は、リビングより少し広いくらいの空き地で、周りは森に囲まれていた。森の中は真っ暗だ。
 
(どうすんのこれ?)

 とりあえず何か試さなければと、周りに誰もいないのを確認して、咳ばらいをした。そして右手を前に掲げて――

「ス、ステータス!」

 全身の勇気を振り絞って叫んだ。けれど、パラメーターが表示されたり、持ち物が可視化されたりはしない。

「マップ!」

 何も起きない。

「何か起これ!」

 以下同文。

 念じれば何か起きるのではと、頭が痛くなるまで試してみたけれど、疲れるだけで終わった。

(何をどう念じればいいのか、わからなくなってきた)

 森に近寄って、闇の中を覗き込む。町でも見えれば目的地になるだろうと思ったのだけれど、灯りが一つとない暗闇が広がっているだけだ。

 そのまま森の縁を歩いていると、森が途切れて道になっているところがあった。

 二人並んでギリギリくらいの狭い道だ。入口に、四角い闇が転がっている。

(あれ? これって……?)

 わたしのアタッシュケースだ。

(黒革のアタッシュケースを手に入れた)

 心の中でナレーションを入れ、気分を盛り上げる。そうでもしないと不安に押しつぶされそうだった。

 小柄なわたしの腰くらいの高さのある、大きなアタッシュケースを、片手で持ち上げる。別にわたしが力持ちなわけではない。このアタッシュケースは、教科書の詰まった鞄くらいの重さしかないのだ。

(軽くはないんだよ……)

 捨てるつもりの物だったけれど、大切な物でもあるので、ここに置いていくつもりはない。

 日が上がるまでここで待つか。このまま道を進んでみるか。あまり悩まなかった。

(どうせ日が上がっても、この道に入るんだろうし)

 わたしは道に入った。

 下り坂になっていて、転生前に登った山を下りている気分だ。このまま下れば、転生前に使った駅に戻れるのではないかとすら思える。

 でもそんなのは夢幻だった。明らかに来たときよりも坂は緩やかだし、足場もいい。わたしが上ったのは険しい山道だったけれど、ここはまるでハイキングコースだ。自然にできた道というわけではないのだろう。

 人が作った道だとしたら、近くに人里があるのかもしれない。それはわたしにとって、いいニュースでもあり、悪いニュースでもあった。

(人がいるところに行ったら、人と話さないといけない)

 そう思うと足が重くなる。さっき神様とコミュニケーションをとったから、アニメをワンクール観るくらいの休息を挟まないと、誰かと話すことなんてできない。

 そう思っているときに限って、前に明かりが見えてくるのだ。

 それは小さな小屋だった。木製の壁に三角屋根が載ったシンプルな小屋で、イベント時に校庭に建てられるテントくらいの大きさだ。屋根の近くに、アタッシュケースの厚みくらいの天窓がある。そこから弱く揺れる光が漏れていた。

 木でできた扉の前に立ち、わたしは唾を飲み込んだ。

 セルフレジのないお店で『どうしても必要な物じゃないし、いま買わなくてもいいか』と心の中で唱えたのは一度や二度ではない。そんなわたしが、閉じられた扉の先にいる、誰とも知らない人を訪ねられるだろうか。

 答えはNOだ。

(他にも家はあるかもしれないし、そこを見てからでもいいよね)

 三歩離れてから、またドアの前に戻った。

(うん。先送りにしてるだけっていのはわかってる。ここで助けを求めた方がいいっていうのもわかってる)

 小屋の周りは木が刈られ、ちょっとした広場になっていた。けれど他の建物があったりするわけではない。集落の一部というよりは、ハイキングコースの休憩所といった感じだ。近くに他の家があるようには思えない。

(でも悪い人が中にいるかもしれないし……いや、いい人だったとしても怖いんだけど)

 こうやってグダグダ考えているうちに、小屋の中の人がわたしの存在に気付いて、勝手に状況を把握してくれないだろうか。そして何も聞かずに、最善の行動を紙に書いて渡してくれないだろうか。なんなら一人での食事と、一人で快適に過ごせる場所を、提供してくれたりしてくれたりしないだろうか。

 待っていても、その願望が叶う気配はなかった。電波を失い、ほとんどの機能を失ったスマホを眺めて時間をカウントする。

(あと十分だけ待って、何もなかったらノックしよう)

 十分経った。

(さすがに短すぎたかな。あともう十分待とう)

 十分ごとにそう思って、目標時間が後ろへ流れていく。それを五回繰り返して、あてになるかわからない時計が二十時を過ぎる。

 わたしは覚悟を決めた。

 なんと、自分から扉を叩いたのだ。

「――――――――」

 扉の奥から細い声が聞こえる。何を言ったのか聞き取れなかったけれど、女の人がいるのはわかった。

 近寄ってくる足音と、わたしの心臓の音が大きくなっていく。喉の調子が一気に悪くなっていくのを感じた。咳払いをしても、一回や二回じゃ治らない。

 扉が音を立てて揺れる。

 三回目の咳払いと同時に、扉が開いた。

「うっ……あ……」

 相手の姿も見る前に、わたしの声は喉でつっかえた。わたしなんかが、先手で挨拶をかまそうとするからこうなるのだ。

 現れたのは色素の薄い――というのがこれ以上なく似合う女の子だった。暗い中でも肩にかかる髪が黒でないのはわかるし、インドアなわたしよりも確実に肌が白い。パッチリと開かれた目の色までは、暗くてわからなかったけれど、きっと黒ではないのだろう。歳はたぶん、わたしと同じくらい。白いワンピースがよく似合っている。

 その子は小さな口元に笑みを張り付けたまま、固まった。

 ジャージ姿の女が突然訪ねてきて、何も言わずに立っているのだ。当然といえば当然かもしれない。

「あ……う、その…………」

 何か言わなければと思っているのに――むしろ、そう思っているせいで声が出ない。何のために扉を叩いたのか。それすらも頭から抜けていた。

 女の子はにっこりと笑う。

「――――――――」

 女の子の声は大きくなかったけれど、よく通る鈴の音のように、耳にはっきりと届いた。それなのに何を言ったのか全く分からない。それほどまでに、わたしの頭は回っていなかった。

「え……? な、なに?」

 言ってから、とても失礼なことをしたと気がついた。聞き取れなかったとはいえ、勝手に訪れた奴が『なに?』だなんて。

 でも女の子は嫌そうな顔をしなかった。まるでこっちの言ったことがわからなかったように、首をかしげる。そして何かに気づいたように、目と口を大きく開いて、手を胸の前で合わせた。わたしにわかることは、女の子が嬉しそうに笑っていたということだけだ。

「――――――――――――――――――――――」

 笑い声の混じった女の子の声は、まるで透き通った飴玉のようだ。簡単な自己紹介ができそうなくらいの話を聞いてやっと、なぜ女の子の言っていることが理解できないのかわかった。

 これは日本語じゃない。

 わたしは神様の言っていたことを思いだした。

『世界の知識も、言語も文字も、加護なしでは何一つわからないでしょう』

 わたしを送り出す寸前に、たしかにそう言っていた。

(え? わたし、言葉すらわからないの?)

 まさか能力がないだけではなく、そんなハンデまで背負っていたとは。

 けれどすぐに気づいた。

(あれ? どうせ人となんて話せないから、意外と困らないのでは?)

 むしろ話さなくていいのなら、嬉しいまである。とりあえずわたしが考えるべきことは、人と関わらずに生きていく方法で――

「え……!」

 突然手を取られて、心臓が止まるかと思った。女の子はわたしの手を軽く引く。そして逆の手を、小屋の中に向けて伸ばしている。

(中に入れってこと?)

 わたしがぼーっと見ていると、女の子は少しだけ強く手を引いた。わたしはされるがままに、小屋へと踏み込んだ。
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