猫ひげ堂へ妖こそ

御厨 匙

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㈥マサキクアリコソ

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 つくつく法師がくりかえし名乗りをあげた。八月の残暑、しかしながら土蔵の空気はひんやりと湿っていた。ほのかに墨汁ぼくじゅうめいたにおい。ゴンタは短くなってきたズボンの裾から、小さな蜘蛛をそっと追いはらった。この夏、ゴンタの身長は五センチも伸びていた。低くなってきた声で、ゴンタはいう。
「オサカベさん。それ、なんて書いてあるの?」
 作務衣姿のオサカベは、細長い木箱を慎重に寝かせた。箱書きはあったが、悪筆なのか達筆すぎるのかゴンタには解読できなかった。木蓋をひらくと二メートルほどの、ねじれた骨のような物が収まっていた。頭に乗せた老眼鏡を、オサカベは鼻へとずらした。
烏尼哥兒うにこうる、つまりユニコーンのつのだ」
「えっ、本物?」
 オサカベは口をゆがめた。「まさか。古くからユニコーンの角には解毒作用があると信じられていたのでな、贋物にせものが出まわったんだ。北極海にイッカクという海獣がいてな、そのオスの牙だ。今ではワシントン条約で取引が禁じられている。これは江戸時代にオランダから輸入されたものだろうな」
「なんだ」
 本物じゃなくても、ゴンタはおもしろかった。こんな正体不詳の箱や調度品が、猫ひげ堂の蔵のなかには何百とあった。それをひとつ一つ確認しては手入れしてしまいなおし、目録をつくるという根気のいる仕事を、オサカベはやっていた。ゴンタは重い物の上げ下ろし以外はみているばかりだったが、それでも話し相手がいるだけで張りあいがあるのだとオサカベはいった。
「私の目の黒いうちにやっておかんと、香葉子が困るからな」
 香葉子は近所にいるオサカベの娘だ。近ごろ、オサカベは自身の死後に思いをめぐらせるようになったらしい。ゴンタは打ち消すようにいう。
「オサカベさん、まだそんな年じゃないだろ」
 オサカベの黒い石のような目が、眼鏡ごしにゴンタをみすえた。
「タイキ、こんどの誕生日でいくつになる?」
「十五」
「おまえがをつけにきて、もう五年が経ったんだな」
 オサカベは口をゆがめた。ゴンタが猫ひげ堂のトイレを勝手に借りた日のことを、このじいさんはいまだにからかった。ゴンタはいささか腹を立てた。
「まだいうの、それ」
「五年ぶん、私もとしをとったということだ。だが、おまえの五年と、私の五年はちがう。おまえには、これから何十年もの命がある。私は、そうではない。死について思うのは、自然なことだ。それはとても前向きなことなんだ。わかるだろう。おまえは利口だものな」
 やさしく語りかけられて、ゴンタは何もいえなくなった。オサカベは皮肉っぽくつけたした。
「まあ、死は年功序列とはかぎらない。あすのことは、誰にもわからん」
 いつもどおりのオサカベだ。ゴンタはほっとした。
 オサカベが帖面に書きつけているあいだ、ゴンタは片すみの箱が気になった。小ぶりな長持ながもちだ。漆が剝げていて、鉄の留具も錆びている。ゴンタは宝箱を暴く気分で、その蓋を持ちあげた。
 丸っこい水筒、錆びきった十徳じっとくナイフ、型くずれした革ベルト、黄ばんだ木綿のハンカチ……がらくただ。そのなかに、光るもの。ゴンタは拾いあげた。ずるりと長い鎖がついてきた。懐中時計だ。白い文字盤、アラビア数字の三針式で、ささやかなストップウォッチの秒針がついていた。銀色に光る裏蓋、手彫りらしき字が三列……なんて書いてあるんだろう? 蔵の照明はほの暗く、はっきりしなかった。それがとっておきの暗号のようにゴンタは思えた。
 この時計を、ゴンタは自分のものにしてしまいたくなった。蔵の膨大な品物のなかで、小さな時計がひとつなくなったって、このじいさんはきっとわからない。自分はいつも文句もいわず、オサカベの手つだいをしている。いいじゃないか、このくらい。悪魔のささきは甘かった。ゴンタは時計をズボンのポケットの底へ落とした。
「タイキ!」
 オサカベが叫んだ。ゴンタはどきっとした。爺さんはこわばった顔で床を指差した。長い触角を動かす蜚蠊ごきぶりの幼虫。
「うわあ!」
 ゴンタも叫んだ。ゴンタは駆け寄ってって、スニーカーの底で蜚蠊をガンガン踏み潰した。
 雑木林で寒蜩ひぐらしが輪唱を始めるころ、ゴンタとオサカベは蔵をでた。夕闇にほの白い夏椿。店番の万葉はすっかり退屈したようで、庭でペットと遊んでいた。ゴンチャロフは三才半になる牡犬だ。オサカベがいう。
「万葉。そのキツネイヌを野ばなしにするなといってるだろう。夜叉がこわがる」
「いいじゃない。お店には入れてないもん。それにゴンちゃんはキツネイヌじゃなくて、ウェルシュ・コーギー・ペンブロークだよ。血統書だってあるんだから」
 汗で顔を光らせた万葉は、ぷっくりした唇を尖らせた。九歳になるオサカベの孫娘だ。耳と鼻の尖った犬は、たしかに狐に似ていた。まあ、かなり短足で、尾っぽはなかったが。ゴンチャロフは舌を垂らして寄ってきた。オサカベは手先を振った。
「しっ、しっ。犬は好かん。あっち行け」
 ゴンタは苦笑いしてしゃがみ、両手で犬の顎を撫でてやった。ゴンチャロフははふはふ喜んだ。ゴンタたちに瑠璃小灰蝶るりしじみがまとわりつく。
「ゴンタくんはゴンちゃん好きだって。よかったね、ゴンちゃん」
 万葉はゴンチャロフの背中を撫でた。女の子の長い睫毛。ゴンタの胸はせわしくなった。うっとおしい蝶をゴンタは追いはらう。
「犬の名前を変えろとはいわないけど、ゴンちゃんとゴンタってややこしくない? なんで同じような名前つけたの」
 実際、万葉はしょっちゅうゴンタとゴンチャロフの名前をとりちがえた。万葉は犬の前足を握って立たせた。
「だって、顔がゴンタくんに似てるでしょ?」
 ゴンチャロフは焦茶の目を細くして、自分の鼻を舐めた。ゴンタはめんくらった。
「おれ、こんなマヌケな顔してないよ。ねえ、オサカベさん?」
 犬とゴンタをみくらべて、オサカベはくつくつと笑った。ゴンタは心外だった。ズボンの左ポケットで、懐中時計がぬくもっていた。

     🐈‍⬛

 その晩、風呂に入るとき、ゴンタは懐中時計のことを思いだした。ポケットから時計をとりだして、脱衣所の明かりでよく確かめた。裏蓋の三列の文字は、漢文だった。
 
 
 
「しきしまの……やまとのくに……?」
 そこまでは、かろうじてゴンタにも読めた。万葉まんよう仮名がなだ。きっと、万葉集の和歌の一つにちがいない。こんど市立図書館で調べようと考えながら、ゴンタはシャワーを浴びた。
 網戸ごしに秋の虫の音がうるさいほどだった。部屋のベッドに座って、ゴンタは懐中時計の全体をあらためた。ボディの金属は細かい傷で曇っていたし、風防のガラスにこまかなひびはあったが、壊れてはいなそうだった。裏蓋をあけると、小さな歯車が垣間かいまみえた。ゴンタは胸がおどった。
 ゴンタは竜頭りゅうずをのばし、針を現在の時刻に合わせた。竜頭を戻して、慎重に時計回りに巻く。きりきりきりと発条ぜんまいのしまる気配がして、何十年かぶりに秒針が動きだした。
「やっぱり、昔の物ってしっかりしてるな」
 ゴンタは枕辺に時計を置いて、まわりに鎖をぐるぐると丸めた。夏掛けを腹までかけて、長い紐をひっぱって電気を消した。
 目をあけた。薄闇。ゴンタは眠りが深いほうで、夜中に起きることなんて滅多にない。でも、そのときは人の視線を感じたのだ。ベッドの横に、うすぼんやりと人影。男だ。その風体に、ゴンタはぎょっとした。毛皮つきの飛行帽にカーキ色の航空こうくう衣袴いこ、右の上腕に日の丸。日本兵だ。生きている人間じゃない、と直感した。
 ゴンタの体は指先まで動かなかった。これが金縛りか、と冷静に思った。瞼と目玉は動いた。声はでなかった。
 飛行帽の男が、顔を顔に寄せてきた。胸もとの白い襟巻き。男の顔は、若かった。ゴンタよりも、いくつか上だろう。少年といっていい年頃だ。ゴンタは息が止まりそうだった。
――カマクラタケゾウ
 少年兵がいった。その口は動かないのに、その声のイメージが浮かんだ。ゴンタは息だけで、どうにか喋った。
「(あなたの、なまえ?)」
 少年兵は、うなずいた。そして、黒い目でちらりと枕辺をみやった。
――マサキクアリコソ
 ゴンタは、はっと目をあけた。窓の外が白んでいて、寒蜩の輪唱がした。ベッドの横には、誰もいなかった。枕辺の懐中時計は、まだ動いていた。

     🐈‍⬛

 日が昇ってから、朝食のまえにゴンタは猫ひげ堂へ急いだ。ポストのなかの鍵を使って、勝手口からあがりこむ。年寄りのオサカベは、朝が早い。台所で滝縞を着たじいさんは、ベーコンエッグを焼いていた。
「なんだ、腹がへったのか?」
 ゴンタは首を振ったものの、思いなおしてうなずいた。腹はすいていた。オサカベは背の低い冷蔵庫から、追加のベーコンと卵をとりだした。台所の隅で黒猫の夜叉が、猫缶とごはんをあえた猫まんまをがつがつと食らった。フライパンの熱で白く濁ってくる卵白。ゴンタはとうとういった。
「ごめんなさい」
 オサカベは手を止めて、ひとつ瞬きした。こわかった。自分のしでかしたことで、この人との信頼関係に罅が入ったら……。ゴンタはポケットから懐中時計をだした。
「ごめんなさい。どうしても欲しくなって、勝手に持ってきちゃったんだ。これ、カマクラタケゾウって人の物だよね?」
 オサカベは時計を受けとって、しげしげと眺めた。
「どうして兄の名を?」
 ベーコンの焦げるにおいがして、オサカベは慌てて火を止めた。ゴンタは茶箪笥の戸をあけて、目玉焼きを皿で受けた。
 目玉焼き、サラダ、トースト、ヨーグルト……じいさんの朝食はいつも同じメニューだった。それを食べながら、盗みの顛末や、ゆうべの夢についてゴンタは話した。テーブルごしに、オサカベはマグカップを握った。
「私は四つで親戚に養子に出されてな、鎌倉かまくら姓じゃなくなった。兄は武蔵国むさしのくにの武蔵と書いて、タケゾウというんだ。タケにいは一番上のきょうだいで、私の九つ上だ。頭のいい、やさしい人だった。海軍の二飛曹で、終戦の春に鹿児島から飛びたって、それっきりだ。十八歳だった。骨も帰ってこなかった。そのころ、私は尋常小学校の四年生で、疎開先の榛原はいばらで蝶ばっかり捕ってた。いい気なもんだ」
 じいさんはコーヒーを含んで、軽くむせた。夜叉がオサカベの足にすり寄った。
「タケ兄が亡くなって、だいぶ経ってから生家に戻ったが、名字は戻さなかった。国や家の都合で振りまわされるのは、もうたくさんだったからな。昔はそういうことが、よくあったんだ」
 オサカベは老眼鏡をかけ、懐中時計を裏がえした。三列の文字。ゴンタはきく。
「それ、なんて読むの?」
敷島しきしま大和やまとの国は言霊ことだまさきはふ国ぞ真幸まさきくありこそ。日本の国は、言葉の霊力に守られた国です、どうぞご無事でありますよう。タケ兄は、帰ってくるつもりでいたんだな」
 爺さんは壁の日めくりをみやった。八月二十一日の木曜日だった。
「そうか、きょうは兄貴の月命日だったか」
 オサカベは愛しげに裏蓋の和歌をなぞった。爺さんがあまり怒っていないふうだったので、ゴンタは安心していた。
「じゃ、おれ、そろそろ……」
「待て」
 オサカベはしぐさでゴンタに着席をうながした。ゴンタはしぶしぶ座りなおした。
「正直にあやまったのは、えらかった。だがな、おまえがしたことは盗みで、良くないことだ。それはわかっているな?」
 ゴンタはうなだれた。「はい」
「したことの責任は、とらなくちゃな」
 責任。重石を胸に乗せられた気がした。ゴンタはおそるおそるオサカベをみやる。じいさんは夜叉を膝に、たくらんだように笑っていた。
「タイキ。きょうからひと月、うちの店で働きなさい。いままでのような、お手つだいとはちがう。本気で仕事しなさい。朝八時から、午後六時まで。楽ではないぞ。覚悟しておけ」
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