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「…ごめん、」
さっきの駄々をこねていた綾瀬はどこに行ったのやら、家に着いて寝室を紹介する頃には申し訳なさそうな顔で、こちらを伺うように見ている。
「もー良いって。先生ご飯食べるけど綾瀬はどうする?」
「…いいや、」
「まあさっき食べたもんね。じゃあゼリーとかここ飲み物置いとくね。あと、コレ、いる?」
一応念のため、と解熱剤と一緒に購入した、白くてモコモコしたものを見せると真っ赤な顔で視線を逸らす。
「…いる、あと、おれ、いまも、はいてて、よごした、から…」
「ん。黒い袋置いとくからそこに入れといて。んもー、そんな顔しない!」
疲れ切った顔は今にも泣きそうで、可哀想で仕方がない。
「おれ、ねる、ねむい…」
「ん。俺はちょっとやることあるからリビングいるね。何かあったら呼んで」
「…ありがとうございます」
別に怒っていないのに。きっと反抗的な態度を反省しているのだろう。この歳の子には珍しくは無いんだからそんなに気にしなくて良いのに。こんなに素直に謝れる子だからこそ、何があったのか全然想像できない。家庭で癇癪を起こした、だなんて言われても信じられないんだよなぁ。
ご飯を食べ、シャワーを済ませ、親御さんにもう一度電話をかける。電話にでた彼女は、実は綾瀬の母親の妹らしい。掃除も洗濯も行き届いていて、綾瀬も不健康に痩せていない。ネグレクトではない。この前着替えさせた時もアザなどの痕跡は見当たらなかった。
「私がいけないんです…本当の母親じゃないから…」
そんなことはないですよ、と啜り泣く電話主を慰め、大した情報も得られないまま電話を切った。
「ぜんっぜん分からん...」
「ぅ゛、う、ぁ、」
寝室で何気なく様子をボーッと見て、髪をすいて額に滲んだ汗を拭いていた時だった。突然穏やかな寝息は消え、代わりに詰まったうめき声が聞こえてくる。眉間にシワがよって、呼吸も荒い。
「綾瀬?あやせ?」
肩を何度か揺するとびくりと体が跳ねたあと、ゆっくりと瞼が開かれる。
「ごめんね、苦しそうだったから起こしちゃっ…」
「っ、さわんな、」
突然手をはたかれ、掛け布団を引き寄せ握りしめる綾瀬。突然向けられた敵意にびっくりして、思わず手を引っ込めてしまった。
「っ、くんな、やだ、だから、」
さっきまで赤かった顔は蒼白で、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいる。
「あやせ?怖い夢でもみちゃった?」
「やだ、ほんとに、ちゃんと、じぶんでするから、」
会話にならない。一度も目が合わない。どんな言葉をかけても嫌だ嫌だと息切れ気味に言うだけ。どうしたものかと考えあぐねていたその時、下を向いてしばらく固まっていた綾瀬は突然、ベッドから降りようとする。けれど、こんなにフラフラの上体では体を支えるのにも精一杯で、起こした瞬間、上半身がぐらりと傾いてしまった。
「っ、っぶなぁ…どーした?おトイレ行く?」
「っ、゛、~~~っ、はなせ、」
咄嗟に抱き止めた。これは不可抗力。特におかしいことはしていないのに、今度は俺の腕の中で暴れ始める始末。
「…あやせ?」
「さわんなっ、はなせっ、はなせって、」
「分かった分かった!分かったから、離すから、ね?」
「さわんなって、やだ、からぁっ、」
「はい離したよ!?はなしました、」
あまりの剣幕に安全なベッドに上体を戻して、両手を上げて二、三歩下がる。再びベッドから降りようとする綾瀬は案の定、上手く降りることが出来なくて体を強く打ち付けてしまった。
「っい゛、」
「大丈夫!?見せてみな!?」
さっき触るな、とは言われたけど、養護教諭の癖でつい袖を捲る。
「…痛い?」
何度か手で押して痛みの有無を確認したり、何度か手首を回したり。表情を伺おうとするけれど、真っ白い顔で固まったまま。
「…吐きそう?袋持ってこ…」
しゅぃいいいい…
ブルリと太ももが震えたのち、股間から聞こえてくるのは幼い水音。しかし、オムツのおかげで表に染み出すことはない。
「おしっこ我慢してた?トイレ行きたかったのかぁ…」
「ぁ…ぅ…」
悪いことをした。ちゃんと誘導してやれば間に合ったかもしれないのに。思春期の高校生にとってはこの状況は拷問だろう。
「綾瀬?ごめんね?しんどかったんだから仕方ないよ?綺麗にしてさっぱりしようか」
よっぽどショックを受けているのだろうか。立てる?と聞いても腕を摩っても反応がない。どこを見ているかも分からない虚な目をしたまま動かない。
「あやせ…?このままじゃ風邪もっと悪くなるよ?」
「…」
「俺が着替えさせちゃうよ?いいの?」
「…」
何を聞いても返事はない。息が止まってんじゃないかってくらいに動かない。仕方なくズボンに手をかけた、その時だった。
「っひ、ぃ、」
ひゅっ…
引き攣った声が聞こえた、すぐあとだった。
小さなえずきとともに、バシャバシャと口から吐瀉物が出てきたのは。
「え、ちょっと!?」
慌てておむつを替える時に使おうと思っていたのタオルをたぐり寄せて、口元に持っていく。けど、何かおかしい。ひどく落ち着きのない呼吸で怯えている。
「びっくりしちゃったね、まだ気持ち悪い?」
「ぁ、おむつ、する、じぶんで、」
「え、」
さっきまで何も言わなかったのに久しぶりに聞いた声は力がない。しかも、やっぱりさっきと一緒。会話にならない。
「だか、ら、むり、」
「綾瀬!!!」
ぱちんと頬を両手で軽く叩いた。
「…ぇ、せんせ…?」
素っ頓狂な声で、夢から覚めたみたいな表情。訳がわからないと言いたげだが、こちらだって何が何やら状態だ。
「ぁ、おれ、はい…た…の?」
何十秒も前に起こった事実にやっと気づいたみたいに言う綾瀬。
「いや、だって、ぬがされて、だって、」
まだ気持ち悪い?そう聞こうとしてやめた。どんどんと目元に張っていく膜。張力に耐え切れなくなってボロボロと落ちていく涙。
「しんどかったね、とりあえず着替えよっか」
「だって、っ゛、っひ、ぅ゛、」
堪えられなくなった嗚咽は、泣き声に変わる。まるで小さな子供みたいにわんわんと、何かの糸が切れたみたいに。
背中を摩っても、吐瀉物まみれの服を脱がせても、今度は拒絶されなかった。お尻を拭いても、寝転がせておむつを替えても。まるで赤ちゃんみたい。ただ、普通の赤ちゃんとは違うのは、うがいまでさせて汚れひとつもない、不快感のない状態にしても泣き止まないこと。
「もぉ、おれ、ねたくない、こんなにしんどいの、やだぁ゛、」
一体彼に何があったのだろう。抱きしめ背中を撫でながら考える。
「もぉ、こわいの、ゃだぁ、」
怖い、この単語で思い出す、少し前の出来事、女子生徒との衝突があった日のことだ。
今日の態度、異変、帰りたがらない理由、そしてそれを言えないのは。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。でも、信じられないくらいにピッタリとピースがはまっていくから皮肉なものだ。
「大丈夫、今日は先生いるからね」
それがもし、本当ならば。背中がゾッとする。
こんなに人を気持ち悪いって思ったのは初めてだ。
さっきの駄々をこねていた綾瀬はどこに行ったのやら、家に着いて寝室を紹介する頃には申し訳なさそうな顔で、こちらを伺うように見ている。
「もー良いって。先生ご飯食べるけど綾瀬はどうする?」
「…いいや、」
「まあさっき食べたもんね。じゃあゼリーとかここ飲み物置いとくね。あと、コレ、いる?」
一応念のため、と解熱剤と一緒に購入した、白くてモコモコしたものを見せると真っ赤な顔で視線を逸らす。
「…いる、あと、おれ、いまも、はいてて、よごした、から…」
「ん。黒い袋置いとくからそこに入れといて。んもー、そんな顔しない!」
疲れ切った顔は今にも泣きそうで、可哀想で仕方がない。
「おれ、ねる、ねむい…」
「ん。俺はちょっとやることあるからリビングいるね。何かあったら呼んで」
「…ありがとうございます」
別に怒っていないのに。きっと反抗的な態度を反省しているのだろう。この歳の子には珍しくは無いんだからそんなに気にしなくて良いのに。こんなに素直に謝れる子だからこそ、何があったのか全然想像できない。家庭で癇癪を起こした、だなんて言われても信じられないんだよなぁ。
ご飯を食べ、シャワーを済ませ、親御さんにもう一度電話をかける。電話にでた彼女は、実は綾瀬の母親の妹らしい。掃除も洗濯も行き届いていて、綾瀬も不健康に痩せていない。ネグレクトではない。この前着替えさせた時もアザなどの痕跡は見当たらなかった。
「私がいけないんです…本当の母親じゃないから…」
そんなことはないですよ、と啜り泣く電話主を慰め、大した情報も得られないまま電話を切った。
「ぜんっぜん分からん...」
「ぅ゛、う、ぁ、」
寝室で何気なく様子をボーッと見て、髪をすいて額に滲んだ汗を拭いていた時だった。突然穏やかな寝息は消え、代わりに詰まったうめき声が聞こえてくる。眉間にシワがよって、呼吸も荒い。
「綾瀬?あやせ?」
肩を何度か揺するとびくりと体が跳ねたあと、ゆっくりと瞼が開かれる。
「ごめんね、苦しそうだったから起こしちゃっ…」
「っ、さわんな、」
突然手をはたかれ、掛け布団を引き寄せ握りしめる綾瀬。突然向けられた敵意にびっくりして、思わず手を引っ込めてしまった。
「っ、くんな、やだ、だから、」
さっきまで赤かった顔は蒼白で、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいる。
「あやせ?怖い夢でもみちゃった?」
「やだ、ほんとに、ちゃんと、じぶんでするから、」
会話にならない。一度も目が合わない。どんな言葉をかけても嫌だ嫌だと息切れ気味に言うだけ。どうしたものかと考えあぐねていたその時、下を向いてしばらく固まっていた綾瀬は突然、ベッドから降りようとする。けれど、こんなにフラフラの上体では体を支えるのにも精一杯で、起こした瞬間、上半身がぐらりと傾いてしまった。
「っ、っぶなぁ…どーした?おトイレ行く?」
「っ、゛、~~~っ、はなせ、」
咄嗟に抱き止めた。これは不可抗力。特におかしいことはしていないのに、今度は俺の腕の中で暴れ始める始末。
「…あやせ?」
「さわんなっ、はなせっ、はなせって、」
「分かった分かった!分かったから、離すから、ね?」
「さわんなって、やだ、からぁっ、」
「はい離したよ!?はなしました、」
あまりの剣幕に安全なベッドに上体を戻して、両手を上げて二、三歩下がる。再びベッドから降りようとする綾瀬は案の定、上手く降りることが出来なくて体を強く打ち付けてしまった。
「っい゛、」
「大丈夫!?見せてみな!?」
さっき触るな、とは言われたけど、養護教諭の癖でつい袖を捲る。
「…痛い?」
何度か手で押して痛みの有無を確認したり、何度か手首を回したり。表情を伺おうとするけれど、真っ白い顔で固まったまま。
「…吐きそう?袋持ってこ…」
しゅぃいいいい…
ブルリと太ももが震えたのち、股間から聞こえてくるのは幼い水音。しかし、オムツのおかげで表に染み出すことはない。
「おしっこ我慢してた?トイレ行きたかったのかぁ…」
「ぁ…ぅ…」
悪いことをした。ちゃんと誘導してやれば間に合ったかもしれないのに。思春期の高校生にとってはこの状況は拷問だろう。
「綾瀬?ごめんね?しんどかったんだから仕方ないよ?綺麗にしてさっぱりしようか」
よっぽどショックを受けているのだろうか。立てる?と聞いても腕を摩っても反応がない。どこを見ているかも分からない虚な目をしたまま動かない。
「あやせ…?このままじゃ風邪もっと悪くなるよ?」
「…」
「俺が着替えさせちゃうよ?いいの?」
「…」
何を聞いても返事はない。息が止まってんじゃないかってくらいに動かない。仕方なくズボンに手をかけた、その時だった。
「っひ、ぃ、」
ひゅっ…
引き攣った声が聞こえた、すぐあとだった。
小さなえずきとともに、バシャバシャと口から吐瀉物が出てきたのは。
「え、ちょっと!?」
慌てておむつを替える時に使おうと思っていたのタオルをたぐり寄せて、口元に持っていく。けど、何かおかしい。ひどく落ち着きのない呼吸で怯えている。
「びっくりしちゃったね、まだ気持ち悪い?」
「ぁ、おむつ、する、じぶんで、」
「え、」
さっきまで何も言わなかったのに久しぶりに聞いた声は力がない。しかも、やっぱりさっきと一緒。会話にならない。
「だか、ら、むり、」
「綾瀬!!!」
ぱちんと頬を両手で軽く叩いた。
「…ぇ、せんせ…?」
素っ頓狂な声で、夢から覚めたみたいな表情。訳がわからないと言いたげだが、こちらだって何が何やら状態だ。
「ぁ、おれ、はい…た…の?」
何十秒も前に起こった事実にやっと気づいたみたいに言う綾瀬。
「いや、だって、ぬがされて、だって、」
まだ気持ち悪い?そう聞こうとしてやめた。どんどんと目元に張っていく膜。張力に耐え切れなくなってボロボロと落ちていく涙。
「しんどかったね、とりあえず着替えよっか」
「だって、っ゛、っひ、ぅ゛、」
堪えられなくなった嗚咽は、泣き声に変わる。まるで小さな子供みたいにわんわんと、何かの糸が切れたみたいに。
背中を摩っても、吐瀉物まみれの服を脱がせても、今度は拒絶されなかった。お尻を拭いても、寝転がせておむつを替えても。まるで赤ちゃんみたい。ただ、普通の赤ちゃんとは違うのは、うがいまでさせて汚れひとつもない、不快感のない状態にしても泣き止まないこと。
「もぉ、おれ、ねたくない、こんなにしんどいの、やだぁ゛、」
一体彼に何があったのだろう。抱きしめ背中を撫でながら考える。
「もぉ、こわいの、ゃだぁ、」
怖い、この単語で思い出す、少し前の出来事、女子生徒との衝突があった日のことだ。
今日の態度、異変、帰りたがらない理由、そしてそれを言えないのは。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。でも、信じられないくらいにピッタリとピースがはまっていくから皮肉なものだ。
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