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SIDE 伊勢夏美(6)
しおりを挟む私は正木さんの誤解をどうやって解くかを考えていた。話せばわかってくれると思うけど、少し時間を置くことにした。今は取り付く島もないと思った。
考えているうちに、だんだんバリケードが見えてきた。耳に届けられる戦いの音も大きくなってきた。そして、防衛地点に着いた瞬間、私は後悔した。
通路や壁が、赤黒い血で染まっていた。焦げた跡もある。三日前に、従業員が燃えていた場所だ。そのときのことが思い起こされた。
私は一瞬で恐怖に呑まれていた。まただ。こんなはずじゃなかった。銃があっても、なんの意味もなかった。体が震えて血の気が引いた。
「さぁ、行こうか。目標はゴブリン一体を殺すことな」
隣に立つ正木さんが平然と言った。聞き間違いだと思って「え?」という声が出た。今の私が戦える状態にないことは、見ればわかるはずなのに。
「え、じゃなくて。ほら、あそこの覗き穴に銃身を差し込んで、よく見てトリガーを引く。君はここにそれをしに来たんだろう?」
私は絶句した。有無を言わせず戦わせるつもりだ。
従業員たちが慌しく動いている。薄く漂う饐えた臭いの中、怒鳴り声や魔物の奇声、銃撃音に悲鳴が混ざる。日本で暮らしていた頃の日常からは程遠い光景。
その中で、私は目を見開いて震えたまま一歩も動けない。
背筋を寒気が襲っていた。視線を下に向けようとしたとき、正木さんがパンパンッと二度手を叩き鳴らした。心臓が跳ね上がった。
「はい、すぐ動く。邪魔になるよ」
「あ、あの、少し時間をもらいたくて」
「気構えは来る前にしてるはずだ」
冷たく言われた。確かに気構えをする時間はあった。私はそのとき浮かれていた。それが悪いのだと正木さんが目で伝えてくる。自業自得だと。
口の中が渇いていた。こんな状況で平然としていられる正木さんは異常だ。心の何処かが壊れている。私にこんな仕打ちをして、罪悪感を抱いた様子もない。
怖い。すごく怖い。けど、見放されたくない。一緒にいたい。
どうしようかと戸惑っていると、正木さんが痛みが走るほどの強い力で私の腕を掴んだ。振りほどく間もなく、強引に覗き穴まで連れて行かれた。
「ほら、覗いて。銃身載せて」
断ったらそこで全てが終わる気がした。これまでの自分の行動が恨めしかった。私にはもう後がない。見放されたくなくて、恐る恐る、言われたとおりにする。
「うっ、うぷっ」
覗き穴の向こうを見た途端、私は吐き気を覚えた。こちらよりも酷い状況だった。飛び散った肉片のようなものが見えた。共食いしている。
私は口元を押さえて逃げた。でも、すぐに足の力が抜けて膝を着いた。体を支える為に咄嗟に着いた手が痛かった。心臓が冷たくなって目眩がした。
胃から食べたものが上がってきた。止めることができずに嘔吐した。従業員が袖で鼻を覆ったのが横目に見えた。カレーなんて食べなきゃよかった。
【なっちゃん、ああどうしよう】
ジェイスの声が聞こえた。私はまだ吐いていた。喉が痛んだ。自分が吐いたものの臭いが気持ち悪くてまた吐いた。
【困ったな、誰か手を貸しておくれよ】
呼び掛けに応じる人はいなかった。誰も手を差し伸べてくれない。惨めで涙が出た。手を貸されても素直に受け入れられるかわからなかった。
吐くだけ吐いて、息を整えながら困惑する。吐いたものをそのままにはしておけない。私は何をしにここに来たのだろう。
嗚咽が漏れた。情けなくて仕方なかった。掃除するものはどこにあるのだろう。ジェイスならどうすればいいか教えてくれるかもしれない。
「助けて、ジェイス」
掠れた声で呟いたけど、返事はなかった。ジェイスにまで見放されたのかと思って、焦って周りを探した。ジェイスは正木さんの側にいた。
絶望感が押し寄せてきた。皆、離れて行ってしまう。私の周囲に従業員の姿はなかった。私を中心に、人を寄せ付けない何かがあるようだった。
悲嘆に暮れていると、テープでぐるぐる巻きになったドローンのようなものが私の側に飛んで来た。小さなテーブルが飛んでいるように見えた。
【伊勢さん、大丈夫ですか?】
そのドローンから、エレスの声がした。正木さんのサポートAIだ。どうしてこんな姿になっているのだろう。またわからない。
けど、そんなことはどうでもよかった。気遣いの言葉が嬉しかった。胸が苦しくなって涙が止まらくなった。大丈夫だと言いたいのに、言葉が出てこない。
【もう気持ち悪くありませんか?】
「はい、はい」
私は本当に小さな声で言った。絞り出すようにして、やっと出せた声だった。聞こえているか不安で何度も頷いた。ジェイスも戻ってきてくれた。
【なっちゃん、立てる?】
「うん」
【回収が済んだので、私はマスターのところに戻ります】
【エレス、ありがとう。恩に着るよ】
【お礼はマスターに言って下さい。伊勢さん、無理はしないで下さいね】
優しく言い残して、エレスが飛んで行った。そこで、私が吐いたものが消えていることに気づいた。跡形もなかった。臭いまで消えていた。
驚いてジェイスを見ると、【正木さんがエレスに掃除をお願いしてくれたんだよ】と言った。それを聞くと、また涙が出てきた。
正木さんにお礼を言わなければ。何もしないまま終わる訳にはいかない。助けてくれたんだもの。そう思いつつ、私は立ち上がって振り返る。
そして、愕然とした。
正木さんが、手を使わずにバリケードを駆け上っていた。そして三メートルはある急な傾斜の壁を軽々と上り切ってしまった。従業員がわっと声を上げた。
【エルバレン商会従業員の皆さんにお伝えします。私のマスター、命知らずのセイジ・マサキからの指示です。『左のハイオウガを狙え。一体ずつ仕留める』。繰り返します。『左のハイオウガを狙え。一体ずつ仕留める』。ご協力お願いします】
「セイジの指示だ! 左を狙うぞ! 右は牽制で止めろ! 間違っても減らすな!」
「お前ら聞いたか! 雑に狙うなよ! セイジの邪魔だけはするな!」
「馬鹿共の所為で三体同時に相手するとこだったんだ! 助かったぜセイジ!」
「ヨハンさんが来ねぇからどうなることかと思ってたんだ! ありがとよ!」
ドローンみたいになったエレスが従業員たちに指示を出していた。従業員たちが歓声を上げて動き出す。正木さんがいるだけで皆が笑顔になった。
異常の意味がわかった。正木さんは、私とはなにもかも違うんだ。
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