猫ひげ堂へ妖こそ

御厨 匙

文字の大きさ
上 下
4 / 10

㈣アメワラシ

しおりを挟む
 大気の状態が不安定で……とブラウン管の気象予報士がのたまった。おれの状態が不安定? とゴンタはわざと思った。ゴンタの本名は、権上だから。理屈はよくわからないが、天気が悪いのだとは理解できる。リビングの窓の外は、けさもどしゃ降りだ。
 雨降りはゆううつだった。外でドッジボールできないし、授業中はいつにもまして眠い。しかも梅雨入りはこれからで、夏休みはまだ一ヶ月も先だ。ゴンタは嫌いな食パンの耳にはちみつをかけて、一生懸命に齧った。
 午前八時きっかりに、ゴンタは倉田宅の呼び鈴を押した。ぴいぃーん・ぽおぉーん、といやにまのびした音がして、ゴンタはため息をついた。となりんちのシュンスケは、朝の支度がのろい。
 ゴンタは無心になって、水のしたたる傘で玄関先のタイルの目地をなぞった。だらだらと広がる水に目地が黒ずんで、ゴンタは水攻めにあった迷路をイメージした。はやく、早く、ここから抜けださなくちゃ。さもないと……。
 玄関のドアがあいて、シュンスケが猫みたいに全身で大あくびした。両手首の水晶の念珠がスチャッとずれた。あいさつするでもなく、ゴンタを待たせたことをわびるでもない。や、を、シュンスケの口でいわれたことがなかった。もう慣れっこだったが、シュンスケのそういうところをゴンタは好きではなかった。ゴンタの両親が礼儀にうるさいい人間だからかもしれない。
 五年二組の教室で、ゴンタは時計を睨んで、あくびを嚙み殺した。授業中の秒針って、なんであんなにのろまなんだろう。アインシュタインの理論と関係ある気がしたものの、ゴンタの平凡な頭脳じゃ証明できなかった。勉強は嫌いだった。なんの役に立つのかわからないからだ。中学へ行って、高校へ行って、大学へ行って、就職してサラリーマンになって、ついでに恋愛して結婚して子供ができて……夢物語だ。ゴンタには一年後のことだってうまく想像できなかった。ゴンタは放課後のことを考えた。黒猫の手ざわり、ほじ茶の香ばしさと、古びた本のにおい。そうすると、あくびが少しましになった。

     🐈‍⬛

 放課後、雨はやんでいた。ゴンタは生簀いけすから放たれた魚の気分だった。あくびも眠気もふっ飛んで、頭のすみずみまでクリアだ。通学路の途中、ゴンタとシュンスケと和泉は、バラ線の破れ目をくぐった。雑木林を抜けると、猫ひげ堂の庭だ。花菖蒲と猫鬚子ねこのひげの花。
 猫ひげ堂の書棚に、子供向けの本はなかった。ゴンタが読んでいるのは、『家紋事典』だ。碌にふりがながないから半分も解読できなかったが、ゴンタは夢中だった。勘定台のうえの提灯の紋は、揚羽蝶あげはちょうだ。おそらく店主の家紋なのだろう。ちなみに権上家の家紋は、鶴の丸だ。ゴンタはきく。
「シュンスケんちの家紋って何?」
「さあ」
 ゲームボーイをカチカチ押して、シュンスケは気のない返事。ゴンタはがっかりした。和泉は『華鳥譜』を読んでいた。
「和泉んちの家紋は?」
かじの葉、だったかな」
「どれ」
 ゴンタは梶紋のページをひらいてみせた。和泉が首をかしげると、さらさらのマッシュルームカットが揺れた。
「こっちか、こっちか。どっちだったかな」
 立ち梶の葉と、丸に立ち梶の葉の図を和泉は交互に指差した。ゴンタは云う。
「じゃ、和泉の先祖は神官なのかな」
「このへんが梶原っていうじゃない。だから、この家紋なんだってお母さんがいってたよ。先祖代々、ここが地元なんだ」
「へえー」
 ゴンタは感心した。勘定台の黒猫を撫でながら、店主のオサカベが口をひらく。雨で冷えるからか、きょうは雨絣あめがすりの着物に羽織を重ねていた。
「おまえはオイコス不動産の息子だな。和泉は母方の姓だろう」
 和泉の母親は、地元の不動産屋の社長だった。和泉はうなずく。
「そうです、父がおムコに来たんです」
「鎌倉幕府の成立には、信濃武士が多く関わった。信濃の諏訪すわ神社の御神紋が梶でな、だから梶紋は諏訪信仰の豪族に広まった。幕府執権の北条ほうじょう氏は、とりわけ諏訪明神みょうじんを信仰した。元寇げんこうのさいに神風が吹いてからは、諏訪明神は鎌倉武士にとってもと第一の大軍神になったんだ。おまえの先祖は鎌倉武士の誰かじゃないか。北条氏打倒をはかったいずみ小次郎こじろう親衡ちかひらという御家人ごけにんもいた」
「じゃあ、梶原って地名は関係ないんですか?」
「無関係ではないだろう。戦国の梶原景時かげときよりも昔からの、由緒正しい地名だ。当時は今よりももっと広く、深沢ふかざわ地域全体が加知波良かぢはらと呼ばれていた。その名のとおり梶の、つまりこうぞの原っぱだったんだ。梶原は北条氏の配下でもあった。だから、おまえの先祖は梶紋を選んで、今日こんにちまで伝えてきた。家に伝わる話は、大事にしたほうがいい」
 和泉は深くうなずいた。なんでそんなこと知ってるんだろう。ゴンタは提灯を指差す。
「その家紋、オサカベさんのだよね。揚羽蝶。平家と関係あるの?」
「これはかりそめのものだ。私の家紋というわけではない。蝶は平氏の代表紋のようにいわれるが、もとは大陸からやってきた流行りのデザインだったんだ。甲冑や車紋に盛んにもちいられ、かのみなもとの頼朝よりともも蝶紋を愛用した。卵・幼虫・さなぎ・成虫と生まれ変わる蝶は不死のシンボルだったし、それに単純に美しかったからだ。私は蝶が好きだ。猫の次にな」
 オサカベは口をゆがめた。このじいさんは秘密主義なのか、身のうえのことはちっとも話したがらなかった。ゴンタはつまらなかった。
 黒猫の夜叉がピクッと耳を震わせた。がらり、と店の格子戸がひらいた。いつのまにか降りだした雨が香った。真っ赤なレインコートを着た若い女と、同じく赤いレインコートの小さな女の子だった。その女の子に、ゴンタは目を奪われた。黒目がちの目がぱっちりして、赤い唇はぷっくりしていて、博多人形みたいに愛らしかった。たぶん、幼稚園にかようほどの年だろう。けれど、変な話だが、そこはかとなく色っぽさを感じて、ゴンタは胸がきゅっと熱くなった。女の子はゴンタをみつめた。ゴンタは目を逸らした。
 ゴンタははっとした。若い女を目のまえにして、オサカベは呆然としていた。このじいさんがあわてたり、われを失ったり、そんなことはありえないとゴンタは思いこんでいた。だから、オサカベと同じように驚いてしまった。この女は何者だ?
 若い女はきびしく張りつめた表情で、オサカベを睨んでいた。美人だった。おそらく、この女の子の母親なのだろう。女の子とつないだ左手の薬指に光るプラチナリング。
鈴木すずき香葉子かよこです。旧姓は櫻木さくらぎです」
 女はいった。オサカベはひとつ瞬きして、ゴンタたちにいう。
「おまえたち、きょうはもう帰りなさい。大事なお客だ」
 オサカベの言葉を理解したかのように、夜叉がすとんと座敷へ下りた。
 ゴンタたち三人は、傘を差して庭へでた。傘のままじゃバラ線はくぐれない。ゴンタたちは店のちゃんとした門から通りへでた。仙雲寺のべっぴん地蔵横丁だ。ゴンタはじいさんが心配だった。美人がこわい顔をしていたから。
「あれ、おっちゃんの愛人じゃねえの」
 シュンスケが真面目にいった。ゴンタはあさっての方向からドッジボールをぶつけられた気がした。愛人? 杉板塀の路地をシュンスケは歩きながら、体ごと振りかえった。
「昔つきあってた女でさ、別れるまえにニンシンしてて、これはあなたの子ですっていいに来たんじゃねえの。おっちゃん、ヨウイクヒとかセイキューされたりして。あの店、大丈夫かな」
 シュンスケは耳年増みみどしまだった。大人の事情はいまいちわからないながら、ゴンタは不安になった。オサカベは少なくとも金持ちにはみえなかった。猫ひげ堂が無くなるなんて、考えたくもない。和泉が首をひねった。
「スズキカヨコって、どっかできいたおぼえのある名前なんだよね。どこできいたんだったかな」
 女の正体がはっきりすれば、女の目的もわかるかもしれない。ゴンタは云う。
「旧姓がサクラギっていってたな。あの人、結婚指輪してたし、人妻だよな」
「でも離婚を考えてるとか、子供が原因で。それでカネがいるのかも」
 シュンスケがいった。シュンスケの母親はバツイチだ。和泉は考えこんでいたが、どうしても思いだせないようだ。ゴンタは不安をぬぐいきれないまま、傘の雨音をきいていた。タイキノジョウタイガフアンテイ、とゴンタは唱えて、傘の柄を握りなおした。雨で手が冷たい。
 一瞬、さっきの女の子のお人形みたいな顔が浮かんだ。胸がきゅっとした。

     🐈‍⬛

 翌日、シュンスケは両手で勘定台を叩いた。
「あの女の人って、おっちゃんの愛人だよな。あの女の子、おっちゃんの子だろ」
 オサカベは黒い目をぱちくりさせてから、くつくつと喉の奥で笑いだした。目じりが年寄りらしく皺くちゃになる。おかしくてたまらないって顔だ。シュンスケは機嫌を損なったようだった。オサカベは真顔に戻った。
「あれはな、雨女と雨童だ」
 アメオンナとアメワラシ。あの親子について、オサカベからはそれ以上の説明はなかった。ゴンタたちに話す気はないのだろう。ガキあつかいしやがって、とシュンスケはぷりぷりしていたが、しょうがない。実際、ゴンタもシュンスケも、たった十歳なのだ。
 関東に梅雨が始まっていた。その日も雨だった。ゴンタたち三人が猫ひげ堂についたとき、店からお揃いの赤いレインコートがでてきた。アメオンナとアメワラシだ。また来ますから、と女がいった。真っ赤な傘を一本ひらいて、手をつないだ親子は門をでていった。著莪しゃがの花。ゴンタたち三人は目くばせした。猫ひげ堂での遊びの時間と、アメオンナの正体への興味を天秤にかけ、三人は親子を追いかけた。
「ビコウするときはクツをみろってテレビで探偵がいってた。そうすると視線で気づかれないって」
 シュンスケがいった。尾行なんて刑事ドラマみたいだ。ゴンタはどきどきした。三人は三十メートルうしろから、親子の赤いレインブーツを睨んで歩いた。三人ぶんの傘が雨に鳴った。
 住宅街の曲がりくねった道を、親子はゆっくりと進んだ。幼子の歩幅は小さく、親子は紫陽花あじさいの花や水たまりで道草を食った。シュンスケがあくびした。和泉がいう。
「なんか、まどろっこしいね」
 だが、ぐずった女の子を、母親が抱きあげた。女は大人の速足で歩きだした。ゴンタたちはあせった。
 県道の交番前の横断歩道で、女は点滅する青信号へダッシュした。ゴンタたちは出遅れて、赤信号で足止めをくらった。赤いレインコートは、行き来する車の列にさえぎられた。シュンスケは舌打ちした。
「ビコウがばれたかな」
 信号が青に変わると同時に、ゴンタたちは水たまりを蹴って走った。赤い親子は、いなかった。ゴンタはため息をついた。三人は往生際悪く住宅街をうろついた。和泉がいう。
「でも、こっち方面の住民だってことはわかったね。鈴木って表札を探せば……」
は関東で一番多い名字だぞ」
 ゴンタはあきれた。和泉は勉強はお得意なものの、ちとピンボケだ。シュンスケが急に立ち止まった。シュンスケは大平原のチーターみたいな野生の顔つきをしていた。
「赤い子供がいる」
 え? とゴンタと和泉はつぶやいた。シュンスケが睨んだ路地の奥には、雨がけぶっているばかりだった。
 シュンスケが駆けだした。ゴンタと和泉はあわてた。急いで追いかけたものの、シュンスケは四年連続でクラス対抗リレーのアンカーだ。ついていくのは容易じゃない。とくに和泉は運動オンチだ。シュンスケと和泉の中間地点で、ゴンタは悩んだ。シュンスケについていくべきか、和泉といてやるべきか。
 思いやりよりも好奇心が勝って、ゴンタはぐんぐんと若草色のランドセルに迫った。ゴンタはスタートダッシュは鈍いが、スタミナはあるタイプだ。ランドセルの肩紐がきしんで、なかで筆箱が跳びはねた。
 もうちょいで追いつく……道を曲がったときに、シュンスケが急停止した。ゴンタは若草色のランドセルに追突し、すっ転びそうになった。ゴンタは水たまりでたたらを踏んだ。スニーカーが水びたしだ。文句をいいかけて、ゴンタははっとした。
 路地の数十メートル先に、赤い傘と赤いレインコートのうしろ姿。
「あっ、いた」
 背後から声がした。息を切らした和泉が、ようやく追いついたところだった。シュンスケはなぜか険しい顔つきのまま、早歩きで女を追った。
 ゴンタは何か腑に落ちなかった。赤いがいる、とシュンスケはいっていた。赤いがいる、ではなく。あの女の子は、母親に抱かれていた。なのに、まるで女の子ひとりで道を歩いていたようないいかただ。
 赤い女はなだらかな坂をずっと登っていった。和泉がつぶいた。
「ぼくんちのほうに行くね」
 そのあたりには庭の広い、こじゃれた豪邸が建ちならんだ。和泉一家の暮らす、丘のうえの高級住宅街だ。和泉の家は一丁目だった。
 娘をかかえた女は、とある家の門に入っていった。親子が玄関に消えるのを待ってから、ゴンタたちは門のまえへ走った。
 鈴木という表札。どうやら、ここがアメオンナの住処らしい。青い屋根のヨーロッパ風の屋敷には、大きなガレージがあった。
「カネには困ってなさそうだな」
 シュンスケはつまらなそうだった。和泉は笑った。
「このあたりの人なら、お父さんかお母さんにきけば、きっとわかるよ」
 ゴンタとシュンスケは、和泉ていへ押しかけた。白が基調の大邸宅は、著名なイギリス人建築家が設計したらしい。三十帖のだだっ広いリビング、ソファーでシュンスケは押し黙って両手首の水晶の念珠をいじっていた。和泉んちの雰囲気は苦手だとシュンスケはつねづねいっていた。ゴンタはふやけた裸足をのばして(ソックスは乾燥機のなかだ)、レモンスライス入りの紅茶のストローを吸った。和泉の母親の千歳ちとせがいれてくれたレモンティーは、格別な味だ。ふちなしメガネの千歳がいう。活動的なシャツブラウスにハイテンションパンツ。
「三丁目の青い屋根の家? そう、うちの物件よ。あそこは鈴木モーターの社長さんと、若奥さんね。何年かまえにお嬢さんが生まれて、親子三人のはずだけど」
「その奥さん、カヨコさんっていいます? 旧姓がサクラギで?」
 ゴンタは訊いた。千歳は首をかしげた。
「うーん、旧姓まではわからないけど……っぱのどもって書いて、香葉子さんだよ。港区の生まれだっていってたわ。お嬢さんは万葉集のって書いて、マヨちゃん」
 万葉ちゃんか……。ゴンタはあの子のことばかり気になった。シュンスケがらしくない遠慮がちな声をだした。
「その鈴木モーター、もうかってるんですか?」
「そうね。鈴木モーターは、大企業の子会社でね、自動車部品をつくってるの。親会社の株は値が堅いしね。あの家は七八〇〇万円で、たしか三十二年ローンだから、月々の支払いが二十ウン万じゃない。困ってるような話はきかないし、経営は順調なんじゃないかな。あそこ、大きなガレージがあったでしょう。瑞久みずひさの取材のために、一緒に見学させてもらったけど、戦後のクラシックカーが六台もあってね。まあ、どれも自分んとこの自動車じゃないのが笑っちゃうけどね」
 瑞久は和泉の父親の本名だ(小説用のペンネームは、ナントカ匙だ)。ヨウイクヒって線はないな、とシュンスケはゴンタに耳打ちした。耳がくすぐったいからやめてほしい、とゴンタは思った。和泉がいう。
「それで、その香葉子さんが子づれで、猫ひげ堂に通いつめてるみたいなんだ。なんだか事情があるみたいで。心当たりない?」
「仙雲寺んとこの、例の町家まちやでしょう。古物商だから、物を売り買いする相談なんじゃ?」
「でも、最初に香葉子さんが店に来たとき、オサカベさん、すごくびっくりしてたんだ。香葉子さんも、なんか怒ったような顔で……ねえ?」
 和泉はしまいをゴンタにいった。ゴンタはうなずいた。
「そう。鈴木香葉子です、旧姓はサクラギです、っていったんです。ふつう、初対面の人に、旧姓まで名乗りませんよね?」
「なら、初対面じゃないのかもしれないね」
「どういうこと?」
 和泉はいった。千歳は意味ありげに笑った。何かわかっているようだったけれど、ゴンタと和泉が問いかけても、それを話してはくれなかった。
 帰り道、雨あがりの空は柑子こうじ色に暗く焼けていた。ゴンタはいう。
「和泉のお母さん、ちょっとケチだよな。わかってるなら、教えてくれたっていいのに」
「ヨウイクヒじゃねえなら、なんでもいいんだよ。問題は、赤い子供だ」
 シュンスケがこわい顔でいった。ゴンタはざわざわと胸騒ぎがした。

     🐈‍⬛

 その次にあの親子が店に現れた日も、雨が降っていた。赤いレインコートを脱いだ香葉子に、オサカベは無言で床几しょうぎをだしてやり、ほうじ茶をいれた。帰れ、とはきょうはオサカベはいわなかった。ゴンタと和泉は興味津々で見守った。床几に腰かけた香葉子はまくしたてる。
「家に一日いて何やってたの? なんておさむさんたらいうのよ。あの人、専業主婦がヒマだと思ってるんだから。万葉だって、まだまだ目が離せないし、あれだけ広い家なんだから、ふつうに掃除するだけだって大変なのよ。8LDKよ。たまにはハウスキーパーでも頼まなきゃ、やってらんないわよ。でも、そうすると、あの人、イヤミいうのよ。家計管理も主婦のつとめだよ? って。自分はクラシックカーに一億以上つぎこんでるくせに。あんな飾っとくだけのクルマ、それこそ税金の無駄じゃない。ねえ、ちょっと、きいてるの? オサカベさん?」
「きいてる。まあ、茶でも飲め」
 オサカベはむすっとしていた。香葉子はほうじ茶を一息に飲みほして、夫への不平不満を次から次へならべたてた。ゴンタと和泉はうんざりしてしまった。座敷の籐の猫ちぐらで夜叉があくびした。
 ゴンタは和泉と霧雨の庭へでた。猫鬚子の白い花がしめやかに揺れていた。シュンスケが傘も差さず、赤いレインコートの万葉と池を覗きこんでいる。鮮やかな錦鯉の白・朱・金・黒……。万葉が持ってきたのか、シュンスケは食パンの袋を手にしていた。万葉は一枚のパンをこまかくちぎって、いっぺんに池へ落とした。パンくずめがけて、わっと鯉が群がった。激しい水飛沫に、万葉はきゃっきゃと笑った。
 ゴンタの胸に嫌なものがこみあげて、口のなかが苦くなった。嫉妬だ。よく知りもしない小さな女の子に対して、親友に恋人を横どりされたみたいに嫉妬している。ゴンタは自分自身がよくわからなくなった。和泉が叫んだ。
「ダメだよ、コイにパンくずは。消化が悪いから、おなかんなかでカビが生えちゃう」
「そうなの?」
 シュンスケは赤茶の目を丸くして、万葉の手からパンの残りを奪った。
「和泉のお兄ちゃんがダメって。お魚がビョーキんなっちゃうんだって。もうおしまい」
「やーん」
 万葉は駄々をこねた。シュンスケは両手で万葉のほっぺを挟んだ。
「ダメだ。ニシキゴイって、すげえたけえんだぞ。もし死んじゃったら、おまえのお母さんが怒られちゃうんだかんな」
 万葉はじわりと涙ぐんだ。シュンスケは右手首から水晶の念珠を抜いた。
「ほら。これ、やるから。ほんとのヒマラヤの水晶だぞ。お守りになるんだ。持ってな」
 透きとおった二十五粒の念珠に、万葉は目を輝かせた。小さな両手でしっかりと握って、それきり池の鯉には興味を失くしたようだった。シュンスケたちに傘を差しかけて、和泉は猫みたいに目を細めた。
「かわいいなあ。ぼくも妹ほしいなあ」
 万葉とたわむれる二人を、ゴンタは遠目に眺めていた。自分よりもずっと幼い相手に自然に関わっていける二人が羨ましかった。ゴンタは万葉になんと話しかけていいのかすらわからなかった。
 三十分ほどして、すっきりした面持おももちで香葉子が店からでてきた。
「ママ!」
ゴンタたち三人の輪から万葉が飛びだし、香葉子の足にしがみついた。万葉は念珠を掲げた。
「おまもり、もらったの」
「あら、きれい」
 香葉子は初めて三人組に目をとめた。香葉子が笑うと、月下美人の花が咲くようだった。
「あなたたち、うちの子と遊んでくれたのね。ありがとう。これは誰がくれたのかしら」
 シュンスケが黙って進みでた。ずぶ濡れのシュンスケに、香葉子はいぶかしい表情をしたが、すぐに隙のない笑顔になった。
「その子から目をはなさないでください」
 シュンスケはいった。香葉子は笑みを消した。
「母親なら目を離すなってわけ? よけいなお世話よ」
「そうじゃない。話は最後まできけよ、おばさん」
「おばっ……、失礼ね! あなたの母親よりはずっと若いわよ」
 香葉子の鼻に皺が寄って、般若の面のようになった。ゴンタははらはらしたが、シュンスケは動じなかった。
「赤い子供に気をつけてください。その子をつれていこうとするから」
 香葉子は、急に薄気味悪くなったようだった。万葉から念珠をとりあげると、シュンスケにつっ返し、娘をかかえあげた。
「行きましょう、万葉ちゃん」
「やーん、おにいちゃん」
 万葉はべそをかいた。シュンスケは叫んだ。
「その子を守れるのは、あんたしかいないんだぞ。しっかりしろよ、おばさん」
 香葉子はそそくさと門をでていった。シュンスケは返された念珠を握りしめ、いつまでも親子の消えた門をみていた。猫鬚子の花が揺れた。

     🐈‍⬛

 その日も、また雨だった。遠雷がきこえた。猫ひげ堂の座敷で、ゴンタたちは静かに遊んでいた(シュンスケはゲームボーイ、ゴンタと和泉は勝手なルールでチェス)。
 ボーン、ボーン、ボーン、ボーンと柱時計が四べん鳴った。勘定台のうえ、夜叉がピクッと耳を震わせた。
 がらり、と店の格子戸がひらいて、赤いレインコートが飛びこんできた。香葉子は血相を変えていた。
「オサカベさんっ。万葉が来なかった?」
 オサカベは椅子を鳴らして立ちあがった。
「いなくなったのか?」
「あの子、お熱があるのに、お守りのお兄ちゃんと遊ぶんだってワガママをいうから、叱ったのよ。そしたら、急に姿がみえなくなって。家にも公園にもいないし、あとはこの店くらいしかないと思ったんだけど……」
 シュンスケが畳に仁王立ちになった。
「手分けして探すんだ。早くしないと、つれていかれる」
 シュンスケは両足をスニーカーにつっこんで、外へ飛びだした。ほかの四人も続いた。
「おばさんは、もういっぺん自分ちのほう探しなよ。おっちゃんは、このあたりを探して。おれらは、まんなかへんを探すから。急いで!」
 店の門のまえ、シュンスケは叱るようにいった。大人ふたりは考える余裕もないのか、指差された方角へ駆けだした。
 ゴンタたちも三手に分かれ、県道を挟んだ住宅街一帯のあらゆる通りを探した。ゴンタは傘の柄を握りしめた。赤い子供ってなんなんだろう? 大仏殿そばのトンネルで、青い人がいる! と泣いた幼いシュンスケを思いだした。きっと、赤い子供もシュンスケにしかみえないモノなのだ。ゴンタは生まれて初めて自分に霊感がないことを恨んだ。はやく、早く、みつけなくちゃ。さもないと……。
 ゴンタはひらめいた。県道の交番へ行って、警察に応援を頼もう。大勢で探せば、あの子はみつかるかもしれない。ゴンタは走った。
 脇腹が刺しこむように痛かった。ゴンタは肩で息をして傘をたたみ、横断歩道前の交番のガラス戸をあけた。警察官は、いなかった。ご用の方はこちらの電話をお使いください、と貼り紙。ゴンタは迷わず一一〇番した。すぐにつながった。
『一一〇番センターです。どうされましたか?』
「女の子が、五才の女の子がいなくなったんです。探すのを手つだってください」
『行方不明の案件ですね。それは何分前のことですか? いなくなった場所は?』
「時間はわかりません。探しはじめたのは四時です。いなくなったのは鎌倉山三丁目の家で、今その子のお母さんと五人でまわりを探してて。ここは県道三二号の交番で……」
 ゴンタは絶句した。交番のガラス戸のむこうに、赤い影が映ったのだ。ゴンタはおそるおそる目をこらした。赤い子供……じゃない。あれは、万葉だ。赤いレインコートの万葉は、ひとりで横断歩道をわたってくるところだった。青信号が点滅していた。ゴンタは受話器を放りだし、しゃにむに雨のなかへ駆けだした。
「万葉ちゃんっ!」
 横断歩道のまんなかで、万葉はたたずんだ。信号が赤になった。
 ゴンタは無我夢中で、万葉の小さな体を掻き抱いた。運送会社の大型トラックが、速度をあげて迫る。まるでゴンタたちがみえないかのように。目のまえの巨大な車体に、ゴンタは体が竦んでしまった。ああ、かれる。
 どこからともなくシュンスケが飛びだして、ゴンタの数メートル先で水晶の念珠の両腕を広げた。シュンスケはトラックに吠えた。
「止まれえぇぇぇー!!!」
 トラックの運転手が目を剝いて、左へハンドルを大きく切った。悲鳴じみた急ブレーキ音、トラックが信号機の鉄柱にめりこんだ。隕石が落ちたかってほどの激しい音が、街にこだました。頑丈な信号機が、わずかに傾いた。
 ゴンタは瞬きを忘れた。息が苦しい……と思ったら、呼吸も忘れていた。ゴンタはぜえぜえと空気を吸った。髪の毛と服がしっとりと雨に濡れていた。腕のなかには、万葉のきゃしゃな肩があった。
「いたいよう」
 万葉がいった。ゴンタは腕の力をゆるめた。みたところ、万葉は無傷だ。つぶらな黒い目に、ゴンタは胸がきゅっとした。
「よかったあ」
 シュンスケがつかつかと寄ってきた。赤茶の目が怒っている。そう思った途端、拳骨を脳天にお見舞いされた。ずーんと骨に来る痛み。ゴンタは頭をかかえた。
「バカっ」
 シュンスケはいった。ゴンタの身を心配したのだろう。ゴンタがシュンスケを嫌いになれないのは、こういうところだった。
 トラックの運転席でふくらんだ白いエアバッグから、空気が抜けていった。運転手は鼻血をだして、気を失っているようだった。ほかの車両が事故車を避けて走っていった。歩道にちらほらと傘を差した野次馬。万葉をシュンスケに預けて、ゴンタは交番のなかで受話器を拾った。
「もしもし、すいません。交通事故って一一〇番で大丈夫ですか? 一一九番?」
 県道にパトカーと救急車のサイレンが響いた。騒ぎをききつけたのか、野次馬のなかに和泉とオサカベと香葉子の顔があった。ママ! と万葉は駆けだした。香葉子は膝を濡れた歩道について、わが子をしっかりと抱きとめた。オサカベの黒い石のような目が、泣きそうにみえた。ゴンタは不思議だった。シュンスケが内緒話の声音こわねでいう。
「なあ。おばさんって、おっちゃんの愛人なんだよな?」
 香葉子は鼻に皺を寄せた。「あなた、つくづく失礼ね。なんで私がこんな還暦すぎのおじいさん相手にするのよ。オサカベさんの愛人だったのは、私の母よ」
「そうなのっ?」
 シュンスケはオサカベにきいた。じいさんは苦笑いするばかりだった。
「だから旧姓を名乗ったんですね?」
 ゴンタはいった。そうよ、と香葉子はうなずいた。オサカベの目が泣きそうなわけが、わかった。香葉子はオサカベの娘で、だから万葉はオサカベの孫娘なのだろう。それで香葉子のらちの明かない愚痴にもつきあったし、店で万葉を預かったりしたのだ。このじいさんのことを、ゴンタはまえより好きになった気がした。
「だったら、オサカベさんじゃなくて、お父さんって呼べばいいのに」
 和泉がいった。香葉子はそっぽを向いた。
「父親らしいこと、何もしてもらってないもの。呼んであげるの、しゃくじゃない」

     🐈‍⬛

 ひさびさの空の青、梅雨の中休みだった。猫ひげ堂の座敷で、万葉はたどたどしくいう。
「まよね、おにいちゃんとこ、いこうとおもったの。おそとにでたら、あかいコがね、あそぼっていったの。まよとおなじ、あかいふくだったの。そのコがね、わらってるんだけどね、こわいおかおだったの。そのコが、まよのおててをひっぱったの。それでね、きづいたら、おにいちゃんたちがいたの」
「その赤い子供って、なんだったんだろうね」
 和泉がいった。シュンスケはいう。
「ほんとのアメワラシかもな」
 シュンスケは右手首から念珠を抜いて、万葉にわたした。
「いいか。こんどこわいって思ったら、これをにぎるんだぞ。そこの仙雲寺の和尚さんに念をこめてもらったから、たいていのこわいもんはみんな祓っちゃうからな。ずっと持ってろよ。約束だぞ」
 シュンスケは小指をつきだした。万葉はうれしそうに短い小指を絡めた。指切りげんまん。ゴンタはねたみの感情を、夜叉の毛なみを撫でまわすことでまぎらわせた。夜叉は迷惑顔だった。勘定台の奥の藍染ののれんが分かれて、オサカベの白髪頭が覗いた。
「もらい物の菓子がある。おまえたち、おあがんなさい」
 オサカベがほうじ茶の湯呑みと一緒にだしたのは、紫陽花の花を模した上等の練りきりだった。ゴンタたちは歓声をあげた。
 ボーン、ボーン、ボーン、ボーンと柱時計が四べん鳴った。夜叉がピクッと耳を震わせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いた詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

チェイス★ザ★フェイス!

松穂
ライト文芸
他人の顔を瞬間的に記憶できる能力を持つ陽乃子。ある日、彼女が偶然ぶつかったのは派手な夜のお仕事系男女。そのまま記憶の奥にしまわれるはずだった思いがけないこの出会いは、陽乃子の人生を大きく軌道転換させることとなり――……騒がしくて自由奔放、風変わりで自分勝手な仲間たちが営む探偵事務所で、陽乃子が得るものは何か。陽乃子が捜し求める “顔” は、どこにあるのか。 ※この作品は完全なフィクションです。 ※他サイトにも掲載しております。 ※第1部、完結いたしました。

【キャラ文芸大賞 奨励賞】変彩宝石堂の研磨日誌

蒼衣ユイ/広瀬由衣
ミステリー
矢野硝子(しょうこ)の弟が病気で死んだ。 それからほどなくして、硝子の身体から黒い石が溢れ出すようになっていた。 そんなある日、硝子はアレキサンドライトの瞳をした男に出会う。 アレキサンドライトの瞳をした男は言った。 「待っていたよ、アレキサンドライトの姫」 表紙イラスト くりゅうあくあ様

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

もっさいおっさんと眼鏡女子

なななん
ライト文芸
もっさいおっさん(実は売れっ子芸人)と眼鏡女子(実は鳴かず飛ばすのアイドル)の恋愛話。 おっさんの理不尽アタックに眼鏡女子は……もっさいおっさんは、常にずるいのです。 *今作は「小説家になろう」にも掲載されています。

サクラ舞い散るヤヨイの空に

志波 連
ライト文芸
くるくるにカールさせたツインテールにミニスカート、男子用カーデガンをダボっと着た葛城沙也は、学内でも有名なほど浮いた存在だったが、本人はまったく気にも留めず地下アイドルをやっている姉の推し活に勤しんでいた。 一部の生徒からは目の敵にされ、ある日体育館裏に呼び出されて詰問されてしまう沙也。 他人とかかわるのが面倒だと感じている飯田洋子が、その現場に居合わせつい止めに入ってしまう。 その日から徐々に話すことが多くなる二人。 互いに友人を持った経験が無いため、ギクシャクとするも少しずつ距離が近づきつつあったある日のこと、沙也の両親が離婚したらしい。 沙也が泣きながら話す内容は酷いものだった。 心に傷を負った沙也のために、洋子はある提案をする。 他のサイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより引用しました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...