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日記

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 昭和二十三年 七月五日(月)晴れ

 女が帳面と鉛筆をくれたので、今日から日記をつけることにした。

 元は、家計簿として利用していたらしいが、三日と続かなかったそうだ。

 何を書いて良いか分からないので、これを貰った経緯から書いてみることにする。

 先日の夕方、俺は自転車に乗って女に会いに行った。

 汚れた川べりに建ち並ぶ傷んだ長屋。その場末の物悲しい細民窟を望む借家の二階に女は住んでいる。

 木塀に囲われた木造一戸建て。一階にはその家の所有者である家族が住んでいたが、町中に引っ越したので、今は誰も住んでいない。

 そこの親父さんは親切な人で、家を空ける際に、家賃は今のままで、今後はすべての部屋を使ってくれて構わんと言ったそうだ。

 その代わり、家が傷まないように掃除を頼むということらしいが、女は律儀にも掃除こそすれ、流しや便所が必要なとき以外は一階を使わずに暮らしている。それで十分なのだそうだ。

 自転車を止めて降り、ガラスの入った引き戸を開けて、

「ごめんください。お嬢、いるかい」

 と呼ぶと、向かって右側の階段から女が降りてきて、

「あら、良ちゃん、いらっしゃい。どうぞ、あがって」

 と笑顔で出迎える。俺は自転車を玄関の土間に入れ、二階に向かう女の後に続いた。

 部屋は、窓から溢れる斜陽の光で赤く染まっていた。貧しさが目に染みる切ない色だと思いながら中に入ると、女が亜麻色の長い髪を揺らしながら卓袱台を壁際の箪笥に寄せた。

 何をするのかと傍観していたら、押入れから布団を出して六畳間の真ん中に敷いた。

「お嬢、ちょっと気が早いんじゃないか」

 と言ったら、

「あら、他に何かしたいことがあるなら教えて」

 と、嘲るように返されて俺は失笑した。カーテンは開いたままだった。

 血に花が溶けたような匂いがした。汗と絡んで艶かしく香った。

 女のやわらかな肌に浮く、薄っすらとした桃色の膨らみが、また一つ数を増していた。

 ことが済んで、一緒に眠り、今朝、俺が起きたときには隣に女の姿はなかった。

 女はもう洋服を着ていた。昨日と同じ、夜の町でパンパンが客を引くときに着ている、上等な貫頭衣みたいな服だ。俺は女の服の名前をよく知らないし、無知だから、こういう貧相な表現しか出来ないが、そのひらひらした空色鼠の服は、女によく似合っていた。

 女は横座りして、窓辺に肩を預けていた。そして物憂げな顔で外を見ていた。

 俺は朝の光に目を細めながら身を起こし、シャツとズボンを身に着けた。

 布団を畳んでいると、女が朝飯をどうするか訊いてきたので、「いらん」と答えた。

 まったく腹が減っていなかったし、わざわざ用意してもらうのも悪いと思った。すると女は、

「そう」

 と寂しげに言って、また窓の外へ顔を向けた。

 世話を焼きたかったのかも知れないと気づき、甘えれば良かったと後悔した。

 俺は布団を押入れにしまい、卓袱台を部屋の真ん中に置いて、それを前にして胡坐をかいた。女に目を遣ると、女もまたこちらを見ていた。

 目が合うと、女は愛しい者を見るように微笑んだ。そして、ふと何かを思いついたような顔をして茶箪笥の前に行った。振り返った女の手には帳面と鉛筆があった。

「私、絵が上手いのよ」

 女は悪戯を企む子供のような顔でそう言って、帳面を開いて卓袱台に置き、俺の顔を描き始めた。一、二分すると、俺とは似ても似つかない漫画が出来上がった。

 面白くなって、今度は俺が女のことを描いた。途中で笑って、手が震えてしまった。

 女の描いた俺の似顔絵と、五十歩百歩だった。俺は絵心がないが、女が腹を抱えて笑ったので、これは一つの特技ではないかと嬉しくなった。

 それで、幾つかくだらない落書きをして笑い合ったが、不意に寂しさに襲われて手が止まった。

 この帳面も、金で買った物だ。物が貴重なこの時分に、これをそのまま落書き帳にしてしまうのは勿体無く感じた。

 価値で言えば大したものではないので、そんな風に思うのは大袈裟なのだが、その用途を情けなく思ってしまったのだ。

 それで、落書きをぼんやりと眺めていたら、女が笑って、

「良ちゃん、それあげるわ」

 と言った。俺は遠慮したが、

「私が持ってたって、仕方がないもの。貰って」

 と女が頼むので、断り切れず、有り難く受け取った。

 断れば、また女が寂しそうな顔をする気がした。正直なところ、それを見るのが嫌だから受け取っただけで、持っていても仕方がないのは俺も同じだと思っていた。

 貰うときに、女が満足そうに笑ったので、やはり断らなくて良かったと安堵した。

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