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㈨ヒノトリ
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「ここならおかしなものにも値段をつけてくださるとききました」
もう若くはない、だが老女というにはためらう年頃だった。熟女……というほどの肉感もない。瘦せこけた地味な年配女性。おばさん……じゃ失礼だから、ご婦人……か? 猫ひげ堂の見世の間、店主に代わって茶を淹れながらゴンタはどうでもいいことを思った。
「鴻巣さん、とおっしゃいましたな。拝見してよろしいですか」
店主のオサカベがいった。ご婦人は小さなバッグから、ハンカチをとりだした。古ぼけた木綿だ。ご婦人が勘定台にハンカチをひらくと、プラチナ色に光るもの。鳥の羽根……白孔雀の尾羽の先とゴンタにはみえた。
「叔父がシベリア抑留のとき手に入れたものです。火の鳥の羽根だと申しておりました」
「証明できますかな」
「火はありますか?」
ゴンタは抽斗から百円ライターを拾った。ご婦人は羽根をライターの火であぶった。それは焦げるかと思いきや、羽毛の一本いっぽんがにわかに黄金色に発光した。ゴンタは目をみはった。きれいだ。ご婦人は淡々としゃべった。
「普通の火では燃えません。こうしてやると、しばらくは光っています。これで証明になりますか?」
「なるほど、わかりました。タイキ、おまえならいくらだす?」
急に話をふられて、ゴンタはあわてた。火の鳥の羽根の相場なんて動物考古学の講義で習っていない。黄金色の繊細な光を、ゴンタはみつめた。真贋は、なんともいえない。が、贋物だとしても、良くできた品だ。おもしろい。
「そうですね。ぼくなら六万だします」
「叔父の思い出の品ですので、もう少し色をつけてくださいませんか?」
「では七万でどうですかな?」
オサカベがいった。ご婦人は安堵したのか、声が高くなった。
「ありがとうございます。きちんとした方にお譲りできてよかった。私は夫も子供もありませんので、私が死ねばただのゴミなのです」
愛想笑いする店主に代わって、ゴンタは金庫から七万円を持ちだして、ご婦人の目のまえでかぞえてから手わたした。ご婦人は丁重に礼をかえした。格子戸があいて、しまった。輝く羽根に、ゴンタはつくづくみとれた。本当にきれいだ。オサカベがいう。
「八万なら譲ってやるぞ」
ゴンタは苦笑いした。きっちり一万円うわ乗せするところが、オサカベだった。銀行口座の預金がいくらだったか、ゴンタは記憶をたぐりよせた。
🐈⬛
朝六時半に、ゴンタは山荘をでた。吹雪いたかと思うと、雲間から青空が覗く天候だった。霧はでていたが、視界が利かないほどではなかった。三泊四日で、西穂高岳から北穂高岳へ縦走したのち、滝谷のクラック尾根をクライミングするつもりでいた。
登山を始めたのは、体力と判断力を養うためだった。天候の変化やルートの攻略法をみきわめる力は、瞬間に骨董の真贋をみきわめる力と一脈つうじるのではとゴンタは考えたのだ。パーティーを組むのは好きではなかった。流されやすい自分は、結局は判断が人まかせになってしまう。意味がない。
装備で満杯のザックを背負ってゴンタは独立標高点を越し、西穂高山頂についたのが九時。同じコースの夏のタイムが三時間だから、かなり早いペースだ。飛ばしすぎたか、とゴンタは思った。瘦せた険しい稜線。雪化粧した岩肌に、ゴンタは鉄檋の爪をひっかけた。
午後三時には天狗ノ頭についた。すぐ前方にジャンダルムと、本日のビバーク予定地である天狗岳の越がみえていた。
ところが、天狗ノ頭をわずかに下った先で、ルートが不明瞭になった。どこを歩けばいいか判然としない。ゴンタは慎重に下ったものの、元の地点へ戻ってきた。
駄目だ、いったん休憩して頭を冷やそう。ゴンタはザックを下ろそうと腰をかがめた。瞬間、立ちくらんだ。二、三歩よろめいて、雪の庇を踏み抜いた。
ゴンタは声もなく落ちた。命綱はない。あらがうすべはなかった。岩にぶつかって回転しながら、ああ、もう駄目か、とよそごとのように思った。ただ、その二十キロの重量のためか、岩にはずむのはザックばかりだった。一度だけ足が当たったが、痛みはなかった。
数秒後、ゴンタは軽いショックとともに雪の斜面に投げだされた。助かった……そう思った直後、体が斜面を横すべりした。その下は断崖絶壁かもしれない。初めて死の恐怖が全身を貫いた。雪に流されつつゴンタは重たいザックを切りはなそうともがいた。そうするうち、滑落は止まった。ゴンタは大きく息をついた。
すぐ、右足がままならないことに気づいた。立ちあがろうと動くと、足首に激痛。おそらく骨がイカレている。両手で体じゅうを探ると、後頭部をさわったときに血がついた。ザックは背負ったままだった。襷がけの鶴嘴もそのまま。左の鉄檋はなくなっていた。ヘルメットは遥か下だった。
大岩溝のなかの雪の急斜面だった。ここじゃ、いつ雪崩にやられるかわからない。二十メートルほど上に垂直の岩が立ちはだかり、その基部がちょっとした岩陰になっていた。あそこに行けば、雪崩の直撃は避けられる。ゴンタは右足をかばいつつ、雪を這った。
岩陰に辿りつくまでに、三十分ほどかかった。ゴンタはケータイ電話をとりだした。電波状況は、アンテナピクトが一本立つか立たないか。一一〇番と西穂の山荘にかけてみたが、通話状態になるまえに切れてしまった。寒い場所で電池類の性能は著しく低下する。入山まえにフル充電したにもかかわらず、あっというまにバッテリー残量が目減りした。ゴンタは交互にかけつづけたものの、まったく通じなかった。ゴンタはあきらめた。簡易充電器を買っておけばよかった。
岩に平らな釘を打ちこみ、輪をひっかけてゴンタは幕舎を張った。そこに入りこみ、寝袋にくるまると、少しだけ落ちついた。寒いことは寒いが、防寒着のおかげで歯の根が合わないほどじゃない。足首は気になったが、登山ブーツは脱がなかった。脱ぐと患部が腫れあがって二度と履けなくなるだろうし、ブーツで固定されたままのほうがまだ足首によさそうだ。
ガスライターは気温零度近くなると火がつかない。ゴンタはマッチをすって、登山用バーナーに点火した。その炎で、火の鳥の羽根をあぶる。ぼやけたプラチナ色だった羽毛が、まばゆい黄金色になる。へたな角灯よりも明るい。ゴンタは穏やかな気持ちで、炎で雪を溶かして味噌汁をつくった。
不思議なほど、ゴンタは死ぬことは考えなかった。民間ヘリで救助されたら費用がえらいことになるだろうな、骨折の治療費もかかるだろうな、父さんに負担をかけちゃうな、ニュースになったら大学のやつらにひやかされるだろうな、恥ずかしいな、しばらく猫ひげ堂のバイトは穴をあけてしまうな、オサカベさんに怒られるかな……そんなことばかりを思った。本やネットで仕入れた山岳遭難のケースに照らしあわせると、自分はかなりましだった。少なくとも、手足がもげて大出血してるわけじゃない。大丈夫。登山届はだしてあるし、山荘の主人にもルートを告げた。母親にもおおまかな行程は説明してある。あと四日して、おれが戻らなければ、捜索が始まるはずだ。
味噌汁とカロリーメイトで夕飯を終えてしまうと、することがなかった。ゴンタは懐中時計を睨んだ。時の経つのは、気が遠くなるほど遅かった。その夜は、一睡もできなかった。
ただ、火の鳥の羽根の明るさだけが心の支えだった。
🐈⬛
遭難二日目。ときたま雲から雪山の稜線が覗いた。ゴンタにはモノクロ映画のように映った。降ってくる轟音、旅客機だ。あれに助けを求めても無駄だろう。ゴンタはため息をついた。
ゴンタは気の迷いを起こした。救助を待たなくても、自力でなんとかできないか? ゴンタは地図を広げ、ビバーク地点の見当をつけ、ここから登れるのか、それとも下っていけるのか考えた。足はアレだけど、少しでも動いてみるか。ゴンタはそろそろと幕舎を這いだした。だが足首の激痛にめげて、すごすごと幕舎へ戻った。遭難したら、その場を動かない。体力をむやみに消耗しない。それが山の掟だ。
火の鳥の羽根の光がもつのは、だいたい十時間だった。羽根の光が薄れると、気持ちまで弱まる気がした。これを売りに来た鴻巣というご婦人、その叔父という人を思った。極寒のシベリアでの捕虜生活。その人もこの光を心の支えに生きのびたのかもしれなかった。
あすの中部地方は、雪、ところにより吹雪くかもしれません……ラジオの声がいった。ゴンタはうとうとと目をとじた。考えるか眠るしかすることはなかった。ぼおおおおおお……とSLの汽笛のようなかん高い音が響いて、はっと目を覚ました。音の正体はわからなかった。夢かもしれなかった。
翌未明からの吹雪。ゴンタはときおり幕舎の雪を払い落とした。これがもし猛吹雪だったら、雪掻きのかいもなく埋まっているだろう。この悪天候が続くと厄介だ。救助ヘリが飛べない。ゴンタは恨めしく外を睨んだ。
遭難四日目。そろそろ、ゴンタが帰らないことに両親が気づいただろう。きょうかあすから捜索が始まるはずだ。しかし、ラジオはこの悪天候が続くことを告げていた。
翌日も吹雪はやまなかった。ラジオでは遭難者について何もいわない。もしかして両親はまだのんきに構えているのかとゴンタはいらだった。
遭難六日目。食料が尽きた。ゴンタは山盛りのおでんの夢をみた。口にいれる寸前で目が覚めた。手足の先が鈍く痛んだ。凍傷の兆しだった。寒さでラジオの電池が消耗し、音がはっきりしなくなった。
朝、吹雪はやんでいた。きょうこそ、と思った。ゴンタは火の鳥の羽根をあぶった。
🐈⬛
ヘリコプターの音。ゴンタは顔をあげた。幕舎を這いでた。あたりは霧がかかっていた。音はビバーク地点のはるか上空を旋回しているようだった。しばらくしてヘリの音が遠ざかったかと思うと、こんどは下方からきこえてきた。幻聴じゃない。霧の切れ間から機体を確認できた。が、遠い。ゴンタは必死に両手を振ったものの、まもなくヘリは去ってしまった。ゴンタは落胆した。一度捜索した地点は、とうぶん来ないのではないか、とこわくもなった。
ぼおおおおおお……と汽笛のような音が響いた。いつか夢できいた音。なんだろう。ゴンタは耳をすませた。微かに捉えたのは、ヘリの音だった。霧が切れたとき、ちょうど蝶ヶ岳の稜線を越えて機体が飛んできた。ゴンタからは斜め下、岳沢の登山道の上あたり。ここぞとゴンタは火の鳥の羽根を振った。霧のなかでも、この明るい白色系の光ならみえるはず。小さな光に気づいたのだろう。ヘリが一直線に飛んできた。助かった! ゴンタは確信した。
目のまえでヘリが停止飛行した。翼の烈風が顔に貼りついて、息苦しいほどだった。右足が駄目だ、とジェスチャーでゴンタは伝えた。そこでじっとしていろ、と隊員から合図がかえってきて、どういうわけかヘリはいったんひきかえしていった。ヘリの帰りを待つあいだ、ゴンタは幕舎以外はザックにきちんとしまいこんだ。火の鳥の羽根も。
ヘリが戻ってきたのは十分後だった。降り立った二人の救助隊員に、ゴンタは両側から抱きかかえられた。ゴンタはいう。
「あの、ザックも」
「置いていけ。装備はまた買えばいいだろう」
「でも、火の鳥の羽根が……」
隊員の顔色が変わった。「まずい。低体温症による、せん妄だ。すぐ病院だ」
なかば強引にゴンタは収容された。ヘリが上昇し、オレンジ色のザックは雪原にみるみる小さくなった。初めてのヘリの乗り心地は、隙間風がひゅうひゅう通り抜けて、ただ寒かった。
🐈⬛
入院先の病室、右足をギプスで固められたゴンタは、長野放送のローカル番組をみてすごした。母親は世話を焼きつつ、お小言をいう。
「これに懲りたら、山登りは控えるのね。あんた、ほんとにラッキーよ。足以外は無事で、凍傷もたいしたことなくて。あとで救助隊の皆さんにお礼状を書くのよ」
はいはい、とゴンタはいった。そのつもりでいたのに、先回りしていわれるとやりたくなくなるのはなぜだろう。まるきり小学校の宿題と一緒だった。
「あんまり大っぴらにしないでっていわれたんだけどね……、光るものがヘリを誘導したんですって!」
「光るもの?」
「きっと、あれよ、未確認飛行物体ってやつよ。あんた、なんかに守られてんのね」
母親は少女みたいにはしゃいでいた。この人はその手のオカルト話が大好物だった。ゴンタの不思議なモノ好きは、母親譲りなのかもしれない。
病室のドアがあいて、万葉と和泉が手を振った。
「ゴンタくん!」
「病院食、口に合う? 鳩サブレ買ってきたよ」
「まったく、遠いところで遭難しよって。飛行機は腰がつらい」
オサカベがじじくさいことをいった。ゴンタはうれしかった。
「火の鳥の声は病人を癒すときく。回復が早いのも、そのおかげかもしれんな」
「じゃあ、あれは……」
「本物だった、ということだろう。命の値段が八万円なら、安いもんだ」
オサカベは口をゆがめた。ゴンタはいう。
「八万どころじゃないよ。救助代だけで一八〇万は飛んだんだから」
「ヘリだけにね」
和泉がいった。みんな笑った。天狗岳のどこかに残されたザック、その底の火の鳥の羽根を、ゴンタは思った。いつか、拾いに行ってやる。ゴンタは密かに誓った。
もう若くはない、だが老女というにはためらう年頃だった。熟女……というほどの肉感もない。瘦せこけた地味な年配女性。おばさん……じゃ失礼だから、ご婦人……か? 猫ひげ堂の見世の間、店主に代わって茶を淹れながらゴンタはどうでもいいことを思った。
「鴻巣さん、とおっしゃいましたな。拝見してよろしいですか」
店主のオサカベがいった。ご婦人は小さなバッグから、ハンカチをとりだした。古ぼけた木綿だ。ご婦人が勘定台にハンカチをひらくと、プラチナ色に光るもの。鳥の羽根……白孔雀の尾羽の先とゴンタにはみえた。
「叔父がシベリア抑留のとき手に入れたものです。火の鳥の羽根だと申しておりました」
「証明できますかな」
「火はありますか?」
ゴンタは抽斗から百円ライターを拾った。ご婦人は羽根をライターの火であぶった。それは焦げるかと思いきや、羽毛の一本いっぽんがにわかに黄金色に発光した。ゴンタは目をみはった。きれいだ。ご婦人は淡々としゃべった。
「普通の火では燃えません。こうしてやると、しばらくは光っています。これで証明になりますか?」
「なるほど、わかりました。タイキ、おまえならいくらだす?」
急に話をふられて、ゴンタはあわてた。火の鳥の羽根の相場なんて動物考古学の講義で習っていない。黄金色の繊細な光を、ゴンタはみつめた。真贋は、なんともいえない。が、贋物だとしても、良くできた品だ。おもしろい。
「そうですね。ぼくなら六万だします」
「叔父の思い出の品ですので、もう少し色をつけてくださいませんか?」
「では七万でどうですかな?」
オサカベがいった。ご婦人は安堵したのか、声が高くなった。
「ありがとうございます。きちんとした方にお譲りできてよかった。私は夫も子供もありませんので、私が死ねばただのゴミなのです」
愛想笑いする店主に代わって、ゴンタは金庫から七万円を持ちだして、ご婦人の目のまえでかぞえてから手わたした。ご婦人は丁重に礼をかえした。格子戸があいて、しまった。輝く羽根に、ゴンタはつくづくみとれた。本当にきれいだ。オサカベがいう。
「八万なら譲ってやるぞ」
ゴンタは苦笑いした。きっちり一万円うわ乗せするところが、オサカベだった。銀行口座の預金がいくらだったか、ゴンタは記憶をたぐりよせた。
🐈⬛
朝六時半に、ゴンタは山荘をでた。吹雪いたかと思うと、雲間から青空が覗く天候だった。霧はでていたが、視界が利かないほどではなかった。三泊四日で、西穂高岳から北穂高岳へ縦走したのち、滝谷のクラック尾根をクライミングするつもりでいた。
登山を始めたのは、体力と判断力を養うためだった。天候の変化やルートの攻略法をみきわめる力は、瞬間に骨董の真贋をみきわめる力と一脈つうじるのではとゴンタは考えたのだ。パーティーを組むのは好きではなかった。流されやすい自分は、結局は判断が人まかせになってしまう。意味がない。
装備で満杯のザックを背負ってゴンタは独立標高点を越し、西穂高山頂についたのが九時。同じコースの夏のタイムが三時間だから、かなり早いペースだ。飛ばしすぎたか、とゴンタは思った。瘦せた険しい稜線。雪化粧した岩肌に、ゴンタは鉄檋の爪をひっかけた。
午後三時には天狗ノ頭についた。すぐ前方にジャンダルムと、本日のビバーク予定地である天狗岳の越がみえていた。
ところが、天狗ノ頭をわずかに下った先で、ルートが不明瞭になった。どこを歩けばいいか判然としない。ゴンタは慎重に下ったものの、元の地点へ戻ってきた。
駄目だ、いったん休憩して頭を冷やそう。ゴンタはザックを下ろそうと腰をかがめた。瞬間、立ちくらんだ。二、三歩よろめいて、雪の庇を踏み抜いた。
ゴンタは声もなく落ちた。命綱はない。あらがうすべはなかった。岩にぶつかって回転しながら、ああ、もう駄目か、とよそごとのように思った。ただ、その二十キロの重量のためか、岩にはずむのはザックばかりだった。一度だけ足が当たったが、痛みはなかった。
数秒後、ゴンタは軽いショックとともに雪の斜面に投げだされた。助かった……そう思った直後、体が斜面を横すべりした。その下は断崖絶壁かもしれない。初めて死の恐怖が全身を貫いた。雪に流されつつゴンタは重たいザックを切りはなそうともがいた。そうするうち、滑落は止まった。ゴンタは大きく息をついた。
すぐ、右足がままならないことに気づいた。立ちあがろうと動くと、足首に激痛。おそらく骨がイカレている。両手で体じゅうを探ると、後頭部をさわったときに血がついた。ザックは背負ったままだった。襷がけの鶴嘴もそのまま。左の鉄檋はなくなっていた。ヘルメットは遥か下だった。
大岩溝のなかの雪の急斜面だった。ここじゃ、いつ雪崩にやられるかわからない。二十メートルほど上に垂直の岩が立ちはだかり、その基部がちょっとした岩陰になっていた。あそこに行けば、雪崩の直撃は避けられる。ゴンタは右足をかばいつつ、雪を這った。
岩陰に辿りつくまでに、三十分ほどかかった。ゴンタはケータイ電話をとりだした。電波状況は、アンテナピクトが一本立つか立たないか。一一〇番と西穂の山荘にかけてみたが、通話状態になるまえに切れてしまった。寒い場所で電池類の性能は著しく低下する。入山まえにフル充電したにもかかわらず、あっというまにバッテリー残量が目減りした。ゴンタは交互にかけつづけたものの、まったく通じなかった。ゴンタはあきらめた。簡易充電器を買っておけばよかった。
岩に平らな釘を打ちこみ、輪をひっかけてゴンタは幕舎を張った。そこに入りこみ、寝袋にくるまると、少しだけ落ちついた。寒いことは寒いが、防寒着のおかげで歯の根が合わないほどじゃない。足首は気になったが、登山ブーツは脱がなかった。脱ぐと患部が腫れあがって二度と履けなくなるだろうし、ブーツで固定されたままのほうがまだ足首によさそうだ。
ガスライターは気温零度近くなると火がつかない。ゴンタはマッチをすって、登山用バーナーに点火した。その炎で、火の鳥の羽根をあぶる。ぼやけたプラチナ色だった羽毛が、まばゆい黄金色になる。へたな角灯よりも明るい。ゴンタは穏やかな気持ちで、炎で雪を溶かして味噌汁をつくった。
不思議なほど、ゴンタは死ぬことは考えなかった。民間ヘリで救助されたら費用がえらいことになるだろうな、骨折の治療費もかかるだろうな、父さんに負担をかけちゃうな、ニュースになったら大学のやつらにひやかされるだろうな、恥ずかしいな、しばらく猫ひげ堂のバイトは穴をあけてしまうな、オサカベさんに怒られるかな……そんなことばかりを思った。本やネットで仕入れた山岳遭難のケースに照らしあわせると、自分はかなりましだった。少なくとも、手足がもげて大出血してるわけじゃない。大丈夫。登山届はだしてあるし、山荘の主人にもルートを告げた。母親にもおおまかな行程は説明してある。あと四日して、おれが戻らなければ、捜索が始まるはずだ。
味噌汁とカロリーメイトで夕飯を終えてしまうと、することがなかった。ゴンタは懐中時計を睨んだ。時の経つのは、気が遠くなるほど遅かった。その夜は、一睡もできなかった。
ただ、火の鳥の羽根の明るさだけが心の支えだった。
🐈⬛
遭難二日目。ときたま雲から雪山の稜線が覗いた。ゴンタにはモノクロ映画のように映った。降ってくる轟音、旅客機だ。あれに助けを求めても無駄だろう。ゴンタはため息をついた。
ゴンタは気の迷いを起こした。救助を待たなくても、自力でなんとかできないか? ゴンタは地図を広げ、ビバーク地点の見当をつけ、ここから登れるのか、それとも下っていけるのか考えた。足はアレだけど、少しでも動いてみるか。ゴンタはそろそろと幕舎を這いだした。だが足首の激痛にめげて、すごすごと幕舎へ戻った。遭難したら、その場を動かない。体力をむやみに消耗しない。それが山の掟だ。
火の鳥の羽根の光がもつのは、だいたい十時間だった。羽根の光が薄れると、気持ちまで弱まる気がした。これを売りに来た鴻巣というご婦人、その叔父という人を思った。極寒のシベリアでの捕虜生活。その人もこの光を心の支えに生きのびたのかもしれなかった。
あすの中部地方は、雪、ところにより吹雪くかもしれません……ラジオの声がいった。ゴンタはうとうとと目をとじた。考えるか眠るしかすることはなかった。ぼおおおおおお……とSLの汽笛のようなかん高い音が響いて、はっと目を覚ました。音の正体はわからなかった。夢かもしれなかった。
翌未明からの吹雪。ゴンタはときおり幕舎の雪を払い落とした。これがもし猛吹雪だったら、雪掻きのかいもなく埋まっているだろう。この悪天候が続くと厄介だ。救助ヘリが飛べない。ゴンタは恨めしく外を睨んだ。
遭難四日目。そろそろ、ゴンタが帰らないことに両親が気づいただろう。きょうかあすから捜索が始まるはずだ。しかし、ラジオはこの悪天候が続くことを告げていた。
翌日も吹雪はやまなかった。ラジオでは遭難者について何もいわない。もしかして両親はまだのんきに構えているのかとゴンタはいらだった。
遭難六日目。食料が尽きた。ゴンタは山盛りのおでんの夢をみた。口にいれる寸前で目が覚めた。手足の先が鈍く痛んだ。凍傷の兆しだった。寒さでラジオの電池が消耗し、音がはっきりしなくなった。
朝、吹雪はやんでいた。きょうこそ、と思った。ゴンタは火の鳥の羽根をあぶった。
🐈⬛
ヘリコプターの音。ゴンタは顔をあげた。幕舎を這いでた。あたりは霧がかかっていた。音はビバーク地点のはるか上空を旋回しているようだった。しばらくしてヘリの音が遠ざかったかと思うと、こんどは下方からきこえてきた。幻聴じゃない。霧の切れ間から機体を確認できた。が、遠い。ゴンタは必死に両手を振ったものの、まもなくヘリは去ってしまった。ゴンタは落胆した。一度捜索した地点は、とうぶん来ないのではないか、とこわくもなった。
ぼおおおおおお……と汽笛のような音が響いた。いつか夢できいた音。なんだろう。ゴンタは耳をすませた。微かに捉えたのは、ヘリの音だった。霧が切れたとき、ちょうど蝶ヶ岳の稜線を越えて機体が飛んできた。ゴンタからは斜め下、岳沢の登山道の上あたり。ここぞとゴンタは火の鳥の羽根を振った。霧のなかでも、この明るい白色系の光ならみえるはず。小さな光に気づいたのだろう。ヘリが一直線に飛んできた。助かった! ゴンタは確信した。
目のまえでヘリが停止飛行した。翼の烈風が顔に貼りついて、息苦しいほどだった。右足が駄目だ、とジェスチャーでゴンタは伝えた。そこでじっとしていろ、と隊員から合図がかえってきて、どういうわけかヘリはいったんひきかえしていった。ヘリの帰りを待つあいだ、ゴンタは幕舎以外はザックにきちんとしまいこんだ。火の鳥の羽根も。
ヘリが戻ってきたのは十分後だった。降り立った二人の救助隊員に、ゴンタは両側から抱きかかえられた。ゴンタはいう。
「あの、ザックも」
「置いていけ。装備はまた買えばいいだろう」
「でも、火の鳥の羽根が……」
隊員の顔色が変わった。「まずい。低体温症による、せん妄だ。すぐ病院だ」
なかば強引にゴンタは収容された。ヘリが上昇し、オレンジ色のザックは雪原にみるみる小さくなった。初めてのヘリの乗り心地は、隙間風がひゅうひゅう通り抜けて、ただ寒かった。
🐈⬛
入院先の病室、右足をギプスで固められたゴンタは、長野放送のローカル番組をみてすごした。母親は世話を焼きつつ、お小言をいう。
「これに懲りたら、山登りは控えるのね。あんた、ほんとにラッキーよ。足以外は無事で、凍傷もたいしたことなくて。あとで救助隊の皆さんにお礼状を書くのよ」
はいはい、とゴンタはいった。そのつもりでいたのに、先回りしていわれるとやりたくなくなるのはなぜだろう。まるきり小学校の宿題と一緒だった。
「あんまり大っぴらにしないでっていわれたんだけどね……、光るものがヘリを誘導したんですって!」
「光るもの?」
「きっと、あれよ、未確認飛行物体ってやつよ。あんた、なんかに守られてんのね」
母親は少女みたいにはしゃいでいた。この人はその手のオカルト話が大好物だった。ゴンタの不思議なモノ好きは、母親譲りなのかもしれない。
病室のドアがあいて、万葉と和泉が手を振った。
「ゴンタくん!」
「病院食、口に合う? 鳩サブレ買ってきたよ」
「まったく、遠いところで遭難しよって。飛行機は腰がつらい」
オサカベがじじくさいことをいった。ゴンタはうれしかった。
「火の鳥の声は病人を癒すときく。回復が早いのも、そのおかげかもしれんな」
「じゃあ、あれは……」
「本物だった、ということだろう。命の値段が八万円なら、安いもんだ」
オサカベは口をゆがめた。ゴンタはいう。
「八万どころじゃないよ。救助代だけで一八〇万は飛んだんだから」
「ヘリだけにね」
和泉がいった。みんな笑った。天狗岳のどこかに残されたザック、その底の火の鳥の羽根を、ゴンタは思った。いつか、拾いに行ってやる。ゴンタは密かに誓った。
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