上 下
78 / 82
芽生え~彼此繋穴シリーズ短編~

しおりを挟む


 なめらかな石壁に囲まれ、天井からは鍾乳石が垂れている。床の半分ほどが池で、そのんだ水面が、風海月たちの青い光を揺らめきに載せて返していた。

 すっ、と白くて細長いものが池の中を通った。すぐに死角に入ってしまったのでよく見えなかったが、大きな尾鰭おびれひるがえっていた。

 魚だ! と僕は心で叫んだ。僕は初めて目にする生き物に胸を弾ませた。

 そんな僕の興奮を察してか、父がすかさず顔の前で人差し指を立てて言った。

「驚かせないように、小声でね」

「は、はい」僕は頷き、池を指差す。

「今、あそこに大きな白い魚が見えました」

「おしい。あれは魚ではないよ」

「え、じゃあ、何です? イルカですか?」

「いや、それも惜しいね。どっちも半分は正解してる」

「半分? まさか、人魚ですか?」

「そう、そのまさか。あれは家で飼ってる人魚だよ。名前は魅音ミオン。彼此だ」

「ヒコン?」

 僕は首を捻る。父が、「うん」と頷いて言う。

「彼の世のものが、此の世で体を得たものだよ。風海月と違って実体がある。彼の世で体を失った父さんとは逆だね」

「じゃあ、父さんはコンヒですか?」

「此彼?」父が小さく失笑する。

「安直だね。そんな風に呼ばれたことはないな。父さんはカエラズと呼ばれてる。不可能の不に、返還の還を合わせてそう読む。彼の世に長く留まり過ぎて、魂の奔流に拒まれた人間の成れの果てだよ。でも、彼の世の瘴気が抜ければまた奔流に還れるから、そんなに悪いものでもないよ。誰かにはらわれでもしない限りは、自分で還る時期を決められるんだからね」

「それって」僕は父の決して変わらない顔色を窺うように訊く。

「死なないってことですか?」

「ある意味ではそうだね」父が僕の頭を撫でて言う。

「父さんはもう体がない。それは死んでるってことだ。死んでるんだから、もうどうしたって死ぬことはない。後はいつ還るかを決めるだけなんだよ。百鹿とも、いつかはお別れしないとね」

 お別れ。

 それは、冬枯ふゆがれの中に一人佇むような、とても寂しい言葉だと感じた。離れたくないという強い思いが沸き起こり、泣きそうになった僕は父の足に抱きついた。

「父さん、還らないでください」

 慰めを期待した僕に、父は乾いた笑い声を上げて答えた。

「そういう訳にもいかないよ。ずっと此の世にいたら悲しいばっかりじゃないか。だけど、まぁ、百鹿がお爺ちゃんになるくらいまでは還らないだろうから、そこは安心すると良いよ。その安心は、いずれ辟易に変わるだろうけどね?」

 父が袖を軽くめくり、腕時計を見て言う。

「おっと、いけない。そろそろ魅音を紹介しよう。詰まってきちゃった」

 父は僕をさらりと引き剥がした。そして早足で歩き出し、池の縁で立ち止まると、水面に向かって小さく手招きした。

 すると、ちゃぽん、と小さな音をたてて、白髪で覆われた顔が水面に現れた。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

JOLENEジョリーン・鬼屋は人を許さない 『こわい』です。気を緩めると巻き込まれます。

尾駮アスマ(オブチアスマ おぶちあすま)
ホラー
ホラー・ミステリー+ファンタジー作品です。残酷描写ありです。苦手な方は御注意ください。 完全フィクション作品です。 実在する個人・団体等とは一切関係ありません。 あらすじ 趣味で怪談を集めていた主人公は、ある取材で怪しい物件での出来事を知る。 そして、その建物について探り始める。 あぁそうさ下らねぇ文章で何が小説だ的なダラダラした展開が 要所要所の事件の連続で主人公は性格が変わって行くわ だんだーん強くうぅううー・・・大変なことになりすすぅーあうあうっうー めちゃくちゃなラストに向かって、是非よんでくだせぇ・・・・え、あうあう 読みやすいように、わざと行間を開けて執筆しています。 もしよければお気に入り登録・イイネ・感想など、よろしくお願いいたします。 大変励みになります。 ありがとうございます。

雌犬、女子高生になる

フルーツパフェ
大衆娯楽
最近は犬が人間になるアニメが流行りの様子。 流行に乗って元は犬だった女子高生美少女達の日常を描く

サハツキ ―死への案内人―

まっど↑きみはる
ホラー
 人生を諦めた男『松雪総多(マツユキ ソウタ)』はある日夢を見る。  死への案内人を名乗る女『サハツキ』は松雪と同じく死を望む者5人を殺す事を条件に、痛みも苦しみもなく松雪を死なせると約束をする。  苦悩と葛藤の末に松雪が出した答えは……。

【R18】彼等の愛は狂気を纏っている

迷い人
ホラー
職を失った元刑事『鞍馬(くらま)晃(あきら)』は、好条件でスカウトを受け、山奥の隠れ里にある都市『柑子市(こうじし)』で新たな仕事につく事となった。 そこにいる多くの人間が殺人衝動を身の内に抱えているとも知らず。 そして……晃は堕ちていく。

日常の怪

怪奇 ひろし
ホラー
令和の日常に潜む怪異の話。

処理中です...