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 あーあ、帰っちゃった。

「鳴~、さっき学校から連絡あったんだけど」
家に帰ると早速光樹さんに聞かれた。
「…ダルいからサボった」
「っへぇ、中々ヤンチャじゃん」
「うるさい」
「まあそういう日もあるよね。あ、じゃあ俺も今日はオンライン会議だけだし、ラーメン食べに行こうよ」
 光樹さんは俺とは10離れている遠い親戚。父親の葬式の時に初めて会ったレベルで面識が無かった。
俺が施設に入るしかないってなった時に引き取ってくれた恩人であるが、とにかくゆるい。というか放任主義。遅刻しようがテストで点数が悪かろうが、何にも言わない。大学に入りたければ学費は自分で賄わなければならないし、参考書や日用品は自分のお金。バイト先や友人に大変だね、と言われることもある。でも、暴力を受けない安全を保障されている時点で天国。家賃だって払わなくていいし、食費や光熱費だって出してもらっている。何も聞いてこない、干渉してこない。さっぱりした関係も居心地が良かった。


 ずっと心臓が落ち着かない。着替えて布団にくるまってもそれは変わらなかった。
 原因はとてもとてもくだらないもの。自分ではない誰かの説教の怒鳴り声が怖かった、それだけ。中学は治安も悪かったし日常茶飯事だったから、体がこわばるくらいだった。  でも今日は久しぶりだったから。急に昔の事がフラッシュバックして怖くなって。気づいたら荷物を持って帰っていた。
 心臓がずっとうるさい。目を閉じても息を深く吸っても変わらない。むしろ、苦しくなってる気さえする。
「…………………ぁっ」
あれ。
「っは、ひゅ、」
何これ。


 苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい。死んじゃう。首を掻きむしって、息しようとして、また苦しくなって。
「っぁ、っは、こ、きさん、」
やばい。ほんとに。立ち上がるのもできず、ベッドを転がるように落ちて、四つん這いで進む。光樹さん、光樹さん光樹さん光樹さん。
「っ、ぁ、っふ、ぁ、」
溺れてるみたい。光樹さんの部屋は隣で、少しだけ空いていて。
「こ、きさ、ん、」
「ぅえ!?鳴!?あ、すんません、ちょっと外します、」
もう無理。視界はぼやぼやするし、酸素が入ってこなくてうずくまる。
「鳴!?なる、どしたの、体調わるかった?」
「っち、が、むり、いき、っひゅ、」
「あー過呼吸ね。鳴、体起こしてみ?…無理かー」
背中、摩られてるのは分かる。ゆっくりゆっくりしたスピードで、あったかい。
「吸うんじゃなくて吐くの。できそう?」
「っ、でき、」
「できるよ、ほら」
胸の辺りに手を差し込まれ、ゆっくりと押される。
「っな、に、」
「ゆーーーーっくり吐くの」
「できなっ、いっ、」
「出来てる出来てる。喋れてるじゃん。あと3回頑張ってみよっか」
「っ、っふ、ぅ………っは、っ、ぅ、」
「あといっかーい…どぉ?落ち着いた?」
「っ、…………っは、…ぁ、」
疲れた。体痺れてる。手足がビリビリして動けなくて蹲ったまま。光樹さんの背中を叩く振動だけが伝わってくる。
「っ、ぁ、え、?っまって、」
突然蹲っている足から水が垂れる。それが自分のものだって事にはすぐに気づいた。
「……………っあ、」
ズボンがみるみるうちに濡れていく。止めなきゃって思うのに、とめどなく溢れてきて。
「ぁっ、あぁっ、」
止まんない、どうしよう。また心臓が速くなって、泣きそうになった。
「ごめ、ごめん、あっ…っ…」
絶対光輝さんに掛かってる。絶対服汚してる。あ、会議。ふとパソコンを見ると、いくつかの顔が見えた。
「っ、ごめん、ごめ、」
慌てて体を起こして体を捩って止めた頃にはもう遅くて。ぐっちょりと濡れた床についた光輝さんの膝と足元と、俺のよだれでグチャグチャになった手と。
「かたづける、服弁償する、ちゃんとする、」
 怒られたくない。怒鳴られたくない。叩かれたくない。その一心で今頭の中にある言葉を必死に絞り出す。
「かってに入ってごめんなさい、もうしない、だからっ、」
「とりあえず落ち着きな。カメラ止めてるから大丈夫。シャワー浴びといで」
「っ、よごした、の、ください、捨てる、買いなおす、」
みっともなく泣いて、喚いて。悪いと思うよりも先にこうすれば許してくれるかなって思ってしまう自分が嫌い。怒られるのが怖くて誤ってしまう自分が大嫌い。
「大丈夫、怒ってないから。むしろ体どっか変じゃない?」
「ぁ、だいじょぶ…です…それは…」
「シャワー1人で浴びれそう?」
「…あび、れる、」
「よし、なら行っといで。ごめんね?会議の途中だからさ」
いまだに止まらないしゃくりを上げながら、脱衣所に入る。怒られなかった。怒鳴られなかった。良かった。頭の中はそれでいっぱい。心臓がドキドキしていて落ち着かない。
 風呂から上がると自分が汚した場所は綺麗になっている。部屋の向こうから声が聞こえるに、まだ会議は続いているのだろう。さっきは時間が無かったから怒られなかっただけ。




「うぉっ、…びっくりしたぁ…どしたの」
何分経っただろう、光輝さんが部屋から出てきた。
「え、ずっと廊下いたの?寒かったでしょ」
「…ごめんなさい」
「え?…あー、別に気にしてないのに。それより体調大丈夫?体変なとこない?」
「…ない、」
「それなら良かった。ご飯どうしよっか。外出るのしんどいよね。何か家で適当に…」
「ラーメンたべる、」
「えぇ?無理しなくても…」
「ラーメン食べたい、俺のお腹はラーメンだから、」
「…そっか。じゃあ行こっか」
良かった、大丈夫だった。俺の頭はずっとそればっかり。まだ心臓の動悸はおさまっていない。





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