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芽生え~彼此繋穴シリーズ短編~

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 あれが、魅音みおん

 心に吹いていた悲しい風が凪いだ。

 魅音は顔についた長い髪を手櫛てぐしで後ろに流しながら池の縁に近づいた。

 あらわになった顔はほりが浅く整っていて、僕より一回りくらい上のお姉さんが水遊びを止めたようにしか見えなかった。

 父は魅音に顔を向けたまま、僕に手のひらを向けて制した。

 僕はそれに従って階段の側で待った。

「やあ、魅音」父が穏やかに言う。「水の具合はどうだい?」

「大丈夫、とても綺麗」

 魅音が池の縁に手を掛けて、おとなしい音と飛沫しぶきを上げて水から上がる。同時に華奢きゃしゃな体を反転させて池の縁に座った。

 僕は魅音の体に目を奪われていた。

 ゆるやかにふくらんだ胸の先に桜色の乳頭がついていて、腰から下は白い大きな円鱗えんりんが重なるように並び、真珠のような光沢を帯びていた。

 本当にいるんだ――。

 紛れもない人魚の姿を目にして、僕は感動していた。

「用はそれだけ?」魅音が父に向かい言う。「お勉強はしないの?」

「するよ。ただし、今度は魅音が先生だ」

「わたしが?」

 父が僕に向かって手招きする。僕はゆっくり歩み寄る。

 魅音が僕に顔を向ける。赤い虹彩こうさい。僕はその視線に射抜かれて立ち止まる。

 心臓が鷲掴わしづかみにされたようになっていた。

「怖がらなくて良いよ」父がまた手招きする。「百鹿、おいで」

 怖々こわごわと父の側に行き背に隠れると、魅音が僕に顔を近づけて目を閉じ、息を吸った。首の側面で縦に並んだ、三つの横線のような切れ込みがぱっくり開き、珊瑚に似た桃色のヒダが露になって、風に揺られて、すぐに隠れる。

「良い匂いがする」魅音が言う。「あなたと同じ匂い。あなたの子供?」

「そう。そして君の生徒」

「生徒?」魅音が目を開けて父に顔を向ける。「何を教えるの?」

「ただ話すだけで良い」父が僕の肩に手を置いて言う。「百鹿、挨拶して」

 僕は、「こんばんは」と言って、視線を外さず頭を下げる。

 それは決して丁寧ではなく、むしろ失礼なものだった。けれど、魅音は僅かに笑んで挨拶を返してくれた。僕は魅音の表情に優しさを感じた。

 顔が熱くなる。受け入れてもらえたような気がして嬉しかった。

「この子、恥ずかしいみたい」魅音が父に向かって言う。

「わたし、何か変なことを言ったかしら?」

「いいや、何も変じゃなかったよ。とても上手な言葉だった」

「じゃあ、どうして照れているのかしら?」

「それは百鹿に訊くと良い」父がしゃがみ、僕と目線を合わせて言う。「百鹿、父さんは用事があるから、一度上に戻るよ」

「え、じゃあ僕も」

「駄目だよ。百鹿はここに残るんだ」

「どうしてですか?」

「お勉強の時間だからだよ」

 父は魅音に向かって、「少し頼むよ」と言うと足早に階段へ向かう。

「あ、父さん、待って」

 僕は父の背に向かい手を伸ばした。

 すると、「ねえ」と背後から魅音の呼ぶ声がした。

 僕は慌てて向き直る。魅音は首を傾げて口を開いた。

「どうしてそんなに慌てているの? さっきは恥ずかしがっていたでしょう? 今もそうみたい。赤くなっているわ。どうして?」

 僕は口を引き結んで俯いた。知らない人と話すのは恥ずかしかった。僕は父以外の人を知らない。自分が人見知りであることを初めて知った。

 沈黙を重苦しく感じていると、頬にやわらかくて冷たいものが触れた。

 僕は、「わっ」と声を上げて飛び退き、魅音を見た。

 魅音は驚いたように目を大きくして風海月を指差した。

「この子、あなたに頬ずりしたわ」

 僕に懐いた風海月が、ふよふよと近づいてくる。

 何だよ、君だったのか。

 僕は肩の力が抜けて大息を吐いた。

「よく懐いてるわね。もう長く一緒にいるの?」

「いえ」僕は風海月を指で軽く除ける。「ついさっき知り合ったばかりです」

「そうなの? とてもそうは見えないわ。何か特別なことをしたの?」

 僕は腕組みして首を捻る。思い当たることがなかったので首を横に振った。すると、魅音が口に手を当てて含み笑いを溢した。

「どうしたんですか?」

 訊ねると、魅音がはっとした顔をした。そして僕を見つめて言った。

「わたし、今、何してた?」

「え? 笑ってました」

「どうして?」

「どうしてって……」

 魅恩は僕の目から視線を外さなかった。僕はまた急に恥ずかしくなって下を向いた。
 
 
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