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第三十三話 恥ずかしいこと

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 雨の音は嫌いではなかった。家の中で聞いていると、守られている感覚があって安心する。窓が暗くなってしまうのだけが難点だが、落ち着いた空気を作ってくれると思えばそれも利点かもしれない。

 畳の上でちゃぶ台を挟んでお茶を飲んでいると、余計にそう思える。

「タダで水を配るなんて嫌だー!」

 落ち着いた――という言葉とは完全に真逆の元気な声が部屋に響いた。言っていることは完全に文句なのだが、雨雲でも吹き飛ばしてしまいそうな明るい声なおかげで、不快な印象はない。

 珠は温かい湯呑を握ったまま、膝立ちになっているハシルヒメを見上げた。

「仕方ないでしょ。お祭りである以上、ただ走らせて『はい。おしまい』ってわけにはいかないの。給水所用意したり、記念品を用意する……っていうのは難しいかもしれないけど、少なくとも『参加したい』って思う何かはしないと」

「わたしみたいな立派な道を走れるだけで感謝するって。大丈夫だよ」

 ハシルヒメは音が鳴るほどの勢いで畳へと腰を下ろし、お茶をすすった。和装の神さまがお茶を飲んでいるわけだが、雅さのかけらもない。

 珠もお茶をすすって、ため息をついた。

「今だって走ってる人なんて一人もいないのに、よく言うよ。確かに広い参道だから、走るのに向いてはいそうだけど」

 参道の広さだけなら、境内の横を走っている三車線の道路に見劣りしない。前に翠羽が車で拝殿まで来れたのも、広い参道のおかげだ。

「距離も結構あるよね。どれくらいあるの?」

「え……? 恥ずかしいからナイショ」

 ハシルヒメは頬に手を当て、顔を横に向けた。

 珠は眉をひそめた。

「『え……?』はこっちのセリフ。道の長さ聞いただけなんだけど」

「もう! 珠ちん忘れたの!? わたしは道の神さま。桜雷神社の参道であり御神体でもある道はわたし自身なんだよ。道に長さを聞くなんて、女の子に体重聞くのと一緒だってわからない?」

「わかるか! せいぜい身長聞いたくらいの感覚だよ!」

 珠は深く息を吸ってからお茶を口に含み、心を落ち着かせた。

「わかった。じゃあ地図はある? さすがにマラソンやるのに、距離を知らないのはマズい」

「お、珠ちん無理やり聞かないの? デリカシーあるね」

 珠は首を横に振った。

「サバ読まれたら面倒だから、自分で調べるの。地図がなかったら定規とかでもいいよ」

「定規でちまちま測るの? そこまでしてわたしの長さを知ろうとしてるの、ちょっと怖いんだけど」

 ハシルヒメは自分で両肩を抱き、わかりやすく震える。

 珠は深く溜息をついた。

「そんなことするわけないでしょ。大きさのわかる物がどれくらいの大きさで見えてるか測れば、距離がわかるの。スポッタースコープがあれば楽なんだけど、無いでしょ?」

「すぽった……? なにそれ?」

「狙撃するときに、対象との距離を測るために使うスコープ」

「そげっ……!」

 ハシルヒメが膝立ちに戻り、両腕で大きくバッテンを作った。

「ウチは非武装だから、そんな物騒なものはないよ! 持ち込みも禁止!」

「ただの距離測る道具なんだけど。それにわたしはお小遣いも貰ってないから、自分じゃ用意できない。心配しないで」

「そういえばそうだった。地図は古いのならどこかにあったと思う。定規も社務所のデスクに――」

 あごに指をあててぽつぽつと応えていたハシルヒメだったが、途中で何かに気付いたように息を吸った。

「って! わたしの長さ知られちゃうじゃん! ダメだよ! ダメ!」

「別に道具がなくたって、距離を測る方法なんていくらでもあるから、抵抗するだけ無駄だと思うけど」

 珠が頬杖をついて、じっと見上げると、ハシルヒメが「くぅ!」と謎の鳴き声を上げて縁側とは反対のふすまに目を向けた。

「ハバっちぃ!」

 そう呼ぶと、ふすまが勢いよく開いた。

「はい! お菓子でもこぼしましたか? すぐに箒を使ってください!」

 ハバキが両手に持つ箒を、満面の笑みで前へと突き出す。ハシルヒメは首を横に振った。

「違う! 珠ちんがイジメるの! わたしの恥ずかしいことを無理やり聞き出そうとする!」

「人聞きの悪い言い方しないでよ。マラソン祭するのに必要なことを聞いてるだけ。別に変な意味は――」

 珠が反論しているとハバキは突き出していた手を引っ込め、満面の笑みを今の天気のような暗い表情に変えた。

 珠は思わず駆け寄った。

「だ、大丈夫? 今日は天気が悪いから外の箒掛けをやめちゃったけど、また天気がよくなったら箒使うから、元気出して? 別にずっと使わないわけじゃないから」

「本当ですか?」

 ハバキの上目遣いで見て来たので、珠は三回頷いた。

「うん。ホントホント。今日まで毎日使い倒してたから、一日使わなかっただけで不安になっちゃったんだね」

 ハバキの表情が一気に明るくなる。

「そうかもしれないのです。ハバキもダメですね。使われないことには慣れていたと思っていたのですが」

 ハバキの機嫌が直ってほっとしている珠を、抗議の目で見ている人――いや、神がいた。ハシルヒメが頬膨らませて、機嫌悪く珠を見ている。

「な、なに?」

「べっつにー。ハバっちにばっか甘くて、わたしにももっと優しくしてほしいとか思ってないよ」

 ハシルヒメがそっぽを向く。珠は少し心が重くなったような気がした。

「え? いやでもハバキはずっと使われないことに苦しんできたから――」

「わかるよ。だから責めてないし。わたしが長さ知られるの恥ずかしがってるのも、同じくらい気にして欲しいとか思ってないし」

「え……あ、ごめん……」

 ハシルヒメは神であり、人間ではない。わかっているつもりではいたが、ハシルヒメの立ち振る舞いがあまりにも人間らしいので、完全に人間と接しているつもりになっていた。

 神さまだから、丁重に扱わなければならないとか、そういう話ではない。

 ハバキのように特殊な事情があって、長さを知られるのが本当に恥ずかしかったのかもしれない。人間の珠には理解できない恥じらいがあってもおかしくないのだ。

「違う……」

 神さまだからとか関係なく、人によって知られたくないことや恥ずかしいことは違う。珠自身だって知られたくないことは山ほどある。

「ごめん。調子乗った。少し頭冷やしてくる」

 自分が嫌になって、珠は部屋を後にした。
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